今、政権の中心人物らは、侵略かどうかは国の立場で違うというようなことを言っています。
しかし、満州に傀儡政権をつくり農地を奪い日本から満蒙開拓団を送り込んだことは、侵略とは言わないのでしょうか。
私は、数年前、この地方からの満蒙開拓団への参加実態について、数少ない生き残りの人から事実を詳しく聞くことが出来ました。
また、この方の膨大な手記を涙しながら読みました。
満州開拓は、満州建国の目的を五族協和、産業開発、内地の過剰人口対策の解決と位置づけし、重大国策として進められました。
この地方の竹原村と中原村は、昭和13年、県の呼びかけにより開拓移民の計画を立て、県下のトップを切って満州に分村(鳳凰村)をつくることを決めました。竹原村村会議員であった片岡徳茂団長と団員は、それぞれの訓練などを終え昭和15年2月18日から入植を開始しました。私の住む旧中原村から19家族が入植されました。
[鳳凰開拓団の概況]
場所:満州国北安省徳都県南和村(現在の黒竜江省)
終戦時在籍:大人男68名、女60名、子供男72名、女74名 [合計274名]
写真は、農業の休みの日に村民全員で写したという事でした。この写真のほとんどの方が亡くなられました。
入植地の状況:広野地質は第三世期層、気 温:最低-47℃、地下凍結2.7m、無霜期間4月中旬~9月上旬
農地面積:水田20㌶、畑190㌶、採草地・放牧地・備林16、790㌶、合計17、000㌶
昭和15年7月~8月家族を招致、小学校を開設、昭和16年には、水田を開き、同19年になると乳牛の飼育を開始
昭和20年8月10日ソ連軍が参戦
当時、村の成年男子は、軍隊に徴兵され開拓団は、ほとんど老人と婦女子だけという状態でした。
やがて、日本の敗戦が伝わり、特務機関の人らによる「ソ連軍や中国人による日本人への暴行」「米国による日本人抹殺」などのデマがきっかけで村民はパニックになりました。そんな状況でも「なんとか全員無事で内地へ帰る」話し合いがされましたが周囲は次第に険しい情勢になりました。
8月24日ソ連軍侵攻の情報や中国住民が村を取り巻くという不穏な空気のなか、ある家族が自決し、それを見た他の村民は団長に自決命令を迫りました。ここに至って、最早どうすることも出来ないと判断した片岡団長の命令で団長の家族をはじめ各村民は、手榴弾、小銃、日本刀、毒薬をもって次から次へと自決し、夕方までには190名が自決しました。
残っていた40名の村民も自決を希望しましたが、団長の命令は「団長、老齢者、病弱者は夜明けをもって自決、残る24名は日本へ逃げ帰り、この悲惨な開拓団の最後を報告する」というものでした。
8月25日、鳳凰開拓団は6年半という短い歴史を終えました。村を脱出した村民も飢餓と疫病に倒れ、生きて母国の土を踏んだのは10数名に過ぎませんでした。
戦後、ソ連軍に抑留された人も苦難の強制労役の末、昭和21年6月復員した村民が中心になり「鳳凰会」を結成し、殉難者の慰霊法要と各種の更生援助活動を行ってきました。(参考資料:「飛騨下呂 通史・民俗」「平和の礎」)
それまで封禁令を破って満洲侵略を繰り返していたのは中国人です。
満洲建国と鳳凰開拓団の歴史は、永遠に輝く世界史上の大きな足跡です。