<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしにはできません

2015年02月04日 17時27分58秒 | Weblog

わたしにはできません。沙門の守るべき戒めがまもれません。「わたしのものとしてはいけない」という戒めがまもれません。ほんの少しのものも、わたしのものとしなければ安心ができません。人に分け与えることも渋ります。人から盗まれることを恐れています。仏陀は「わたしのものとしないことによって大きな安心が約束される」と説かれるのですが、大きな安心よりも、所有しているという安心、これは小さな小さな安心なのでしょうが、これに依存して暮らしています。沙門とは「仏教の修行を務め励む者」に与えられる称号ですが、これに値していません。「大いなる放棄」を実行した者が自己解決の門を潜ることができると教えられていますが、わたしにはできません。よって、わたしはいまだ指の先に乗る砂粒ほどの解決をも果たしてはおりません。

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記録更新レース

2015年02月04日 17時14分53秒 | Weblog

アネモネの白の大輪が記録を更新している。更新って、なんの? さぶろうを元気づける長距離長時間レースさ。もう半月はこうしている。やや、首のところが傾いて猫背ぎみにはなっているが、矍鑠としている。アネモネの気力はいっこうに衰損しない。花弁は真一文字に開いてきりりとしている。彼の意図はさぶろうに受け止められて、この老体もまあまあ元気のようである。

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伊織君 8才の誕生日

2015年02月04日 11時02分30秒 | Weblog

今日は朝から書斎に閉じ籠もりきりだった。書斎と言えばかっこいいけれど、八畳一間である。一方に炬燵があって本棚が列び、南面にガラス窓があり、片方に押し入れがあって、押し入れには布団が畳んであって、夜になればこれを引きだしてきて潜り込む。ご飯の時だけ台所に顔を出す。だから一家の主といえど、学生のように下宿生活をしているようなものである。ここには好きな仏像の写真がぐるりと取り巻いている。これは古い仏像カレンダーをそのまま12枚、額に入れて飾っているとこうなってしまう。

一日曇天で日が射さなかった。外に出ていく気がしなかった。炬燵に入って本を読んで過ごした。一人の留守番役だから、昼ご飯は簡単に済ます。白菜を細かく刻んで長く煮込み柔らかくし、麺類をすすって食べた。滅多にないことだが、この間、テレビをオンにした。たまたまBSチャンネルでオードリー・ヘップバーン、ケーリー・グラント主演の映画「シャレード」があってて、これに長々付き合ってしまった。退屈を覚えて、炬燵に座したまま午睡をしていると、窓ガラスをとんとんと叩く音がして目を覚ました。

帽子を被った小学校二年生の伊織君が手袋の手を振っていた。いつも兄弟二人なのに、一人だ。「やあ、お帰り」「寒かったろう」「今日はひとりだね」「弟君はどうした?」さぶろうは矢継ぎ早に話しかけた。そして炬燵を出て玄関から外に出た。ベランダに彼が腰を下ろして待っていた。「弟は40度の熱が出て今日は欠席したんだ」「ふううん、そうか。熱を出してしまったのか」「うん、熱出して、弟は泣き出したんだよ。お兄ちゃんと一緒に学校へ行けないって」「兄弟仲がいいんだね。そうかあ。インフルエンザだったら行けないね」「うん。で、お布団の中で僕の帰りを待っていると思う」「じゃ、早く帰ってあげなきゃ」「うん、そうするけど、今日はね、誕生日なんだ。僕のね。8才になったんだ」「おめでとう」「それでね、おじさんにも知らせたくなったんだ」彼は胸を大きく反らしてみせた。

伊織君はそれだけを言うとランドセルを素早く背負って走り出した。我が家の裏手に回り、畑をまっすぐ横切って行く。これが近道だった。彼の家は次の集落である。

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行雲流水

2015年02月04日 09時48分44秒 | Weblog

「行雲流水」

禅宗の托鉢の出家修行僧を指して雲水と呼ぶ。これは行雲流水をちじめた語だ。行く雲は一カ所に長く停滞せず、流れる川の水も流れ下って滞らず元の水の形を残さない。これを潔しとしたものだろう。修行僧も執着をしないことを潔しとしている。お釈迦様もこの生成を貫かれた。雨安居(うあんご)のときを除けば、行くところ行くところで、樹下を寝床とされた。一処に住(とどま)らない生き方が「一処不住(いっしょふじゅう)」である。住(とどま)る場所を作るとそこに欲心が蔓延ってくる。所有のこころが積み上がってくる。そこへ私物を集めて抱え込みたくなる。これだともう「生死もろとも大いなる放棄をする」修行に専念はできない。

無住所は無所有にその端を発している。「わたしのものとしない」ということだ。物もこころも、喜びも悲しみも、苦悩も期待も、空であってわたしのものではない。愛着物を独占をすればそこに主客逆転が起きて、愛着物に我が心を独占されてしまうのだ。こうなると、ここへ何をしに生まれて来たかが分からなくなってしまう。衣も頂く。食べるものも頂く。三衣(さんね)一鉢(いっぱつ)しか身につけない。三衣とは下着と袈裟着と寝着。一鉢は1椀である。1椀に受ける分を一日の食とした。出家者は家を捨てた修行僧である。彼らは応供(おうぐ)とも呼ばれた。仏道を歩む者は供養されるに相応(ふさわ)しい人だったのである。

お釈迦様の時代から夥しい時間が流れて行った。出家の生活をする無住所者はいなくなった。無所有者もいなくなった。自分で裕福な暮らしを立てていけるので、その分、応供の人も激減してしまった。裕福な現代人は、それだけ所有欲の欲心が十重二十重に身心を巻いていることになる。さまざまな欲心を道楽の小道具にして、一生がらくたの道具部屋で寝起きしているようなものだ。これではとてもとても行雲流水にはならない。さぶろう、お前がそうだ。仏陀を仰ぎ見ながら仏陀に従ってはいない。実にていたらくな暮らしだ。

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思わずサンキューを言った

2015年02月04日 09時32分35秒 | Weblog

便意が起きてトイレに走って便座に座るとすぐに目的が達せられて体がふんわり軽くなった。さぶろうは思わずサンキューを言った。ここまでスムーズに対応してくれた体の全機能に対してだった。食べたものを一晩かかってごっとんごっとん消化して、栄養分だけを吸収させ残りを排出させる営為に全力で当たってくれたのである。これがさぶろうの体がしたことだった。さぶろうはそれだけの立派な働きをしてくれる体を味方に付けていることが嬉しくなってきた。それからいつものようにしばらく読書をした。トイレには本棚が出来上がっていて、今はローラ・インガルス・ワイルダー著「大草原の小さい家」シリーズを読み進めていて、一つのチャプターを読み終えて本を閉じた。15才のローラは学校の先生をしている。生徒たちをストーブのまわりに集めて授業をしていると群の教育長が視察にやって来た。ソリを引く2頭の馬には寒さで凍えないように2枚の分厚い毛布がかけてあった。

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