あけぼの

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コール元首相死去に蘇った8年前と24年前の東ドイツの思い出

2017-06-20 07:50:58 | 講演・アート・音楽・スピーチ

「ベルリンの壁」が壊されて間もなくの1993年1月、24年前、61歳で、本格的バック・パッカーとして東ドイツ、チェコ、スロバキア、ルーマニアを旅した。当時は兵隊の姿が街頭に多く見られ、品物は売ってやるのだといった威圧的態度で、サーヴィス精神のかけらもないように感じた。特に東西ベルリンの経済格差は大きくスッポンと月、東側では薄暗い街を垢抜けしない人たちが暮らしているという印象、同じ毛皮のコートを着ていても野暮ったい感じだった。両替所もなく、ツーリスト・カウンターで両替し、ホテルの場所を聞き、歩くこと数10分、とんでもない間違いでまた地下鉄に乗りなおし、訪ねたホテルは東側の中心地アレクサンドリヤ広場、ということもあった。繁華街といっても崩れかかり黒ずんだ建造物が多く、暗い世相をまだ引きずっていたが、どこでも多くの人々の親切に支えられて旅が出来、感謝の念で一杯だった。国の体制がどうあれ人々の思考や行動は同じと知らされた旅だった。50年にわたる弾圧の歴史を想うとき日本人に生まれた幸せを感ぜずにはいられなかった。荷物を預け100番バスで旧西側に行ったが、商店街は賑やかでサーヴィスもよくアメリカと同じだった。一か所だけかつてのベルリンの壁が残されており、壁を挟んでの東西の街自体、余りにも違いすぎ、その差に愕然とした。

 8年前のベルリン訪問ではもう過去の面影はなかった。16年の歳月は過去を一掃し、駅舎も3階建ての近代ビル。二階建てバスに乗ったが、旧西側、東側の区別の説明はなく16年前のほうがそれなりによく見聞したと思った。新生直後の印象や感動のほうが強かったのだろう。ベルリンから列車で夜8時にライプツィヒ到着、ここも再訪だ。建物が余りにも立派に変わり、人々の暮らしに相乗して変わる環境というものを見せつけられた。寺院はどこも改修工事が行われていた。街の復興はまず信仰からかと、宗教の位置付けを知らされた。ここは突出した音楽家を生んだ街、シューマンやメンデルスゾーンの家訪問についてはワイフが記した。(自悠人)

写真 ブランデンブルク門



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