長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

嫌々戦う領主達 ~田峯菅沼家老のケース~

2012年02月28日 | 戦国逸話
 城所道寿を調べる、という話でブログを引っ張ってきました。
 「誰?」という声がそろそろ強くなってきた頃だと思いますので、ここら辺りで城所道寿氏にまつわる逸話を御紹介し、なぜ私がこの人が妙に気になるのかを本日はお話したいと思います。

一、大野田城の戦い
 元亀二年(1571年)四月二十八日夜、武田信玄は作手の奥平貞能、田峯の菅沼定忠を案内役とさせて、大野田城の野田菅沼定盈を攻撃させることとした。しかし、野田菅沼は田峯菅沼から養子を迎えていたためお互い親類が多く、夜襲を成功させてしまうと親類縁者に多数の死傷者が出てしまうことを恐れた菅沼定忠は、家老の城所道寿と一計を案じた。
 わざと道に迷った態で山の中をあっちこっち行った後、夜が明けてから大野田城へ向かった。菅沼定盈は当初抵抗しようとしたものの、あまりの大軍に籠城不利とみて城に火を放ち、豊橋の西郷氏を頼って落ち延びた。(参考 新城市三十年誌 533頁)

二、奥平貞能尋問
 天正元年(1573年)八月中旬、武田信玄が死去したとの情報を得た奥三河領主連合山家三方衆の最大勢力奥平氏当主奥平貞能(さだよし)は、武田を見限り徳川家へ臣従することを決定します。
 武田信玄死去の報を受け、徳川家康は長篠城を奪回します。長篠城は落城してしまいましたが、長篠城の後詰として来援した武田軍は、長篠落城後付近に居残っている徳川家康を包囲殲滅する作戦を立てます。貞能はこの作戦を家康へ通報。家康は慌てて浜松へ逃げ帰ります。これにより武田軍は内通者の存在に気づき、奥平貞能を疑います。
 武田勝頼の従兄弟で後詰軍の大将武田信豊(武田信玄の弟典厩信繁の息子)は、奥平貞能を鳳来玖老勢(ほうらいくろぜ)の塩平城へ召還し尋問することとします。
 一歩間違えばその場で討取られる危険がある状況下で、奥平貞能は数人の供だけを連れて現れます。そして、到着した奥平貞能を見るなり「徳川家に内通したと言う噂があるのに、よくぞ来たもんですな。」といきなり浴びせかけたのは城所道寿。
 このやりとりを障子の影で聞いていたのは武田信豊。落ち着いて対応する奥平貞能を試すため、数刻歓談した上、碁を一緒にうつことで動揺しないかを確認したものの貞能は全く動揺した態を見せない。
 碁の間、信豊の家老小池五郎左衛門が貞能のお供に「お前らの主君は裏切りが判明した。よって討取った!」と言うが、お供は「何かの間違いでしょう。」と取り合わない。これは事前の打ち合わせで貞能の首本物を見るまでは騒ぐな、と、合図していたことによります。
 で、ようやく奥平貞能が武田信豊の尋問を終わり帰ろうと門外に出たところを城所道寿が呼び止め「作手までは遠いから夕飯食ってけ。」と呼び返し反応を見たが、貞能は平気であった。
 が、作手へ帰った奥平貞能はこの晩武田氏を裏切って徳川へ内応するため作手を大脱走することとなる。(参考 寛政重修諸家譜 奥平貞能)

三、設楽原合戦山県隊の模様
 (1) 最近徳川氏を裏切って武田の山県昌景隊に属していた節木久内、豊田作右衛門、城所道寿等は(織田・徳川方の)鉄砲風に恐れをなし、所詮はかなわずと思ったのか「火ともし山」を指して走り去り、山県もまた虎口を逃れた。(参考 口語文全訳三州長篠合戦記 49頁)
 (2) 山県昌景が鞍の前輪を鉄砲で打ちぬかれ討死したことを受け、山県隊の先手が崩れ始めた。田峯の豊田作左衛門が鉄砲を討って織田・徳川軍に応戦しようとしていると田峯の家老城所道寿が来て、山県は討死したので早々に退却せよと指示したので、足軽たちを引き連れ火燈山の麓まで引きのいた。(参考 改定増補 長篠日記〔長篠戦記〕57頁)

四、武田勝頼締め出しを食らう
 長篠出陣前に田峯菅沼氏は、武田派の当主菅沼定忠&筆頭家老城所道寿、徳川への帰順をとく定忠の叔父で養父の菅沼定直&次席家老今泉道善の二派に別れて対立した。結果的に戦場へは定忠達、残って城を守るのは定直達となった。
 設楽原合戦で敗れた武田勝頼の一行と行き会った菅沼定忠と城所道寿は、田峯城へ武田勝頼一行を案内し開門を命じたところ、門が開かない。定直派が裏切ったのである。追手も気になるので、一行はそのままやむなく武節城まで退却。ここで梅酢を飲んでようやく武田勝頼は一息付いたといわれる。
 この時、田峯城内にいた城所道寿の親族は定直派の動きに気がつき嫡子らは城内を脱出。嫡子の妻は城近くの川に身投げしたといわれる。(参考 設楽町史167頁)

五、裏切りへの落とし前をつける
 武田勝頼逃避行時に裏切った田峯城に残る菅沼定直一派にたいして、一ヵ月後、菅沼定忠主従は報復措置にでます。天正四年(1576年)七月十四日の明け方、突如として田峯城へ乱入した菅沼定忠達は城内の老若男女九十六人を惨殺。特に次席家老今泉道善への恨みは激しく、後ろ手に縛り上げ、生きながらに鋸引きにしたと言われれる。
 武田家滅亡後天正10年五月十日、菅沼定忠と城所道寿は牛久保城主牧野康成により討たれたという。(参考 設楽町史168頁)

 こうした各種のエピソードを見ますと、当主が幼い田峯菅沼氏を彼なりに必死に守り抜こうとし、一時期は当主から半独立に近い立場にまで登りつめながらも、残念ながら状況分析に失敗し、最期は全てを失った、という感じがします。
 巨大勢力に挟まれた奥三河の地は「風になびく葦」として強者に翻弄される悲哀を強調した論調が目立ちます。確かに武田を裏切った奥平氏は人質を武田氏に殺害されていますし、城所道寿も徳川が強ければ武田になびくこともなかった、と、言えますので悲哀を感じないわけでもありません。
 しかしながら、きっと彼らなりに状況分析を行い、それこそ一族や自分の命を賭けて積極的に行動していたのではないか、というのが私の考えです。
 今も世の中がめまぐるしく変わっていますが、悲哀だけで我々は生きているわけではありません。むしろ、なんとかしようと思って日々さまざまに活動しているのではないでしょうか。そういう視点で山家三方衆を見てみたいなぁ、と、思っております。

 この城所道寿というのは、後世の史家により悪く書かれている可能性も高そうですが、非常に人間くさい。
 すごいことを成し遂げたヒーローよりも、こういう人間くさい人に、なんとなく親近感を感じます。それが「城所道寿って何者?」という探索を続けている原因なのです。

 だってねぇ、世の中、私らのような凡百の人間の方が多いし、昔だってそういう人の方が多かった訳でしょう?この歳になると自分の行く末もある程度見えてくるわけでして、ヒーローなんかよりも普通っぽい人の方に共感しますわね。


2 コメント

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先祖 (壁谷光裕)
2013-01-05 23:47:37
自分の母は金沢の城所家なので先祖の事を調べていたらたどり着きました、照山には小さいころよく行きました、お墓も照山にあったのですが私の祖父、城所嘉一が全額資金を出して近くの長慶寺に移しました。
あの山もどんどん削られていき寂しい思いです。いろいろ勉強になりました、ありがとうございました。
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コメントありがとうございます。 (うらにわ)
2013-01-06 00:42:11
壁谷様コメントありがとうございます。
ただ単に、このあたりの資料の羅列をしているだけですのでお恥ずかしい限りです。
城所姓は東三河に顕著に多いですよね。城所道寿の父親は野田菅沼氏の前身富永家の家老格のようです。元々富永保(新城市や豊川市の辺り)の有力豪族だったのではないかと思われます。
照山あたりは確かにどんどん削られてしまっていて残念です。歴史よりも今の人の生活、というのもわかるのですが、もう少し歴史的価値にも配慮があると嬉しいですよね。
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