長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

二連木城 ~長篠合戦との関係性~

2013年01月05日 | 落城戦記
先月のことですが、たまたま骨格矯正に向かう途中発見した城「二連木城」です。

※雨の日、かつ、携帯写真なので画像が粗いのはご容赦ください。


※浅野家絵図でしょう。現在は本丸と二の丸が公園となっており、その他は住宅地となっていました。

前々から興味があった城です。
現在は大口公園となっていまして整備されています。

※整備されまくり。


※近場の公園としてはGOODでしょう。

ですが、意外と曲輪の配置状況がわかり土塁なども残っており、まんざら捨てたもんじゃありません。

※こんな見事な土塁が!結構綺麗に残っています。


※公園と老人福祉センターの間の道。これは本丸と二の丸の堀切を利用したもの。


※本丸前の南曲輪との間は現在道となっています。写真右側が二の丸で現在は老人福祉センター跡。

さて、どんな城かは公園の案内表示を転載。
明応2年(1493)に戸田宗光によって築かれた城。その後多くの戦乱に巻き込まれ天正18年(1590)に戸田康長の関東移封に伴い廃城。
位置的には吉田城の東に位置しており、支城的な役割を果たしたことは十分想定されます。

実際、二連木城の戦い、と呼ばれる合戦があり、吉田城を攻めた武田軍に対して徳川軍が籠城。その際、支城の二連木城も攻撃対象となりますが徳川軍が後詰し城兵を収容。吉田城へと引き上げたとされています。

で、この戦いはブログタイトルにも関連する『長篠の戦い』に大きく関係しています。
「当代記」という資料では武田勝頼は長篠侵攻に当たって、足助侵攻⇒野田落城⇒吉田城攻撃⇒二連木落城⇒長篠城包囲、という流れが記載されているそうです。(『武田氏研究』第37号 武田氏研究会 「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」柴 裕之氏)

武田勝頼の目的が最初から長篠城だったのか、それとも吉田城が攻め落とせず長篠城を包囲したのか、諸説ありますが、二連木城を落とすことで長篠城を武田軍が包囲したときに、吉田城に対する武田側からの圧力としたことが想定されます。吉田城から長篠城に向かうにあたっては、たぶん、勝頼も現在、豊橋から長篠へ向かう場合に利用することが一般的な国道151号沿いではなく、地元民が抜け道としてよく利用する現在の豊川用水沿いの経路を利用したのでしょう。
実際、自分は野田城方面から豊橋の整骨院へ向かう際、石巻を経由して飯を食い、そこから豊橋駅前へ向かう途中に二連木城をナビで偶然発見したわけです。

ところで二連木城の戦いをwikiでは「元亀二年(1571)二月」に発生したことになっています。
これは最近否定されつつある元亀二年武田東三河侵攻説に基づいていると思われます。私は二連木城の戦いは長篠合戦時のものだと考えます。
(否定説の詳細はこちら。)

と、まぁ、偶然発見した城で結構楽しめました。これも城好きの特権ですな。他人にはなかなか理解されないでしょうけどね。。。

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