<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

仏の前でわたしの不完全さが問われることはない その6

2017年02月15日 20時00分53秒 | Weblog

わたしが為し得た善「功徳」を他者(生者にも死者にも)振り向けるということにわたしは疑問を持っています。そういう願望を抱いているということは分かります。他者に力を与えたいという願望は誰にもあるからです。

でもそれができない場合だってあるはずです。善功徳を為さなかったということもあるはずです。だったらその人は除外をされるか。そうではないはずです。除外するような仏は仏ではありません。だから、除外は起こりえないのです。

仏の前ではわたしの不完全さも完全さも問われることはない。わたしはそういう解釈をしています。安心をしていいと思っています。

わたしはいよいよ以て怠け者になりそうですね。これでおしまい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏の前でわたしの不完全さが問われることはない その4

2017年02月15日 19時32分51秒 | Weblog

わたしの下した結論はカーブを描いていますね。くねくね曲がって行きます。すみませんね。

仏の前でわたしの不完全さが問われることはない。問われていたら大変なところでした。仏の完全さに照らし合わされたら、すべてが掻き消えてしまうでしょう。

不完全さが問われないと言うことは、完全さも問われない。

わたしたちがときおり自慢したがる<自慢完全さ>というのも、その真贋が問われたら、大きな顔が続けませんよね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏の前でわたしの不完全さが問われることはない その3

2017年02月15日 19時30分58秒 | Weblog

5)長々と書いてきましたが、わたしの言いたいことは、「あなたもわたしも仏と成って行くという道程」があるということ、これから先、未来に於いてそうなるのではなくて、いまこの時点で、仏の差し向けられた功徳によって此の約束が完了しているということです。わたしの是非善悪によるのではないということでなければ、この道程は想定されません。

6)わたしが他者に回向をすることもありません。回向をして下さるのは仏陀の方です。わたしはそれをしっかりと受け止めておればいいのです。

7)仏陀と太刀打ちできるはずがありません。仏道は仏陀によって成じられて行くのです。ですから、わたしの不完全さが問われると言うことはありません。そういう理解をわたしはしています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏の前でわたしの不完全さが問われることもない その2

2017年02月15日 19時28分13秒 | Weblog

3)わたしは此処を敢えてこんな風に読み替えています。

此の功徳(仏典を読経した場合に仏から賦与される功徳)を以て願えば、(願いの)一切は普く及ぼさるるべし。よって我等と衆生とは、皆共に仏道を成(じょう)ずなり。

衆生とは生命を持つあらゆる存在のことです。人間だけに限りません。山も川も草も木も、砂も石も雲も風も、ここに含まれます。もちろん鳥・魚・虫・獣、微生物・細菌類も洩れていません。

別の表現で言えば「山川草木悉皆成仏」です。

4)「成る」は「完成する」「完了する」です。仏道を完了しておればそこで仏を完成します。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏の前でわたしの不完全さが問われることはない その1

2017年02月15日 17時53分42秒 | Weblog

1)我等與衆生 (がとうよしゅじょう) 我等と衆生は 

皆共成仏道 (かいぐじょうぶつどう) 皆共に仏道を成ず

これは真言宗の経典にあります。回向文と呼ばれます。回向文の後ろの半分の文句です。

2)前半分はこうなっています。

願以此功徳 (がんにしくどく) 願わくば此の功徳を以て

普及於一切 (ふぎゅうおいっさい) 普(あまね)く一切に及ぼし

ですから、読み下し文にして、「願わくば此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜんことを」と読まれています。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする