打つ人も打たるる人もあいともに如露亦如電(にょろやくにょでん) 応作如是観(おうさにょぜかん) 大愚良
良様はすばしっこい方ではありません。万事がのろのろです。ですから逃げがどうしても遅くなってしまいます。行雲流水のように気ままに雲水をして歩いていたときのことです。泥棒と間違えられて村人に捕まってしまい、穴を掘って生き埋めの刑に合う羽目になりました。逃げができない良様です。泥棒良は棒切れで打ち叩かれます。叩かれても抵抗ができません。災難にも従容としているのが禅僧です。禅僧は無常と一切皆空を体得していますから無我なのです。我の主張がないのです。彼は棒に打たれるままになっています。如露の人生、如電の今を生きているのは加害者も被害者も同じです。彼に怒りは浮かんできません。
草の葉に宿る朝露のような儚い人生を生きている我が身ですから、これ以上の儚さに加わることはありません。怒りも儚いのです。雷雲から瞬間放たれる放電のような儚い今を生きている我が身ですから、わが正義を主張することもありません。正義の主張も儚いのです。大愚(愚かに生きている者であるという自覚者)でしかありえません。応作如是観(おうさにょぜかん)は「応(まさ)に是(かく)の如き観を作(な)さん」という意味合いでしょうか。
打たれた後で、事実が判明して、良様は難を逃れることができました。
泥棒に間違われたのではなく、われわれは皆大泥棒をして生きています。<わたしの物>など、この世には一つもありません。わたしの物でもないのにわたしの物としています。そしてその大泥棒のわたしの生き様に気づいていません。禅僧良様はその大泥棒を生きている我が身の生き様に深い懺悔(さんげ)を覚えておられました。
懺悔(さんげ)は哀しみです。哀しみは憤りではありません。相手を責めるこころではありません。せめて朝露のように儚いことが救いです。電影のように儚いことが慰めです。
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はかなさを旅の白露の語りてむ 李白黄
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