昨日は富永家と言う東三河のあたりを室町時代に治めていた家が、室町末期に途絶えてしまうものの、家臣団が相談して田峯菅沼氏から跡継ぎを貰う話をしました。その家臣団の中に、このところやたらと登場している城所道寿の父親城所浄古斎がいる、というところで終わりました。
さて、今泉四郎兵衛と城所浄古斎が相談して田峯菅沼から菅沼定則を富永家の当主として迎える話を整えたものの、富永定則ではなく、菅沼定則のまま跡を継ぐということで今泉四郎兵衛は話をまとめてきたらしく、家臣団が反対します。そのため、定則は富永家の館である野田館に入城できず、しばらくは近くの殿垣内(とのかいと)という場所で待機する羽目になります。
富永の家を継ぐはずなのに菅沼姓のままであったり、富永の方が格上の家なのに格下の菅沼から当主を迎えることへの反発もあったようです。
で、このときに富永の家臣団にいた、富永半五郎勝光、城所浄古斎、塩瀬宮内左衛門資時、同直資、豊田藤介は富永家を出奔してしまいます。塩瀬と豊田は近くの領地で自立したようですが、富永半五郎勝光は西三河の守護吉良氏の家臣として転職したようです。そして、城所浄古斎の行方は不明ですが、田峯菅沼へ転職したともいわれます。もっとも、浄古斎の子城所道寿信景は確実にこの時か、その前くらいに田峯菅沼氏へ転職したようです。
吉良義昭に仕えた富永ですが、その後はよくわかりません。が、富永伴五郎という似た名前を持つ人が突如歴史の表舞台に登場します。
徳川家康の三河一向一揆が舞台となります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/66/2cfec46ea01dd64e1ab497e42c3e63cb.jpg)
※小さい画像しかありませんでしたが、野寺本證寺
三河一向一揆の時、吉良義諦(義昭)は混乱に乗じて徳川と対決姿勢を打ち出します。その際、藤浪畷で吉良の家老富永伴五郎忠元が徳川方の本多豊後守広孝勢に討取られます。このとき、大久保忠包なども討死する被害が徳川方に出ています。この忠元は25歳という若さながら勇者だったため、敵・味方もともに「伴五郎が死んだら、(吉良の)落城は近い」といったとか。大久保彦左衛門忠教は三河物語に富永忠元の話をわざわざ載せています。敵ながらあっぱれな武将だったのでしょう。
半五郎という名乗りが同じことから、一瞬勝光の子どもか!と思ったのですが、祖先は同じ富永ですが、別系統で吉良氏の家老として代々仕えた家の人のようです。しかし、富永半五郎勝光は、富永伴五郎家を頼って移籍したのであろうなぁ、ということは想像がつきます。
田峯菅沼氏からやってきた菅沼定則の随従の士として「城所助之丞(すけのじょう)」という人がいます。この人、城所道寿の従兄弟で富永家から田峯菅沼氏への転職組だという説もあります。ただ、この場合、一度家を見限った人が再度菅沼定則に従って富永家へ乗り込んでくる、ということになりますね。なんか変な感じがします。もっとも、城所助之丞が転職組で従兄弟、というのはネットで検索した結果のみに基づいておりますので、私自身の根拠は今のところありません。
まぁ、城所道寿も同じように示し合わせて転職したのか、はたまた、実は助之丞家は前から田峯の家臣で富永勝光と同じように道寿が頼っていたのかはよくわかりません。しかし、道寿はその後転職組なのに筆頭家老かそれ以上の待遇を勝ち取るわけです。もっとも、最後は残念な結果に終わってしまうわけです。
こうしてみると転職も、うまくいく場合とそうでない場合、はたまたうまくいったと思いきや駄目だった、という感じで、そうそう世の中甘くないものだねぇ、と思います。
ちなみに、今回のサブタイトル「うわ…、私の年収、低すぎ…?!」っていうのは、よくヤフーのトップページ左上段の広告スペースに出てくる広告のキャッチフレーズです。やたらと出てくるので気になっていたので、今回は転職ネタなので使ってみました。わかる人にはわかったのではないかと。。。
さて、今泉四郎兵衛と城所浄古斎が相談して田峯菅沼から菅沼定則を富永家の当主として迎える話を整えたものの、富永定則ではなく、菅沼定則のまま跡を継ぐということで今泉四郎兵衛は話をまとめてきたらしく、家臣団が反対します。そのため、定則は富永家の館である野田館に入城できず、しばらくは近くの殿垣内(とのかいと)という場所で待機する羽目になります。
富永の家を継ぐはずなのに菅沼姓のままであったり、富永の方が格上の家なのに格下の菅沼から当主を迎えることへの反発もあったようです。
で、このときに富永の家臣団にいた、富永半五郎勝光、城所浄古斎、塩瀬宮内左衛門資時、同直資、豊田藤介は富永家を出奔してしまいます。塩瀬と豊田は近くの領地で自立したようですが、富永半五郎勝光は西三河の守護吉良氏の家臣として転職したようです。そして、城所浄古斎の行方は不明ですが、田峯菅沼へ転職したともいわれます。もっとも、浄古斎の子城所道寿信景は確実にこの時か、その前くらいに田峯菅沼氏へ転職したようです。
吉良義昭に仕えた富永ですが、その後はよくわかりません。が、富永伴五郎という似た名前を持つ人が突如歴史の表舞台に登場します。
徳川家康の三河一向一揆が舞台となります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/66/2cfec46ea01dd64e1ab497e42c3e63cb.jpg)
※小さい画像しかありませんでしたが、野寺本證寺
三河一向一揆の時、吉良義諦(義昭)は混乱に乗じて徳川と対決姿勢を打ち出します。その際、藤浪畷で吉良の家老富永伴五郎忠元が徳川方の本多豊後守広孝勢に討取られます。このとき、大久保忠包なども討死する被害が徳川方に出ています。この忠元は25歳という若さながら勇者だったため、敵・味方もともに「伴五郎が死んだら、(吉良の)落城は近い」といったとか。大久保彦左衛門忠教は三河物語に富永忠元の話をわざわざ載せています。敵ながらあっぱれな武将だったのでしょう。
半五郎という名乗りが同じことから、一瞬勝光の子どもか!と思ったのですが、祖先は同じ富永ですが、別系統で吉良氏の家老として代々仕えた家の人のようです。しかし、富永半五郎勝光は、富永伴五郎家を頼って移籍したのであろうなぁ、ということは想像がつきます。
田峯菅沼氏からやってきた菅沼定則の随従の士として「城所助之丞(すけのじょう)」という人がいます。この人、城所道寿の従兄弟で富永家から田峯菅沼氏への転職組だという説もあります。ただ、この場合、一度家を見限った人が再度菅沼定則に従って富永家へ乗り込んでくる、ということになりますね。なんか変な感じがします。もっとも、城所助之丞が転職組で従兄弟、というのはネットで検索した結果のみに基づいておりますので、私自身の根拠は今のところありません。
まぁ、城所道寿も同じように示し合わせて転職したのか、はたまた、実は助之丞家は前から田峯の家臣で富永勝光と同じように道寿が頼っていたのかはよくわかりません。しかし、道寿はその後転職組なのに筆頭家老かそれ以上の待遇を勝ち取るわけです。もっとも、最後は残念な結果に終わってしまうわけです。
こうしてみると転職も、うまくいく場合とそうでない場合、はたまたうまくいったと思いきや駄目だった、という感じで、そうそう世の中甘くないものだねぇ、と思います。
ちなみに、今回のサブタイトル「うわ…、私の年収、低すぎ…?!」っていうのは、よくヤフーのトップページ左上段の広告スペースに出てくる広告のキャッチフレーズです。やたらと出てくるので気になっていたので、今回は転職ネタなので使ってみました。わかる人にはわかったのではないかと。。。
長篠生まれの城好きオヤジ、奥山休賀斎こと
くらじろうと申します。
城攻めスタンプラリーの検索でこちらを偶然知りました。
吉良の富永氏を訪ねて散策したことが何度かありました。新城の富永氏との明確なつながりがつかめず、忘れかけて矢先です。
新城市内の史跡も最近ご無沙汰してますので、またいろいろと回ってみたいと思います。
浅学な歴史素人ですので、いろいろ勉強させていただきたく、またよろしくお願いします。
私も一歴史好きとして書き散らしているだけでございます。是非今後ともよろしくお願いしたいと思います。