<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

龍神様に雨乞いをしたい気持ち

2017年06月12日 21時50分24秒 | Weblog

明日、注文していた安納芋の種蔓を受け取りに行く。50蔓頼んでいる。差し込む畝は既に出来上がっている。さてしかし恵みの雨が近々降ってくれるかどうか。降ってくれないと、数日は水撒きが日課になる。随分の時間と労力が掛かる。九州地方は既に梅雨入り宣言が発表になっている。いつ雨が降ってもいいはずである。しかし、それらしい気配は見つけられない。田圃は田植えの準備に掛かっている。水を満々と張らねば耕すこともままならないだろう。龍神様に雨乞いをしていたご先祖様の気持ちが理解できて来た。

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ふうとそれに息を吹きかけてやるのである

2017年06月12日 20時37分05秒 | Weblog

楽しんだ。

そんなことが楽しいのか、と他人様は訝られることであろう。

その通りで、他人様にはどんな値打ちもない。それが、さぶろうになると途端に価値を帯びるのである。

「そんなこと」の中身を白状しよう。それはただの野良仕事である。草取りである。今日は、草取りをした後に、トマト苗を植え込んだ。それっきりのことである。

種から蒔いて育てていたのだが、小さなポットでは根を大きくは張れない。従って大きく茎を伸ばしてはいけないので、小さく萎縮したままだった。それを大地に移してやった。これからは大きく自由に根を張って行けるだろう。大きく成長していけるだろう。

さぶろうは。だから、大袈裟な表現を借りれば、トマト苗の命の恩人なのである。彼等に大いなる自由をもたらしたのである。偉いのである。大空と同じスケールの尊敬を勝ち得る存在なのである。

だから威張ってものを言うのではないが、夕方にはこれですっかり充足を果たしたのである。曰く、目出度し目出度しなのである。

平穏な暮らしの中にこういう幸福が潜んでいる。それをさぶろうは潜ませたままにしないで、大事なものとして取り上げる名手である。つぶさにそれを手にとって見るのである。ふうとそれに息を吹きかけてやるのである。

そこがそれ、さぶろうの真骨頂というべきところなのである。中身はしかし、他人様には、自己満足のうぬぼれとしか映らないであろう。それはまたそれで宜なるかなである。

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この世とあの世の境目が分からなくなってしまう

2017年06月12日 13時53分18秒 | Weblog

死んだらお花畑に行けるらしい。お花畑にはさまざまな花が咲いているらしい。(春に秋の花は咲いていないだろうけど)明るい光に跳ねて咲いているし、色とりどりのオールカラーで、一瞬目が眩むかも知れない。想像をする通りかもしれない。だから生きている内にあれこれイメージをするのも楽しみだ。

行くのを楽しみにしている。お花畑はだからあると信じている。そこが天界の何丁目何番地であるかは知らないが、そこへ誘導して貰えるらしい。誘導役は白いワンピースを着ているらしい。白い帽子も被っているらしい。帽子には赤いリボンと黄色いリボンが付いていてそれが吹く風に靡いている。長いワンピースだから足先は見えていないが、足もちゃんとあるらしい。美しい手で幽体の僕の手を引いてくれるらしい。

さてそうなったら、僕は会話が出来るだろうか。美しい誘導役の人と会話が弾むだろうか。僕はもじもじしているだけかもしれない。そのやさしい人の顔もまともに見られないかも知れない。これは心配なこと。

僕はゲンキンだから、これはいいなと思うことは信じることにしている。「信じたらそうなる」と思っている。僕は幼稚で単純なんだ。死んだらお花畑に辿り着いてそこを歩いている。踏む足もかろやかに浮き浮きして歩いている。

お花畑。実はそれはいま眼前にもある。我が家の庭だ。ポピーがたくさん咲いている。透かし百合も綺麗に咲いている。ダリアも美しい。欠けているのは白いワンピースを着ている人だ。でもその人だって、ときどき我が家の庭に迷い込んでくることがある。そういう時は、この世とあの世との境目が分からなくなってしまう。

 

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これを喰うのは俺様だぞと威張っている

2017年06月12日 13時18分54秒 | Weblog

昼ご飯の後のデザートに西瓜を食べた。むしゃむしゃむしゃ贅沢時間を平らげた。さぶろうに食べられている西瓜は赤く熟れておいしい。まさか、さぶろうに食べられるためにそうなったのではないはずだ。(その意図が西瓜にある確率は0・000000001ほどもないだろう)だから別の意図だったはずだ。

赤くおいしく熟れたのも、ただただ子孫を増やしたいという意図だったはずだ。だからさぶろうは「横取りをした」ことになる。狡いことをしたことになる。でも、西瓜はそんな迷惑そうな嫌そうな顔をしていない。そこが偉い。とてつもなく偉い。さぶろうとは桁が違っている。

恩恵に与った己は善果だけを奪い取った大泥棒だ。大泥棒にしては随分とケチだ。欲しそうにしていてもカラスには喰わせない。

畑に実った大玉西瓜のケッペンですらもカラスに食べさせようとはしない。どけどけどけと怒鳴り散らして追いやっている。これを喰うのは俺様だぞと威張っている。

(今日食べた西瓜は植木町で買って来た植木名産西瓜。我が家の畑のは遅れている。いまのところズッキーニや胡瓜が烏の被害にあっている)

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昼寝の価値は黄金千両万両

2017年06月12日 12時57分58秒 | Weblog

ちと。ちとちと空の様子が変。掻き曇ってきた。雨は予想では明日からのはず。ちと急ぎすぎ。

「ちと」は「ちいと」「ちいとばかし」の省略形か。・・・と思っていたら、なんと辞書にある。標準語だった。やはり思い込みはいけないなあ。「些と」「少と」の漢字が当ててある。「ちょっと」「いささか」「しばらく」「暫時」の謂。古語でもあるらしい。

さぶろうは板敷きの縁側に寝椅子を持ち出して来て昼寝。窓を開けて網戸にしているが風は、それこそ「何処吹く風」である。暑くも寒くもないけれど、下着一枚でだんらり。

(この油断のざまを人に見られたら「ちと恥ずかしい」かなあ)

例によってまたまた「俺は生きているぞ」「さぶろうは死なずに生きているぞ」と言い聞かせている。これは黄金千両に値す。「この幸運の現在をどう生かせばいいか」 自問する。自問するが、だんらりしているだけで自答がない。やんぬるかな。

黄金万両にはしないで、このまま昼寝を続行する。そうなんだ、仕事もせずに昼の日中寝っ転がっていられるというこの一事実が、黄金億両に値しているのだった。

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そうかあ クチナシだったのかあ

2017年06月12日 12時45分05秒 | Weblog

そうかあ。クチナシだったのかあ。思い出そうとしても思い出せなかった。植木温泉平山旅館の露天風呂の、周囲に咲いて匂っていた白い花。鼻の粘膜にやんわり刺激を受けた。しきりに花の名前を頭の辞書から引き出そうとするのだが、出て来ない。朝夕何度か湯に浸かってその度にその花の香りを浴びて、努力した。でも、岩の奥深くに逃げ隠れていて容易にその姿を現さなかった。今日、asakawaさんちのブログの庭に咲いていた。写真の下に名前を載せてもらっていた。やっと合点した。数日間、頭の中の引き出しに鼻詰まりしていた(譬えが汚いぞ)のが解消された。蓄膿症が治癒されたような快感を味わった。asakawaさん有り難う。いつも綺麗な花の写真を見せてもらっています。楽しい文章も読ませてもらって寛いでいます。梅を庭師さんにもいでもらったのですね。ご主人様は今日は書道をなさっておいでですね。予習までなさっているとはご熱心。衰えない学習心に感心いたします。

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こんなことしか書けないのか、さぶろう

2017年06月12日 07時34分16秒 | Weblog

くだらん。こんなことしか書けないのか、さぶろう。ヘヘエ。叱られたさぶろうが手を突いている。さっき本心をさらけ出して女の人のことを書いたから、叱られている。

女の人のことしか頭にないニンゲンというのはそんなにくだらないのか。日常はまじめくさって、腐っているので、とってもそうは見えないけど、腐らないでいるとこうだった。

女の人を思い描いているなんて、老爺のさぶろうにあるまじきこと。防腐剤がもっともっと必要なさぶろう。

「老爺にふさわしいことをしろ、さぶろう」「老爺にふさわしいことをしていたら?」「いい文章が書けることになる」「えっ、それはほんとうでございますか」さぶろう狼狽する。

ニンゲンには愛がある。愛を目覚めさせると、しかし、ろくなことにならない。格上の愛に目覚めるべし。

愛には対象がいる。無対象の愛にしておくと、危険はない。危険もないが愉快もない。

ニンゲンには崇高な愛がある。死ぬまでにしか実効性がない。愛がなくなると人身は乾涸らびる。あはれ。ひからびることがないようにしておくには? 愛の水撒きをすることだ。

結論もあはれ。

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さぶろうを詰めていたのはこれだったのだ

2017年06月12日 07時10分05秒 | Weblog

ほんとうのほんとうのほんとうはそうじゃない。やさしい女の人にやさしくされていたい。なあんだ。そんなことだったのか。さぶろうはさぶろうを解剖室の解剖台に寝せる。メスを入れる。腹を断ち割る。するとたしかにお腹の中から女の人がうはうは出て来る。色白でやさしそうな人ばかりだ。瞳の色がバイカル湖だ。でも無実態で、皮だけしかついていない。想像上のイキモノだったからだ。なんだかんだと偉そうなことを列べていても、さぶろうを詰めていたのはこれだったのだ。解剖終了。縫い合わせる。おっと待った。空っぽになったガランドウはぺしゃんこで厚みがない。それでまたその想像上のイキモノたちに入っていただいてやっと人間らしい膨らみを保つ。ほんとうのほんとうのほんとうはこうだったんだ。いつもいつもただただやさしい女の人にやさしくされていたいだけだったんだ。こんな切ないワビシイさぶろうを解剖台から下ろしてやる。嘘物のさぶろうが息を吹き返して杖を探している。ほんとうのほんとうのほんとうはそうじゃないのに、もうバレているというのに、如何にもまじめそうな仮面を付けて歩き出す。

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これだけ冷えていると蚊も飛べないだろうなあ 可哀想に

2017年06月12日 06時58分48秒 | Weblog

六月。今日は何日かなあ。はっきりしない。朝の7時だ。冷えている。長袖シャツを着込んだ。これだけ冷えていると蚊も飛べないだろうなあ。可哀想に。そろそろ野良仕事に出て行く時間だ。掘り残しているジャガイモ掘りをしようかなあ。一列だからすぐに済みそうだ。丸椅子と手袋と手鍬と、ほっかぶりタオルと、一輪車と、掘り上げたものを入れるポリバケツを用意する。

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ほんとうにそんな気がしているから抑止不可能

2017年06月12日 06時24分42秒 | Weblog

さぶろうはおいしいおいしいと言う。食べたものが何でもおいしく感じられるから、その通りを言う。おいしいおいしいと言う。一回の食事で何回も言う。ちとウルサイ。でもほんとうにおいしいから、口がすっと開いてしまう。するとおいしいが飛び出してしまう。お静かに! とたしなめる暇もない。コントロール調整機能が壊れている。さぶろうは老爺であるから、そういうふうになるに違いない。そして最後に、「有難うございました。この食事を恵まれたことを感謝します」で締めくくる。ほんとうにそんな気がしている。料理を作ってくれた細君にも時々お礼を言うこともある。我が家のコックさんは料理を作るのがうまいなあと言う。感心をする。わざとではなくこれはさぶろうの本心である。おいしく食べられることがとっても嬉しい。昨夜のそれはきんぴら牛蒡と、ウインナー付きニガウリの炒め物と、胡瓜入りジャガサラダだった。完食した。

不思議だなあと思うことがある。食べたものが次にはわたしになっていくことだ。胡瓜ではなくなって、それがそのままさぶろうになって行く。するともう胡瓜は胡瓜の顔をしていないで、わたしになりすましていている。それがしごくあっさりしていることだ。因みに夜のお風呂場の窓に張り付いたヤモリさんは小さな小さな蛾を食べると、その蛾は次の日から、蛾を主張するのをあっさり諦めて、新しい出発をしている。ヤモリになりきってしまう。

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