田峯菅沼氏の家老、城所道寿が甲陽軍鑑において一騎合衆に分類されている、といることを確認したものの、その一騎合衆の意味がよくわからない、という話をえんえんとこのブログで以前しておりました。そのときの結論としては、先方衆(他国衆で武田氏に降伏した有力な武将、と、いって差し支えないかと。)のミニ、みたいなもんらしい、ということで終えております。
なお、甲陽軍艦に「さかひめに関をとり、或(あるいは)陣へ立ても寄合とて牢人衆と一備ニ有。」とあるので、国境付近の守りを固めて合戦時などは牢人衆と一体となって行動するのでは、とも書きました。
その後、しつこく検索していたところ「武田領国の最前線で国境警備の傍ら武田軍の一翼を担う国境付近の地域武士団」と解説しているものを見つけました。なので、上記の見立てはあながち間違いではないのだな、と、思ったわけです。
で、新城市の図書館が館内整理を終えたので改めて史料を探ってみました。すると、以前岡崎でコピーしてきた『戦国期武田氏領の展開』の後の方に、今まで見た中で最も突っ込んで書いてくれた部分を発見!!
思わず図書館で小躍りしてしまいました。
「領国の最前線の不安定な征服地に対しては、一騎合衆として、その独立性を認めたままの型で城番をさせている」
なるほど、他国衆は他国衆でも、①不安定な状況にある征服地で、②独立性を認めて、③城番をさせる、のか。
こうしたことから城所道寿の立場を考えた場合、田峯菅沼の筆頭家老、というよりも、元々田峯菅沼と完全な縦関係ではなく、客将といったら言い過ぎかもしれませんが、斜めの関係にあったのではないか。そして、武田氏からは独立した領主と見られており、田峯菅沼への付家老に近い形 ~尾張徳川家における成瀬家のような~ ものではなかったか、という疑問があります。
城所道寿が、この辺りの没落はしたものの名族であった富永家家臣の地位を去って新興勢力ではあるものの富永家よりは格下に見られていた田峯菅沼氏へ転職したした経歴や数々の振る舞いを考えても、上記のような立場であったと考える方がしっくりきます。
この城所道寿については、田峯菅沼氏の武田従属前はウンともスンとも史料に見られないにもかかわらず、武田従属後は突然大量に現れてきます。
そういや、城所道寿自身の名前で文書も発給しています。田峯菅沼当主の名代、というレベルではなく、もっと上のクラスではないかと私は考えます。
武田が天下統一を果たした日には、城所道寿も武田直参衆として相当な権力を振るうことができたのかもしれません。が、残念ながら武田氏の滅亡とともに、彼も歴史の闇に沈んでいくこととなったのでしょう。
しかし、ああ、これでやっとわかったメデタシメデタシ、という訳でもないのです。
なんだかコピーしてきた史料を読んでいると武田家臣団の支城主としての性格や城番や城代について、かなり論考されており、そうした点をよく理解しないと、上記の城所道寿の立ち位置もあやふやなままなのです。実際には、史料が多い駿河を対象とした論考が多いですが、同じような一騎合衆が存在していることから参考になると思います。
この点については、読み込んで自分なりに納得できる考えがまとまったときに、改めて書くつもりです。
なんだか、こんな文章だらだら書いてますけど、読んでる人は面白いのだろうか?という疑問が。訪問者数を見ていますと、それなりに見てくださっているようで、こちらとしては張り合いもあって大変ありがたいのですが。なんだかものすごい狭い世界の話をしているようで申し訳ないです。
まぁ、私の楽しみとして脳みその中身を垂れ流しているだけなので、私は楽しくて仕方ないんですけどね。
なお、甲陽軍艦に「さかひめに関をとり、或(あるいは)陣へ立ても寄合とて牢人衆と一備ニ有。」とあるので、国境付近の守りを固めて合戦時などは牢人衆と一体となって行動するのでは、とも書きました。
その後、しつこく検索していたところ「武田領国の最前線で国境警備の傍ら武田軍の一翼を担う国境付近の地域武士団」と解説しているものを見つけました。なので、上記の見立てはあながち間違いではないのだな、と、思ったわけです。
で、新城市の図書館が館内整理を終えたので改めて史料を探ってみました。すると、以前岡崎でコピーしてきた『戦国期武田氏領の展開』の後の方に、今まで見た中で最も突っ込んで書いてくれた部分を発見!!
思わず図書館で小躍りしてしまいました。
「領国の最前線の不安定な征服地に対しては、一騎合衆として、その独立性を認めたままの型で城番をさせている」
なるほど、他国衆は他国衆でも、①不安定な状況にある征服地で、②独立性を認めて、③城番をさせる、のか。
こうしたことから城所道寿の立場を考えた場合、田峯菅沼の筆頭家老、というよりも、元々田峯菅沼と完全な縦関係ではなく、客将といったら言い過ぎかもしれませんが、斜めの関係にあったのではないか。そして、武田氏からは独立した領主と見られており、田峯菅沼への付家老に近い形 ~尾張徳川家における成瀬家のような~ ものではなかったか、という疑問があります。
城所道寿が、この辺りの没落はしたものの名族であった富永家家臣の地位を去って新興勢力ではあるものの富永家よりは格下に見られていた田峯菅沼氏へ転職したした経歴や数々の振る舞いを考えても、上記のような立場であったと考える方がしっくりきます。
この城所道寿については、田峯菅沼氏の武田従属前はウンともスンとも史料に見られないにもかかわらず、武田従属後は突然大量に現れてきます。
そういや、城所道寿自身の名前で文書も発給しています。田峯菅沼当主の名代、というレベルではなく、もっと上のクラスではないかと私は考えます。
武田が天下統一を果たした日には、城所道寿も武田直参衆として相当な権力を振るうことができたのかもしれません。が、残念ながら武田氏の滅亡とともに、彼も歴史の闇に沈んでいくこととなったのでしょう。
しかし、ああ、これでやっとわかったメデタシメデタシ、という訳でもないのです。
なんだかコピーしてきた史料を読んでいると武田家臣団の支城主としての性格や城番や城代について、かなり論考されており、そうした点をよく理解しないと、上記の城所道寿の立ち位置もあやふやなままなのです。実際には、史料が多い駿河を対象とした論考が多いですが、同じような一騎合衆が存在していることから参考になると思います。
この点については、読み込んで自分なりに納得できる考えがまとまったときに、改めて書くつもりです。
なんだか、こんな文章だらだら書いてますけど、読んでる人は面白いのだろうか?という疑問が。訪問者数を見ていますと、それなりに見てくださっているようで、こちらとしては張り合いもあって大変ありがたいのですが。なんだかものすごい狭い世界の話をしているようで申し訳ないです。
まぁ、私の楽しみとして脳みその中身を垂れ流しているだけなので、私は楽しくて仕方ないんですけどね。
つられて、「風は山河より」読み始めてしまいました。
地元のことなのに、知らないことが多いですね。
少しずつ、興味を持ったことから調べていきたいです。