あけぼの

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ボロボロ152歳の旅は悲喜劇だった

2011-08-31 18:27:57 | アート・文化

 バルト3(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)に行って来た。フィンランド・エアーが安いのでヘルシンキに入り、ヘルシンキも2日間見て後、船でエストニアの首都タリンへ。11日間で4カ国、しかも年も忘れての欲張り見て歩きだったからさすがに疲れた。出発直前に持病の胃痙攣、大物に襲われたので、海外で医者もありうると、しっかり保険をかけて出かけた。消化器系の入口から出口までボロボロの妻と記憶力・好奇心の減退等、精神科系がボロボロの夫、ボロボロ系夫婦152歳の旅のなりゆきは?

タリンのOld Cityはとんがり屋根に囲まれたきれいなきれいな街で自然石の石畳、隅から隅まで、足が言うこと聞かなくなるまで歩いた。筆者は本当にこのタリンは好きだった。ところが夫、自悠人はお城とアレクサンドル・ネフスキー聖堂を見ただけで、「もう歩かん!ホテルで寝るぞ!」。ホテル移動中だったので自分のリュックが背にあるのに、筆者のリュックをもぎ取り、その上手提げ袋も持っていたがバイバイして歩きだしたので旧市街のど真ん中で別れた。大丈夫かな?暫くこっそり後をつけたが、時間が無いので筆者は道端に並んでいる桟敷カフェを横目に、石畳の坂道を心行くまで歩き続け、遅くにホテルに着くと…夫は迷いに迷ってやっとホテルに着いたのだという。遺跡を見て歩く方が楽だっただろうに。

口げんかしながらタリンからラトヴィアのリーガへは5時間のバス、リーガも去りがたいほど美しい街だった。ここからも長距離バスでリトアニアのヴィリニュスへと移動、最後はここで飛行機のチケットを買い、ヘルシンキへ戻る、という旅、いずこの国でも妻、筆者は疲れた足を鞭打ち、なお歩き廻り、夫はやたらと抵抗して道端に座り込んだりした。夫:「どこを見ても同じに見えるしすぐ忘れてしまう。来年からもう絶対旅はしないぞ!」(じゃあ結婚50周年記念地球50カ国千鳥足プロジェクトはどうなるの?)妻:「アンタハンが止めたらあたしだけでも続けまっせ。決めたことは絶対やりますぞ!2人合わせて152歳といっても「あっちが100歳、こっちは残りの数の年です(?)からお手柔らかにしてあげようか。胃痙攣は海外で遠慮してくれたことだし、感謝。(彩の渦輪)


月下美人Part III

2011-08-14 13:47:56 | アート・文化

003 昨年に引き続き同じ茎から今年も咲いた。昨年は1012日だったが、今年は2か月早い8月の同12日の夜だった。今回は一本の茎に3個の蕾をつけた。そのうちの1個が今夜開花した。蕾はぶら下がるように伸びきっていた。開花時期が近づくと蛇がカマ首をもたげるように蕾が上を向きふくらむ。開花後は花の重みで水平になりそして満開となる。香りは強烈で原始的などぎつい匂いで始まる。花は大きく純白だ。

これが一晩で萎えるのだ。短命だから鑑賞の対象として人の心を射るのだ。ビールを飲みながら花の命と我が人生を比較する。短いほどその刹那美に価値が伺え、賞賛され、余韻を残す。人生もかくありたいものだ。

 今年も鉢と茎の安定感が悪く、風で倒され中の土が飛び出してしまった。鉢を替えて祈るような気持ちで育てた。「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」か。だが残りの2個も明日開花するだろう。アメリカでも月下美人を育てた。コロラドの美江子宅から頂いて挿し木をしたもので一回は咲いた。今は隣のスーザン宅で咲いているだろうか。気がかりなところだ。彼女はムーンライト・カクタスと命名したようだが。

 一晩の花の命をいとおしみ、次の開花に期待を託して見つめる我が心情。愛情以外の何もない。自悠人 


地下鉄で郊外の大学へ就活~アゼルバイジャン~

2011-08-12 09:45:26 | アート・文化

104 アートカレッジの学生たちと

 乙女の塔(メイドゥン・タワー)は世界遺産、近くには遺跡が多い。この塔は旧市街にあるが、ある王様が実の娘に求婚、娘は時間稼ぎにこの塔建設を依頼、塔が出来ても父の気持が変わらず、この塔から身投げして死んだという伝説がある。この近くで若者グループが絵を描いていた。夫は絵が好きなので仲間になった。アートカレッジの一年生だった。学生たちが絵のコメントを求め、会話が弾んだ。育ちが良く親日的で、乙女の塔からシルヴァン・ハーンの宮殿と廟まで案内してくれた。写真を撮ったらFacebookに載せて欲しいというので載せたら代表や仲間からお礼状と「いいね!」が沢山届いた。今もフェイスブックで会話が続いている。可愛い友人は嬉しい。ホテルの6人の若い有能な受付たちが筆者に「アゼルバイジャンに来て日本語・日本文化を教えてください。必ず学生として登録します!」というのでその気になり地下鉄でディラー大学という外国語大学に行ってみた。地下鉄はロシア同様ホームは大変豪華、だが列車は時々止まったりするオンボロだった。学部長さんに会い就活をしておいたので筆者はそのうちアゼルバイジャンで教えているかも知れない。(彩の渦輪)


柳も身もだえカスピの街 ~アゼルバイジャン共和国~ 

2011-08-11 05:37:48 | アート・文化

134 バクーの旧市街(世界遺産)はぐるり取り巻く城壁の中

「火の国」と呼ばれるアゼルバイジャンの首都はバクー、「風の街」という意味だ。カスピ海から強風が吹きつける。海岸公園の松は全て西向きに平行に傾き美しい。予約していた「ノアの箱舟」ホテルは高い城壁に囲まれた旧市街の中にあったが、窓外の柳は朝な夕な大枝ごと乱舞していた。6人の受付は皆美男でフレンドリー、日本人客は我々が最初だった。「日本とアゼルバイジャンはアルタイ語族で親近感を覚える」と共通点を強調、すぐに全員が日本語の会話を覚えて挨拶し出した。この城壁の中では強風のみならず数々の出会いが渦巻いた。古くから「火の国」の石油を求めてやって来た隊商が通ったというシェマハ門を潜るのは楽しく、隊商宿や世界遺産もある旧市街は安全でほっとする素敵な場所で老いも若きも津波見舞いを口にした。「日本人?バクーを案内してあげます」と、何人からこの言葉を聞いたことだろう。

ところで、日本人には親切なこれらの人々が「ここにアルメニア人が歩いていたらきっと殴り倒す」と言うので驚いた。隣国アルメニアの中にアゼルバイジャンの飛び地がある。「なぜ?」とホテルの受付で夫が尋ねると、暫く仲間と顔を見合わせ躊躇した後、意を決して話しだしたことは、アルメニアとの悲しい関係だった。アルメニア人による虐殺事件の年号と地図を書き示しつつ、「故郷を追われ、両親とバクーに出て来た」のだと言う。受付の2人までがそう言った。飛び地の理由だが、もともとその一体はアゼルバイジャンだったが、ソ連の後ろ盾でアルメニアに取られ、僅かの地のみ飛び地として残ったのだ。隣国アルメニアとは紛争の歴史が長く、虐殺記念日もあり、現在も国境が閉ざされたままなので、同じ国なのに直接行けずイランを通って大回りするのだという。我々もアルメニアからグルジア経由でこの国に来た。当時のソ連主導の試みは破綻、コーカサスの人々の心は分断されたままである。カスピ海の風は木々も人心も身もだえさせている。(彩の渦輪)


傘寿に届く黄金の手

2011-08-07 09:40:57 | アート・文化

最近は歳のせいか早朝目覚める。ジーと両手を眺める。骨太の痩せた手、2~3ミリ浮き上がった血管が際立つ。浅黒く日焼けして丈夫そうに見える。顔と違ってシミはない。掌は血色がよいが指には縦皺がある。まあ健康な手だろう。14年前のことが、脚立の最上部から落ちて右手で身体を支えたためこの手が外れて手首からぶら下がった。救急で運ばれてレントゲン撮影で正常位置を確認しながら引っ張り、ギブスをかけられた。「60歳を過ぎているので完全には機能回復しない」といわれた。後のリハビリが大変だった。痛くて辛い思いをしたことは忘れられない。今は殆んど正常に動く。

 さて、他人より大きいこの手、伸縮しない手袋は使えない。外出時には苦労した。寒くても辛抱するだけだった。48歳のころ左右の手の握力は41、ノンプロ野球のキャッチャーほどあった。とにかく腕力は人並み以上だった。若い頃に百姓の手伝いをしていたからだ。背筋力や肺活量は衰えたとはいえ平均以上はあるだろう。今と違って20代は作業に手袋などしたことは無い。爪には土や木くずなど入っていて黒色に染まっていた。それが当然と思って仕事をしていた。多少の切り傷、擦り傷、打ち身など消毒もせず水で洗い流すだけ、治癒は自らの免疫力だけだった。健康はありがたかったが、今の健康は若い頃力仕事をしたからだと思う。

人の手にはその人の歴史が刻まれている。器用、不器用を手先のせいにする人が多いが、指先が太くても器用な方だった。大工仕事や工作は得意だった。物を曲げたり折ったり掴んだり、と、大きい手は便利だった。鍬を握って畑を打ちこむ、肥料を掴んで撒く、などの農作業もした。薪を掴んで運び、まさかりで割った。下木刈りで鉈を振りおろし、枝木を束ねる山仕事など、手袋せずによく働いたこの手。社内野球で一塁守備の折り、飛んできたボールを咄嗟に素手で掴み、珍プレイ賞をもらったことがある。グローブより素手が早く出たのだが、賞を得たのはこの手だ。ある時期には関連会社の社長として、午後の眠気がつく頃よく現場を手伝った。おばちゃんたちには重い金属部品の入った箱を運ぶのは負担ゆえ手伝いをした。そのせいか握力維持と背筋力が鍛えられた。アメリカ生活20年間中、毎年11月はレイク(熊手)で落ち葉をかき集め捨てるためにクリークまで運んだ。12月になると80mのドライヴウエイの雪かきだ。雪の量によっては2時間以上費やした。よく働く手だった。8月には日本に帰って植え木刈りをしたものだった。暑い最中、流れる汗を拭きもせず1週間で2つの家の庭木を剪定した。松の剪定では他家の木まで手伝った。

何もやらなくなれば皺だらけの貧弱な手になるだろう。精々絵筆が使える華奢な手に。注意力、集中力の衰えと共にいずれは労働力としては役立たない力の失せた手に代わっていくだろう。当然なのだろうか、司令塔の脳にやる気がなくなった今は剪定を1日延ばしに延ばしている。黄金の手も意思には勝てないのだろうか。(自悠人)