長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

奇祭

2014年01月23日 | 戦国逸話
祭り。

東三河では手筒花火などという伝法なものがあり、それこそ侠気を発揮して男としてナンボ、という世界観があるように見受けられます。
私も一度だけ上げたことがありますが、やった後の爽快感は確かに得難いものでした。


※私です。

各地で神事、祭りで人々が熱狂しています。
が、その元を辿ると、相当に荒々しい原型にたどり着きます。

今回は戦国時代ではありませんが、明良洪範という本の話を読んでいましたら、尾張のお祭りの話が出てきまして「え・・・。」とドン引きした話があったのでご紹介を。

〇尾張大納言光友(巻15)
 尾張大納言光友卿は光義と名乗っていた時、法を厳重にして万事を先代義直の掟を守らせていた。

 正月25日は熱田で神事がある。
 この神事は、名古屋の者と熱田の者が打ち合うもので、昔からの行事である。
 昔は、鑓や薙刀で戦っていたが、やめさせて、今では刀で打ち合い、双方に少々怪我人が出ると奉行が棒を入れて双方を引き分けている。

 また、正月13日は多田の神事があるが、この神事は、昔は道を歩いている人を捕らえて生贄にしていた。
 今では雉肉を人肉に代えて行っている。

 これらは皆、義直公の仁政の賜物である。(以下略)
 
 え~と。。。
 まず、1つめから参りましょうか。

 「うらにわさん、引越してきたばかりで知らないかもしれませんが、今月の25日にこのあたりの人は熱田の人達と刀で斬りあうことになってるんですよ。今年は当番ですからよろしく。あ、槍とか薙刀はだめですよ。」

 と、いう話は、今のところ自治会から来てません。
 熱田に住んでる先輩とかもいますけど、
 「いやー、昨日さぁ、例の祭りで斬られちゃって・・・。」
 みたいな話は聞いたことがありません。

 既に無くなったお祭りなのでしょう。
 て、いうか、無くなって良かったよ!!!

 鑓や薙刀を廃止して刀で斬りあうようにした、というも仁政の一つとなっているところを見ると、鑓や薙刀の方が死傷者が出やすい、ということを意味しているように見えます。
 戦国時代の戦争でも刀で打ち合うなんてことは頸でも取りに行く場合で、よっぽど槍や鉄砲で戦っていたようですから、初期の頃の熱田VS.名古屋の祭りは、実戦に近い。祭りと呼んでいいのかどうか、というレベルです。

 たぶん、それこそ、昔、何か遺恨があって、祭りにかこつけてやりあっていた、というのが真実に近いと思われます。

 しかし、奉行たちも大変です。
 怪我人が出始めた段階で「はい、終了~~~!」といいながら割って入るわけです。

 怪我人がでるような激しさが出ているときは、皆アドレナリン全開で燃え上がっているときに仲介に入らなきゃならないわけで、奉行にも怪我人がでたかもしれません。
 それこそ、
 「てめぇ、いてぇじゃねぇか!やめろって言ってんだろうがぁぁぁ!」
 と、熱田VS.名古屋VS.奉行の三つ巴になって・・・、という年もあったやもしれません。

 この祭りがなくなってほっとしているのは奉行達だったかもしれません。

 さて、問題は2番目、。

 『今では雉肉を人肉に代えて行っている』
 
 さらっと書いてくれていますが、ものすごい怖いことを書いてます。
 
 儺追系の神事というのは、地域にもたらされる災いである『厄』を引き受ける役に押し付けて地域から出てってもらうことで地域の厄が無くなる、という発想のもとで行われているようです。

 稲沢市国府宮はだか祭りなどでは、神男に裸男達が群がり、神男に厄をなすりつけるために押し合いへしあいするという結構危険な祭りで知られています。
 神男は公募制で、男を魅せるステータスにもなっていますが、裸男に引きずりおとされて揉みくちゃにされて亡くなってしまうこともあります。

 こうした儺追系って元々は、運悪く儺追の時期に地域を通りがかった旅人が住民に捕獲されて、厄落としとしてぼこぼこにされて、最後、ありがとよ、という意味も少しは込められたでかい餅を背負わされて地域から放り出される、という、旅人にしてみれば、とんでもない災難な神事であったようです。

 多田の神事とは、どこの神事を指しているのかよくわかりませんが、ここの神事でも道を歩いている人を捕まえる、と、ありますので、まさに該当してくると思います。

 その昔、旅人と言うものは、ある意味地域社会に属していない危険因子として認識されていた部分もあるので、こうした目に遭うこともあったのでしょう。

 もっとも、多田の神事では本当の意味で「生贄」にされてしまっていたようで、相当に物騒な神事だったことがわかります。

 そして、これも徳川義直公によって雉で代替するようになったとあります。

 しっかし、無実の人を生贄にして、厄が逃れられると考えていたようですが、その人達が祟る、とはかんがえなかったのでしょうかね。それこそ、猟奇小説であるように、やたらと歓待されて最後の最後に突然生贄にされてしまう、という恐ろしい状況が待っていたのかもしれませんが、そこまでは明洪良範は書いていません。

 徳川義直って言えば、江戸時代の人。
 そんな時代まで、結構今からみると恐ろしげな風習があちこちにあったのですね。
 今の時代に産まれて良かった。

 て、明日、突然総代さんがやってきて、
「あ、うらにわさんね、25日なんだけど・・・。」
 と、言ってきたらどうしよう。

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