小田原周辺のマイナースポットや些細な出来事を少しずつ
小田原の端々



小田原市入生田の長興山紹太寺は、小田原藩主だった稲葉氏一族の菩提寺として、江戸時代初期に建立された黄檗宗の寺院。もともと臨済宗として開山した紹太寺は当初、南町にあったが、寛文9年(1669年)に現在の入生田の地に移転し黄檗宗に改宗した。小田原藩主の菩提寺として、藩の威信や権力を象徴するかのように、壮麗な堂塔が次々と建てられ、その数は48棟にもおよび、また寺域は約55万7千坪と、紹太寺は関東でも有数の規模のお寺だった。残念ながら度重なる火災の影響で往時の伽藍や子院は消滅し、また寺域も農地改革の影響などで多くが失われてしまった。その紹太寺の広大な寺域にかつて置かれていた結界石が紹太寺山門ちかくにあると知りランニングの途中に立ち寄った。長興山紹太寺の山門前。この周辺に結界石があるようだが、ざっと見渡した限り見当たらない。結界石は、お寺の門前に建てられることの多い石碑で、大抵、「不許葷酒入山門」の銘文が刻まれている。しかし、資料によるとこの紹太寺の結界石には「松樹王」と刻まれているようだ。お寺の境内や山門を探し回るが、なかなか見つからない。ふと、案内看板の下を見ると小さな植込みの近くに石が転がっているのに気が付いた。探していた結界石だ。横倒しになっているが松樹王と刻まれている文字が確認できた。結界石の裏側。裏側には文字は刻まれていない。この結界石はあまり大きくなく高さ50センチ、幅は30センチほど。自然石に文字を刻んで結界石としたようだ。結界石側面には十字模様が刻まれていたが、由緒や意味は分からず。また地面側になっている側面には長興山堺と刻まれているようだ。往時の紹太寺の寺域は、現在の水之尾周辺から箱根湯本までと広域だった。その寺域の境にこの結界石が7つ置かれていたとの伝承が残っており、現在山門のところにある結界石は、もともと風祭と入生田の境付近にあったものを移設したもの。7つあった結界石のうち現存するものは5基ほどで、残り2基は土中に埋もれてしまったようで未だに発見に至らないと聞いた。現存する結界石になんと刻まれているのか見てみたいが、残念ながら山中の道なき場所に点在しているとのこと。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )