長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

県大山村ゼミと

2013年12月24日 | 落城戦記
愛知県立大学山村ゼミの『遠足』に同行しました。

山村先生から当初提示のあった希望ルートは、
「野田城⇒野田館⇒野田の渡し⇒大野田城⇒昼食⇒古宮城⇒塞之神城⇒文殊山城⇒亀山城」

これは・・・、相当な強行軍。
1日6城ともなると、相当な城攻めのツワモノであっても難しい。
まぁ、プロと素養のある人達ならば
これは、相当な強行軍になるな、と、思っていたところ、直前に、塞之神城、文殊山城を取りやめて、亀山城とその周辺遺跡に変更になりました。

当日、雪の心配がありましたが、見事な快晴。
通常、クリスマスシーズンは雪が降ることが多く、先週はちらほらと雪が降っただけに心配していたのです。

山村先生曰く、
「晴れ女なんです。」
とのこと。さすが。

しかし、晴れているだけあって、冷えます。

※気温は7度。凍える一行。

さて、野田城。

ここでは、地元ではベテラン観光ガイドとして活躍している高田さんが概要を説明。

※本丸井戸の前で武田の金堀人夫が水を枯らした話を。

元亀四年に城主菅沼定盈が武田信玄の大軍を相手に籠城し1ヶ月持ちこたえたことで有名な城です。
しかも、この城を攻めた後信玄は死亡。
そのため、信玄はこの城で鉄砲に狙撃された傷が原因で死んだとも言われています。信玄を狙撃したとされる鉄砲も設楽原歴史資料館に所蔵されています。狙撃したかどうかの真偽は不明ですが、火縄銃の古さで言えば間違いなく日本で5本の指に入るものだそうです。

この城は徳川家康の領国である遠江国と三河国の中間地点吉田(現在の豊橋)のすぐ北。ここを信玄が落とせば家康は領国真っ二つ。戦略的重要拠点になります。

城の堀と土橋の状況、わかりやすい連郭式の形状について図面を基に確認しながら進む。
やはり歴史地理学の方々だけあって、現場の状況が相当に気になる様子。
通常は、現在地元の方で整備の進む本丸を見れば満足して帰る人が多いのですが、三の丸の三日月堀周辺の土塁の状況や道路と反対の桑淵方面の見学を希望されました。

ここはかなりのブッシュが生い茂っており、夏は蛇、蜂等の危険生物にも要注意な場所。

※ここが見たいとは皆さんもお好きですね。

冬なので木だけを気にすればよいとは言うものの、二の丸・三の丸は近年あまり手が入っていないせいか、ブッシュの険しさが2年前に比べて増していた気がします。城が手入れされないとこうなりますが、地権者との関係もあって難しい。

このあたり、土塁と言いつつも開発もされているためか、かなり高低差がなくわかりにくい状態になっていることを確認。

そのまま、本丸との境の堀切まで進み実際に城を攻めた感じを体験。
本丸と二の丸をつなぐ土橋から見た堀は大したことなさそうに見えながらも、二の丸から進み、実際に堀を越えようとすると「無理。」という感想が多数。

※土橋から堀を見る。
まずは城郭機能を体感していただけました。

そして本丸城址碑で記念撮影。

※若干光が入り込んで見づらくてすんません。

その後、舌状台地の突端側の馬出形状の郭を見て伊那街道へ。
現在の151号を伊那街道と記したものがあり、山村先生的に違和感を感じられたとのこと。私が直接ここの地元の方に聞いた話では、城から降りて到着した道を旧道と呼んでいて昔はバスが通っていたとの話を伝える。実際、ここから車が1台通るのがやっと、という細い道になりますが、確かにこの道がバス道だったと、その道の前に住む方から聞いています。
ので、むしろ、伊那街道と呼ばれる道はこちらでしょう、とのこと。

しかし、この時点で大幅に時間超過。
侍屋敷跡や伊那街道関係を山村先生は個人的に全速ダッシュで確認されてました。笑。

結局、野田の渡しや野田館、大野田城はバスの中からちらりと見る程度で終了。
野田城も単純な造りに見えますが、しっかりみると見所満載なのです。
山村先生が言うには「縄張図では描かれて無い高低差がかなりあるので、かなり遺構も残っている可能性がある。」とのこと。確かに。

その後、作手へ移動。
標高500mを上がりますので、気温は平野部に比べ5度下がる。
ので、気温計は昼でも2度表示。
スキー場並。

まずは体力の残存状況を考慮し、作手最大最強の城、古宮城へ。
ここは作手山城案内人の原田さんによるガイドになります。

いきなりクライマックスの両袖枡形虎口を見学。
36名という大部隊なので2隊に別れ、1隊は土塁上、もう1隊は虎口内にとどまり、土塁上の部隊は号令で杉の葉っぱを当たらないように投げてもらいました。


「キャー」「怖い」
というの悲鳴があがる。
軽くて遠くまで飛ぶことは無い杉の葉っぱを投げられるだけでも結構怖いのに、あれが鉄砲や弓だったら、と、感じていただけたのでは無いかと。こういう城の体験は大人数見学時でないとできない。

東郭で大堀切を見おろし、仕切り土塁を見た後、謎の閉鎖的郭(人質郭?)を上から見学。その後、再度枡形を通過して土橋を渡り西郭へ移動。行き止まりの堀や何重もの堀で囲まれた西郭を見下ろし、その土木量を感じてもらう。堀底を歩き土塁の巨大さを体感。その後、大堀切を歩いて神社境内へ戻る。

時間の関係で、全部見学ルートの半分程度となりました。

その後、市場地区の旧道を歩き、原田さん宅前では奥様からお菓子を皆が頂く。アミダマヘなどを通過して蔵屋敷跡などを見学。そして、亀山城の城下町区画とも言われるものの、何かがよくわかってない馬呂遺跡跡を見学。


そして、最後は亀山城の見学となりました。


その後、自由時間となり、山村先生と有志で善福寺近くの古い町割のあった場所へ。
街道を挟んで字名が町と町尻に分かれているのが、戦国時代の古い形状を表して珍しいものだとか。
区画整理がされているようで、ざんねんながら短冊状の特徴あるものは確認できませんでした。
そして、城屋敷の名称が残る地区に。痕跡は無いのですが、浅野古城之図などには、文殊山城と塞之神城との間に屋敷的な城があります。そのあたりに普段は生活していたと考えられます。その場所を確認するのは私も初めてでした。

自由時間は時間に限りもあるので、相当な猛スピード、途中小走りでの見学となりました。
寒さにもやられて、学生の皆さんもかなりお疲れだったようです。

さて、折角なので参加者の皆さんにアンケートをとってみました。
属性は

若い女性が半数を上回るという、多数の方が参加する城見学では珍しい構成です。

城の評価は以下のとおり。

古宮城は満場一致の「すごい」でした。
亀山城は「まぁまぁ」が多数派。やはり古宮城のすごさが突出しているのがわかります。亀山城も単体で存在していれば、それなりに見所がある城なのですが、古宮城という化け物がいるせいで低くなってしまったと言えます。

草刈ボランティアに関する意識もお聞きしました。

条件があえば参加してみたい、と、の意見が多数です。
「無料バスの運行」が圧倒的な理由として上がっています。
まぁ、条件があえば、という回答は、アンケートの回収が直接手渡しだったので、皆さん気を使って回答している分もあるだろう、と、割り引いて考える必要もあるかと思います。笑。ただ、中には実施する際には情報を送ってもよい、とアドレスを書いてくださった方も2名おられました。

無料バスの運行は元々設問にあったため、解答しやすかったと思われます。
今回のバスツアーを開催する際に、山村先生が気を使われていたのが、学生さんの資力状況を考えてできるかぎり安価に催行できるように、ということから、事前に設問として用意することができました。

やはり交通費、その次が日程、そして、気分、という3つの要素がうまく会えば、多数の方にご参加いただけるのではないかと思います。
その他、自由回答も色々といただきました。
今後の参考データとさせていただきます。
ご参加の皆さん、お疲れのところ貴重なご意見ありがとうございました。

4 コメント

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亀山城 (きっと)
2013-12-24 07:52:51
寒い中、お疲れさまでした。
痔ぃさまは痛みもなくなったようでよかったですね。


私も日曜日に母の体調が「山登りにはちょっと・・・」というので
新城へ榊を買いながら出掛け、作手にも回りました。(JA新城の榊はとってもしっかりしているので)
駐車場へ車を止めて御幣餅とソーセージを食べていたら珍しく観光バスが止まり、
若いかたがぞろぞろとおりてこられました。

こんなところに観光バスだなんて珍しいねえ、と思いました。
主さま達のように何かの研修なのでしょうね。
それから久しぶりに亀山城に登って行きましたら、道が新しく整備されていてびっくりし、
古城まつりの跡なのか、火を焚いた名残がありましたね。
亀山城の天守跡に立って周りの山々を眺めながら「その当時はこんなに植林されていなかったろうし
街道は尾根づたいにあったろうからどんなふうに見えていたのだろう」
とか妄想に耽っておりました。
そういう意味で1/25000の地形図をじーっと眺めておりますと、それはまたそれで面白いです。
雪もちらついて、ますます雰囲気よく気持ちよかったですね。



戦国の人々は山々に囲まれた静かな盆地で本当は平和に暮らしていたかっただろうなあ、とか話ながら帰ってきました。


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おや、それは。 (うらにわ)
2013-12-24 21:15:10
私達は日曜日に手づくり村に行ってますよ!1時近くに昼食休憩を取るために藤棚近くのトイレ前の大型車駐車場に停めてぞろぞろと。その後、夕方4時45分頃も手づくり村で帰りのバスに乗り込んでます。たぶん、きっとさんが御覧になったのは私達ではないかと思われます。(当日大型バスが来る予定は他にはないと聞いてます。)
火を炊いた後がありましたが、たぶん、イルミネーションの飾り付けをやっていた人達の暖を取る用ではないかと思われます。
まさに私達も妄想に浸かるためのフィールドワークでした。とても楽しかったです。
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おや、それは” (きっと)
2013-12-25 06:09:31
あら、まあ!

では、あの若いかたがたはうらにわさまの一行だったのですね!
若い方々が歴史の表舞台には出て来ない、(知る人ぞ知る)山間の古城を訪ねてくださるのは
なんだかとっても嬉しい気がします。
それにしても、お城ばかりの町ですね、新城、奥三河は。
植林された木を取っ払った山と出城を妄想しますと、あちこちの尾根に狼煙が上がるのが見えるような・・・。
それだけ重要な土地であったのだろうと、昔歴女だったおんなのおっさんは今頃気づかされたのであります。
返信する
「新城」ですから。 (うらにわ)
2013-12-26 00:54:56
しんじょうの後に城を作ってしんしろと呼ぶ地域だけあって、城には事欠きません。城に目が向く自分ですが、中世の街並み再現も専門にされている山村先生の解説を受けると、作手の城に生活感がプラスされて、大変面白かったです。こうした部分をもう少し勉強してみたいと思います。
昔を妄想することこそ、歴史好きの真髄かと思います。
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