<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

何でも膨らませることができるイースト菌

2017年06月14日 21時02分26秒 | Weblog

イースト菌をもっと有効活用すればいいんじゃないかなあ。パンだけに限定されているのかなあ。膨らませる新種のイースト菌はないかなあ。夢や希望、期待を膨らませる新種イースト菌だとか、言葉をふっくら膨らませるのだとか、財布の中身を膨らませるものだとか。有るような気がする。あってもおかしくないようにも思う。あるはず、きっと。「幸福の種一個があれば大丈夫。一日待っていれば、百個に膨らんでいます」などというキャッチフレーズがあり、種を買ってくる。或いは貸し出しもしてくれる。種は人にもお分けできる。パンのイースト菌、お酒のイースト菌、ステーキのイースト菌、西瓜のイースト菌、鯛焼きや広島風お好み焼きのイースト菌などもある。人々はこれさえあれば、もう飢餓の心配はない。何倍にも何倍にも膨らませることができる。寛ぎだとか安らぎだとか、信仰、信心、悟りだとかのジャンルにも適応できる。まったく夢のような話だけど、きっと誰かが是を実現してみせるだろう。誰かが思ったことは実現を約束したことに等しいのだから。

さぶろうは今夜そんなことを考えていた。暇なんだなあ。

しかし、待てよ。もうこの発明は出来ているかも知れないぞ。何でも膨らませることができるイースト菌、名付けて「イーデス菌」。「あなたもどれだけでも幸せになってイーデス菌」。いいだろうなあ、これは。争いごとなんかなくなるんじゃないかなあ。何しろ無制限無限大に膨らませることができるというシロモノなんだから、ケチる必要もないし、奪い合うこともないし、ね。

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舟形になるように

2017年06月14日 17時03分26秒 | Weblog

さあもういいだろう。5時を回った。日がようやっと傾いて来た。これから畑に出る。安納芋の蔓が50蔓ある。これを畝に差し込んで行く、舟形になるように。深めにではなく浅めに。蔓から葉が伸びている。土を被せたところ、葉の付け根に芋が釣り下がっていく。日没までには終了するだろう。蚊取り線香が欠かせない。これを腰にぶら下げる。

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わたしが生じてわたしが滅するのではなかった

2017年06月14日 16時54分19秒 | Weblog

わたしはわたしのこころを育てるためにここで彼の父母となっている。わたしのこころが主体者である。わたしは長いこと、わたしこそが主体者であると信じ込んできたが、ようやっとそれが誤解であることに気付いた。わたしはわたしのこころの革袋にすぎない。そのこころは育っているか。わたしが生じてわたしが滅するのではなかったのだ。

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彼等は天の時、地の時を理解している

2017年06月14日 16時34分12秒 | Weblog

枇杷の木が電柱ほども高い。実が鈴なりだ。袋がけはなされていない。持ち主はご老体である。実はゴマンとあるが、形は小さい。まだ熟していないらしい。甘くなっていないらしい。しばらく前、この枇杷の木にカラスが集結したことがあった。ガアガアガアガアが凄まじかった。空がいっとき暗くなった。ボスの一羽が味見をした。「我らはもう少し待とう」「甘くなったらその時にまた知らせよう」 彼のこの一声で決まった。彼等は蜘蛛の子を散らすように、散って行った。実に巧みな統率だった。それから先まだカラスは集結して来ない。しかしその日は近付いてしているようだ。ここから見ている限りでは、色付きが一段加わってきたように見える。カラスは知恵者である。「天の時]、地の時」というものを理解している。

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魂の機嫌がよくなるのを待つしかない

2017年06月14日 16時16分36秒 | Weblog

あやす。僕は僕をあやす。頻りにあやす。僕の魂の目がようやく潰れる。すやすやの寝息になる。寝息の横で僕はほっとする。僕の魂はまるで赤ん坊だ。揺すってやる。撫でてやる。歌を歌ってやる。ブログを書いて読んでやる。甘いことばのお菓子を含ませてやる。ワーズワースの詩を聞かせてやる。ゴツゴツした孟浩然の文学を味わわせてやる。ハーモニカを奏でてやる。クレヨン水彩を描いてやる。困ったことにしばらくすると魂は目を覚ます。むずがる。ごねる。愛情の手を欲しがる。その度ごとに僕は、魂を可哀想になる。根本的な解決法があればいいのだが、いまのところそれは見付かっていない。あやす。あやすしかない。機嫌がよくなるのを待つしかない。

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捨て猫子猫事件はこれで解決

2017年06月14日 16時00分19秒 | Weblog

昨日の捨て猫子猫事件は一件落着したようだ。二軒先の境さんちから子猫の鳴き声がする。午後四時を過ぎたら、例の小学生らの声も聞こえてきた。学校帰りに集まって来たのだ。様子を見に来ているらしい。境さんちは一人暮らし。90才を越えておられるが、お元気だ。矍鑠たるものだ。土手道で拾ってきても引き取り手がなくて、彼等は困り果てていた。そこへ境さんが顔を出されたらしい。救いの手を差し出されたらしい。境さんちには既に数匹の親猫がいる。家の外で餌を与えておられる。ここにまた一匹が加わったようだった。これで解決。少年たちは日没前に家路につけたようだった。で、次の日にはやさしい境さんを少年らが見舞っているというわけだった。少年らが子猫をあやしているのだろう。一段と鳴き声が高い。

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タイヘンナコトニなるぞ!

2017年06月14日 15時41分31秒 | Weblog

西瓜畑に麦藁をどさりと敷き詰めた。これでよし。雨が降っても土が跳ねることがなくなる。跳ねると病気になりやすい。西瓜の雄花雌花が咲いている。雌花の下には丸い実が付いている。実が大きくなっても、お尻を汚すことがない。清潔でいられる。西瓜もこれで安心をしているはずだ。そう思って西瓜畑を一巡して、おやっと思った。敷き詰めた麦藁の隙間を潜って、同じような尖った草の葉が一斉に生えてきているのである。こりゃ何だろうと思った。

正体が分かった。小麦が混じっていたのだった。ここに水撒きをするものだから、発芽の条件が整ってしまったのだった。おいおい、我が家の西瓜畑は麦畑になるぞ、このままだと。タイヘンナコトニなるぞ。僕は叫び声を上げてしまった。

 

 

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日本語は色とりどりで冴えてるなあ

2017年06月14日 15時16分38秒 | Weblog

僕は板の間のお縁側の寝椅子に寝ている。お縁側は南向きだ。網戸の向こうは日陰。風が渡る。外に出たら暑いはずなのに、家の中は涼しい。

僕はふっとこんなことを思った。どうして僕はこんなに年を取ってしまっているのに、僕なんだろう、と。僕という呼称である。若いときにしか使えないような気がして、少しばかり違和感を持ってしまったのだ。何歳になっても僕を僕と呼んで差し支えがないのだろうか。決まりはないようだ。僕を僕と呼ぶと、しかし、なんだか若くなったような気がする。僕の傍には美しい瞳をした彼女がいても、それで自然な釣り合いがとれているような。でも実際の僕は老い耄れている。シワシワの皺がさざなみになっている。やっぱりチグハグで、オカシイ。

じゃ、僕をどう呼べばいいのか。思案している。おいら、じゃますますオカシイ。「吾」は顎髭に似合いそう。「ワシ」もしくは「ワシャ」だったらよさそうな。英語の一人称はI。これで統一されているが、バラエティーに欠ける。気分次第でいろいろな選択肢から、適当な一人称を選んでいいというのが日本語である。日本語は冴えてる!

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川土手には生まれたばかりの捨て猫が

2017年06月14日 06時28分44秒 | Weblog

下校中の小学校低学年の男の子が4人。通学路近くの空き地で老爺が草取りをしていると、躊躇いがちに近付いて来た。その内の1人の胸には生まれて間もない子猫が抱かれている。「これ、貰ってくれませんか」と言う。「可愛い子猫です」「捨てられていたんです」彼等は説得を続ける。モジモジして立ち去らない。「おかえりなさい」の声をかける。聞けば、城原川の土手道で鳴いていたという。「怪我をしています」「少し血が出ています」と付け加える。可哀想になってしまったらしい。この頃になると川土手にはよく捨て猫がいる。ここそこにいて、ミャァミャァ鳴いている。それをガラスが空から狙っている。この子猫も嘴で突かれたようだ。「我が家にはお婆ちゃん猫が二匹もいるよ。うちでは飼えないなあ」と断ると、「じゃぁどうしたらいいですか、この子猫は」と尋ねる。こうやって既に幾つかの家に飼い主捜しをしてきたものらしい。「困ったねえ。どうしたらいいんだろうねえ」とこちらはにべもない。さすがに、「もう一度川土手に戻してきたら」とは言えなかった。捨てるのが忍びないので、拾い上げて来たのである。特にこの子猫は怪我もしている。「ダメですか」「貰って貰えないのですね」彼等は諦めて立ち去って行った。その内の1人が、被っていた帽子を脱いでチョコンとお辞儀をした。礼儀正しい少年である。彼等は正義のために他を回るつもりのようだ。夕暮れが深くなる。結局貰い手が見付からなかったかもしれない。明るい時間に帰り着いただろうか。心配になった。見て見逃せないものに直面しながら、子供たちの心が育って行く。

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