あけぼの

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調布で生まれた名曲『思い出のアルバム』を歌いに行き特別の出会いがあった!

2017-11-30 10:33:19 | 講演・アート・音楽・スピーチ

    「第5回親子で歌い継ぐ日本の歌百選を歌う会」が23日、つつじケ丘児童館ホールであり顔中口にして歌って来た。筆者はこの会の記事が新聞に出てすぐに寄付をしたので毎年招待状が届く。「思い出のアルバム」と「今日の日はさようなら」は調布で生まれた歌だ。約2年前当Blogで「今日の日はさようなら」についてはエピソードを紹介したので割愛するが、「思い出のアルバム」、「今日の日はさようなら」をはじめ、良い歌、懐かしい歌を歌いたい人たちで会場はほぼ満員だった。今回は子どもたちによる筝演奏、手話ダンスクラブのパフォーマンス、純愛ロケットの賑やかなバンド演奏、等、ショウ的出し物が多く、参加者が一緒に歌う時間が少なかったのが不満だったが、「あの町この町」、「江戸子守歌」、「かあさんのお歌」、「こいのぼり」、「幸せなら手をたたこう」、「早春賦」、「ドレミの歌」、「花の街」、「蛍の光」、「夕日」、そして勿論調布で生まれた「思い出のアルバム」や「今日の日はさようなら」は何度も歌う機会があった。特筆すべきは来賓の福増山常楽院住職、本多祐昭さんのスピーチだ。「思い出のアルバム」は彼の「祖父、鉄麿さまが作曲なさったのだ」と。席に戻られてすぐ厚かましくお願いした。近距離なら本日お開き後、貴寺を訪問させて頂き、ご祖父様のお写真を拝見したい」と。温顔の住職さまは快諾くださり、つつじが丘駅から近い常楽院へついて行った。つつじケ丘駅ではなんと列車接近メロディーとして「思い出のアルバム」が聞けたのだ!お寺の門前にはこの歌の歌詩とメロディーが刻まれた歌碑があり、本堂で作曲者、本多鉄麿氏の写真を見せて頂けた。ベレー帽を被ったおしゃれな鉄麿さんは歌のムードそのままの抒情的の雰囲気のお方、現住職の祐昭様とも共通する優しい表情のお方だった。帰路はもちろん、つつじケ丘で電車を待ってこの曲を聞き、車中でも自宅最寄駅に着いてからも、ず~っと童謡、「思い出のアルバム」をくちずさみながら家路を辿った。「い~つのことだか おもいだしてご~らん~あんなこと~こんなこと~あったでしょ~うれしかったこと~おもしろかったこと~いつになっても~わ~すれない~……嬉しい出会いに感謝しながら。いつになっても~わ~すれない~!(彩の渦輪)

写真2.思い出のアルバムのお寺、天台宗常楽院前の歌碑 3.作曲者本多鉄麿氏 4.現ご住職本多祐昭氏




お笑い「天草物語」:どっちを冷やして“お召し上がるの”?

2017-11-29 18:46:13 | 講演・アート・音楽・スピーチ

天草なるものをいただいたので料理に挑戦した。袋には、「つるっとおいしい」という宣伝文句の下に麺類がお椀に渦巻く絵がある。沸騰した湯に天草を入れ、分量の酢を入れた。「ふきこぼれないように25分間炊き、焚き終わったら鍋に布巾を敷いて、煮汁を濾して、冷やしてお召し上がりください」と印刷されたレシピ通りに調理し、濾した天草を冷蔵庫へ。鍋一杯の煮汁は翌朝、夫に外の畑に捨ててもらった。そしたら、夫:「ジェリーのようなベロンとした大きな塊が山のように盛ったので泥と混ぜておいたよ!」 私:「え?茹で汁は液体ではなかったの?ひょっとしてそっちを?……」と、外の畑でベロンの山を見たら、畑が「ご馳走様!」と言ったような気がした。冷蔵庫の天草をつまんで味見したがパサパサ。ポン酢で味付けて食しても感動しない味。レシピを読み直したが「……煮汁を濾して、」のあと、「冷やして」の前に、「天草を」か「煮汁を」かは書いて無い。ただ、「冷やしてお召し上がりください」だけ。はてさて頂くのは天草?煮汁?どっち?(彩の渦輪)写真2は30分炊いた天草


華やいだフードアナリスト協会12周年記念Party

2017-11-27 15:18:06 | 講演・アート・音楽・スピーチ

多忙の日々のおまけに浴槽の縁で胸を強打し、呼吸は苦しく安眠もあたわず、だったが、そろそろ日常のリズムを取り戻しましょう。先週、映画エルネストを見たあと、サライの取材には、「熟年さん、言葉が駄目でも飛び出せますよ!」というような内容で夫婦で話をし、その後ホテルニューオータニへ。夕方からザ・メイン「edo ROOM」で参加者150以上の大パーティーがあった。高校の後輩、横井さんという人が社長をしている会社、日本フードアナリスト協会の創立12周年記念パーティーがあったのだ。参加者の多くは食品業界から。横井氏が、「郷里鳥取県の高校の大先輩にあたる」と紹介した山田憲典山崎製パン副社長兼不二家代表取締役会長」等、著名人も祝辞を述べたが、山崎氏は横井氏の先輩なら筆者の先輩にもあたる筈。結構なお年だったがご挨拶に迫力が感じられた。若いフードアナリストも多く、舞台には次々と可愛らしい女性たちが登場、優秀なアナリストの表彰式が続き、何とも華やいだPartyだった。「食の情報」の専門家、(社)日本フードアナリスト協会のパンフレットによると、フードアナリストという資格は、「食文化への造詣を深める」4級(*覆面モニター、*ブロガー、イベントへ参加、*グループインタビユー、*座談会、*TV・ラジオへの出演Etc.)、「フードアナリストの中核メンバーとして活躍」する3級(*食育講師、*日本箸教育講師、フードライター・フードレポーター、*エキスパートグループインタヴューEtc.)、「上級フードアナリストとして必要な知識を学ぶ」2級(*レストランアドヴァイザー、*フードアドヴァイザー、*認定講師Etc.)…とある。活躍しているフードアナリスト、料理教室主催者、食育Teacher、箸講師等から、「学生時代に取得したが異業種交流会で役立つ!」、「世間の評価が変わった!」、「TV出演チャンスが多い!」「仕事の輪が広がった!」「フードライターの仕事が来る!」Etc.の声が。就職、転職に役立つだけでなく人間的魅力Upに繋がる等、力を発揮する資格のようですね。(彩の渦輪)

  写真1.社長、横井氏の挨拶 2,3.4.Party風景 5.ホテル・ニュー・オータニはもうクリスマスムード


革命に身を捧げる「エルネストERNESTOもう一人のゲバラ」、涙止まらず

2017-11-22 15:50:45 | 講演・アート・音楽・スピーチ

出版のための最終校正で多忙になる前日の16日、日本・キューバ合作映画、「エルネストERNESTOもう一人のゲバラ」を渋谷のアップリンクへ見に行った。小さな映画館だがこの映画はここでしかやっていなかった。キューバ革命後の1959年、チェ・ゲバラ(以下エルネスト)はキューバ使節団長として広島を訪問し、平和記念公園で献花している。エルネストは国連総会でキューバ代表として演説し、コンゴ遠征、極秘裏にキューバに戻りゲリラ戦訓練、その後戦地ボリビアへ。エルネスト役の俳優、ホワン・ミゲル・バレロ・アスコタは本物にそっくりだ。オダギリジョー扮するフレディ前村はボリビアで生まれ、心優しく正義感が強い日系二世、社会の不平等是正や生活困窮者救済を胸に抱きつつキューバ留学して医学を学んでいたが、キューバ危機で戦闘訓練、ゲリラ訓練に参加し、ある日エルネストと会い言葉を交わし、心底惹かれる。1966年11月、エルネストもフレディも戦地ボリビアへ。フレディはエルネストからエルネスト・メディコ(医師)という戦士名を授けられる。フレディはエルネストの組織するゲリラ部隊に参加、だがエルネストの本隊とフレディの部隊は離れ離れになり、ボリビア軍に捕まり、エルネストもフレディも処刑、ああ!!!!!! 涙また涙。エルネストは39歳、フレディは25歳の若さだった。「人類が続く限り、社会の不平等や貧困が続く限り、不平等是正と正義を信じて革命は続くだろう」とは自悠人の感想。チェ・ゲバラ没後50年だそうだが、笑顔が美しいチェの魅力、オダギリジョーの名演技と、余韻のある映画だった。全編に流れるパワフルなスペイン語も嬉しく、余韻冷めやらぬ我ら夫婦を階下のCaféで待っていた、小学館の雑誌サライの記者さんがインタヴューしてくださった。(彩の渦輪)

   写真1.映画のパンフレット 2.渋谷のアップリンクという映画館 3.エルネストとフレディが出会う場面


人生は非情:報われなかった終焉

2017-11-21 14:59:55 | 講演・アート・音楽・スピーチ

とある有料老人ホームでの出来事。83歳、上品な顔立ちの入居者が粗相をしでかしたとかで風呂場の浴槽に連れていかれ、水攻めで窒息死させられた事件があった。身体には打撲痕や胸骨骨折も見られたと言う。男性介護士の深夜の密室殺人、双方の詳しい事情は判らないが「カーッ」となった介護士の咄嗟の事件と考えられる。被害者の前職は教育者、校長を経て定年後は教会で奉仕活動をされていた人柄だ。人の運命は何が起こるか判らない。他人のため善行を重ね、教育畑を邁進された人生も必ずしも報われなかった終焉だ。新聞記事を読んだだけの筆者でも惨めでやり場のない気持ちだ。まして、知人や関わりのあった人たちの心情はいかばかりか。「素敵な人生、悲しき末路」のこの事件、「生まれ持った運」などという言葉で終止符を打つわけにはいかない非情なできごとだ。不幸な世相を嘆くばかりでは仕方がないのだが……。恐らく難病で施設に入れられたのだろうが、家族は「何を信じたらよいのか」という気持ちだろう。老いて頼れるのは肉親?それとも施設?「どっち?」(自悠人)