長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

戦国の三角関係

2015年04月22日 | 日本史
満光寺の鶏を調べていた際、「へぇ。」と思ったことがあります。

それは、
織田信長


徳川家康


武田信玄


この三人の三角関係状態。

最終的に、武田信玄の遠江・三河侵攻から長篠合戦、そして武田滅亡、という軌跡から、織田・徳川と武田が敵対したということは理解していましたが、では、敵対はいつからか?、ということは意識することがなかったのです。

よくよく考えても見れば隣国同士、一触即発になることだってある。
織田信長は武田信玄を刺激しないように、贈り物を欠かさず、それも細心の注意を払った物を贈っていた、という逸話もありますから、信長が信玄の歓心を買うことにつとめ、信玄が東国に集中している間に、信長は勢力を拡大してしまい、信玄が気づいたときには寿命、というのが私の従来の理解でした。

が、どうもそれでは理解が浅かったようです。
よくよく読んでもみると、さまざまに既に先行研究で明らかにされている部分ではありますが、自分なりに文書を読んで整理した内容をブログに書いてみようかと。

永禄11年(1568年)2月に家康と信玄が血判を交わしています。(愛知県史資料編11 文書番号594)
何を血判したのか不明ですが、なんか約束、しかも結構重要な約束をしたんでしょう。
この年の12月頃には、家康は三河から遠江に進出していること(愛知県史資料編11 617~620)、三河物語等の話から大井川を境に今川領の分割統治を持ちかけたようです。

ところが、翌永禄12年(1569年)の1月に、信玄は家康と信長に変な文書を出してます。(愛知県史資料編11 625・626)かなりな意訳をすると・・・。

信玄は家康に対し、信玄配下の武将、秋山虎繁率いる信州部隊が遠州にいることについて
「ワシが遠州を奪るつもりは無いよ。秋山達はワシが呼び寄せたら最短距離で移動しようとしたみたいで遠州にいるだけなんだよね。ちなみに、掛川城の今川氏真を落としちゃって。そこんとこヨロシク。」

と、信長に対しては、
「こないだは大層なお歳暮もらっちゃって、どうもありがとう。で、駿河の今川を攻めたら、氏真弱すぎ。一戦もせずに掛川城へ逃げてまった。それで追いかけたら、家康がなんかワシが氏真じゃなくて遠州狙いで進出してきたって疑ってんだよね。。。それで遠慮してワシは駿府で待機してるんで、家康にもよく言っといて。」

と、言ってます。
信玄は家康の兄貴分である信長とは姻戚関係にあったため、今川侵攻の際に遠州分割協定を信長にも了解を得て、弟分の家康とも直接やりとりをしたようなんですが、どうも、二枚舌を使って遠州まで侵略する方向で動いたことが上記の文書から窺えます。
たぶん、信玄にしてみれば「協定は結んだが、基本は切り取り次第。」という感覚もあって、なんだかんだで取ったもん勝ち的な考えもあったんだと思います。しかも、最初は小田原北条氏に今川侵攻を持ちかけて断られての織田・徳川への持ちかけだったようです。北条、今川、武田の三国同盟により北条氏の娘が今川氏真に嫁いでいたことから信玄の今川侵攻は北条を激怒させ、駿河にいる武田を北条が攻撃。今川は掛川で頑強に抵抗を続けたことで信玄の目算は大きく外れたようです。

と、いうか、目算が外れたどころか、北条氏によって駿河ー甲府間の通路を遮断されそうになって、駿河に閉じ込められそうになる、という危機的な状況になりつつあったのが、この永禄12年頃のよう。このときに上杉謙信が活発に活動したら信玄も相当大変な状況になったのですが、幸い冬。雪で謙信は動かなかったようです。そのため、信玄は信長に上杉謙信と武田信玄の和睦の斡旋を足利義昭を通じて頼んでおり、上杉・武田双方に対する和議勧告が将軍から出たようです。

5月になって信玄は、信長が今川氏真・北条氏康と和睦しないよう、信長の側近に催促しています。(愛知県史資料編11 658)   
「掛川城が落城して、今川氏真は駿府の東に逃げてった。昨年、ワシが駿府へ攻め込んだら氏真はすぐ逃げて、遠州も大半がワシのものになって掛川城だけになった状態だったけど、それから10日くらいして家康が『信長の先遣隊』と言って、『前の約束どおり遠州の領主達の人質を受取りに来ました。』と言うから渡したった。その後、北条氏政が氏真を救うと言って、薩埵山へ出陣してきたからワシ北条と戦争になった。掛川城が落城するときは、氏真を殺すか、家康か信長で氏真を確保して欲しいとお願いしてたのに、北条と徳川が会談して、氏真の降伏を認めて掛川城に籠城していた奴らを無事に駿河へ逃がしてしまい驚いた。だって今川と北条と和睦しないって、家康約束してたし。今更しょうがないから、せめて織田は今川と北条へ、敵なんだ、とはっきり言ってくれるよう、信長に催促してくれ。」

今川氏には父信虎追放に協力してもらったり、長男義信の妻に今川家の娘を貰ったりしていながら、信玄の今川氏真に対する残酷な依頼状況が解る内容で、少々ひく。

この信玄→信長の文書は5月23日付けなんですが、翌日24日に、徳川家重臣酒井忠次あてに北条氏政からこんな文書が出ています。(愛知県史資料編11 659)
「氏真が帰国してきたので家康に誓詞を届けた所、すぐに返事来たんでありがたい。特に氏真とワシらへ仲良くしてくれるとの事、大変うれしく、特に掛川城を氏真が出たときに、そちらが証人を立てて和議にしてくれれ嬉しかったですわ。これからは、家康にも仲間になってほしいと思うんで、黒馬のいい奴を一匹進呈します。」


しかも、翌年の元亀元年(1570年)に、家康は前々から打診していた上杉謙信との同盟をします。
その際、面白いことを家康は謙信に約束します。(愛知県史資料11 739)
「・・・信玄との関係を必ず切ります。信長には謙信と仲良くするよう意見し、信玄と信長は縁談してるけど辞めるように諌めます。」

流れからすると、武田、上杉、北条、徳川、今川、織田、と、戦国スター達が、それぞれの思惑で駆け引きしていることがわかります。
また、徳川家康は対信玄を巡って信長と方針が異なっていることもわかり、この時期の家康外交は独自性が強いこともわかります。ただ、信長的には京都へ将軍義昭を奉じて進出し、畿内情勢が不安定な時期だっただけに、家康から「信玄の野郎、言ってる事とやってる事が違うじゃねぇか。やっぱあいつヤバイっすよ。」と言われても、「そうですね。」と、家康の言うことが聞けない時期であったと考えられます。美濃と信濃と領国を接している武田信玄の怒りを買うと面倒なので、家康からの連絡を黙殺したのではないかと思われ、それが、上杉や北条と徳川氏との独自外交となったと思われます。
これが、信玄の家康に対する怒りとなっており、後の徳川領国への侵攻=三方原の戦いなどに繋がって行くのだと思われます。

一方で信玄は、北条と今川の結びつきを軽視して今川に侵攻したり、分割協定を約束した遠州を狙って家康の離反を招くなど、戦略に粗さが目立ちます。この粗さが信玄最大の危機を招き、将軍擁する信長を利用せざるを得ない状況となります。

信玄>信長という力関係だけで理解をしていましたが、信長にしてみると信玄に貸しを作っている時期とも言えるでしょう。ただし、信玄はどうも家康は信長の家臣に近い感覚があった様子も書状からわかります。
そのため、信玄的には「家康の動きを見てると、信長は二枚舌を使ってるんじゃないか?」と思うことになったのではないかと。

それが、後に信玄が織田・徳川領国へ突然侵攻を開始することに繋がったといえます。
しかし、信長にしてみれば、別人格の家康のことだし、むしろ色々と信玄に骨折ってやったのに、突如侵攻してきて裏切られた、という感覚があって、信長は決して武田氏を許さず滅亡まで追込んだ原因になった、と、平山優氏等の先行研究で明らかにされています。

とにかく戦国大名の虚虚実実の駆け引きのせいで、敵・味方がめまぐるしく入れ替わる時期のため、このあたりの状況がわかりにくくなっていたのですが、満光寺の鶏話を調べるために、読み込んでいたところ、上記のように整理することができたのは大きな収穫でした。

もっとも、こうして整理してから、蔵書を様々に読んでみると、ちゃんと書いてある。
意識が薄い状況で読むと、読んでるようで読み飛ばしているものだなぁ、と、改めて認識すると共に、自分の理解の浅さを恥じるばかり。

自分の備忘録的に書いた記事ですが、この記事にまとめるまでに、これまた1ヶ月以上かかっていたりします。
調べた物を整理して、文章にまとめて、再確認して、修正して、再構成して・・・、と、やっていると、いつまでたっても終わらなかったんですが、なんとかまとまりました。

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