大分以前から読み返してみたいと思っていた本があった。家の中のあちこちに乱雑に平積みのままにしてある本が多いが、それでも読もうとする本は大体見付けることができる。ところが、この本だけは埃と紙の堆積の中に隠れてしまい、その消息を絶った家出人のようになってしまっていた。昨日は暇に任せて、10年以上も会ったことのないその息子だか娘だかを、とにかく気合を入れて探した。そして、本箱の文庫本ばかりを押し込んでおいた一画でようやく見付けることができた。
ところがもう1冊、思いがけない本が一緒に出てきた。山田風太郎の「あと千回の晩飯」という本だ。「忍者ナントカ」とかなどという忍法シリーズの著者として名前だけは知っていたが、その人の本を初めて読み出して、この作家に抱いていた思いが瞬く間に一変した。彼を有名にした数々の本は読んだという記憶がなく、恐らく、題名にでも惹かれて手にしたのだろう。その辺りのことはもう覚えていない。
先日、最近の呟きには老いを気にした面が出ていないかと、ある友人から指摘をされた旨呟いた。実はその時も、そしてそれよりも以前からいつともなく、この「あと千回の晩飯」のことは頭の片隅にあって、時々意識してはいた。この先、何年もこの仕事を続けられるわけではなく、やがては去っていく身だ。しかし、と言えばいいのか、だから、と言えばいいのか、あの牧場で平々凡々と生きて、名前も知らない花や野鳥ばかりか、もっと世俗的なことにも一喜一憂している牛守の日々を、この独り言を始めた目的であった牧場の宣伝とは大きく外れてしまうが、呟やき続けてこうという気持ちになっていった。
この独り言はそれだけのものに過ぎない。あの人を持ち出すまでもないと思っていたのだが、この刺激的な題名の本が出てきたので、その辺りの漠々とした思いや、背景をこの機会に述べておきたくなった。因みに、この本を書き始めた作家の年齢は、まだ70歳を過ぎて間もないころだったはずだ。
で、忍法の大御所には比べるべくもないが、できたら、広い草原の遠くに人影があって、その人影が牧柵を修理したり、牛を追ったりしてる。そこに風が吹いたり、雨が降ったりと、この呟きがそういう情景になってくれたら、それで充分だ。ただ、あそこを吹き渡る初夏の風のように、あまり爽やかとは言えないのが申し訳ないのだが。
作家は、千日以上の夕飯を食べて、永遠に還っていった。本日はこの辺で。