陶淵明 「飲酒 其の十五」
貧居して人工に乏しく/灌木は余(わ)が宅(いえ)を荒(おお)う/班班(はんはん)として翔(かけ)る鳥有り/寂寂(せきせき)として行跡無し/宇宙一(いつ)に何ぞ悠たり/人生百に至ること少なし/歳月は相(あい)催して逼(せま)るに/鬢(びん)の辺り早(はや)已に白し/若(も)し窮達(きゅうたつ)に委ねずんば/素抱(そほう)深く惜しむべし
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貧乏人の家に住んで手入れも施していないものだから、庭の灌木は我が家を覆い尽くしている始末だ。くっきりと目に映る鳥が目の前を飛び回るが、人が訪ねて来る気配はなく、ひっそりとしている。
頭上のこの宇宙界はひたすら悠久なのだが、人が生きて百歳になる例は少ない。時間は急き立てて我が身に迫り、顔髭はもう白さが目立つようになった。さあさあ、どうしてくれよう。
このまま行き詰まってしまうのか、それとも運命が開けるのか、それは自然な運命のしからしむままにしておこう。
そうでもしておかねば、平生から我が胸にしまって大切にしている落ち着きが、歳月についていけずに泣き出してしまうだろう。
(これはわたしの解釈。底が浅い)
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窮達(きゅうだつ)=窮まって達し得たところ。運命。我が身の現在の立ち位置。
素抱(そほう)=いつも胸にしまっている考え。人生設計図か。
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結句の「素抱深く惜しむべし」をどう解釈していいものか。平素の我が落ち着きを壊したくない、ということだろうか。よく分からなくて、前記の解釈を施してみた。
人はそれぞれその人の人生観世界観があって、それを大事にして落ち着きを得ている。落ち着きも歳月とともに老いて行く。人生設計がいつになってもその中途にあって揺らぐ。不安になる。陶淵明は、しかし、歳月の揺らぎに揺らがないでどっしりとしていたくなったのだろう。
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