入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

       ’24年「夏」(42)

2024年07月18日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 梅雨の名残を引きずりながらも、雨の降る日は少なくなるようだ。その代わり、里でも気温は35度近くまで上昇することが予想されている。ひと昔前なら、考えられなかった気温だ。

 昨日、囲いと隣の第4牧区を仕切る出入り口を開け、牛たちを新しい放牧地へ誘導した。かつての古巣にはまだ草が残っているから、まったく関心を見せずに居残りを決める牛もいれば、素直に後に付いてきた牛もいた。
 かわいい顔をしたジャージー牛は意外と気が強く、好奇心も旺盛で、すぐに豊富な草を求めて移動した。それは良しとするも、大きな図体をして見るからに愚鈍そうなホルスタイン牛21番は早くも電気牧柵の洗礼を受け、心配していたアルミ線を切ってくれた。
 
 7,8千ボルトの電圧を維持するにはできるだけ漏電を避けねばならず、電気牧柵の下に生えている草も刈った。その草を目当てに来た牛がアルミ線に鼻で触れて、途端に逃げていく様子も見た。
 今までは鹿も逃げることのできない囲いの中、それにいつでも牛たちの行動を見ることができたが、これからはその10倍以上、いやもっと広い場所に出ていく。当然、管理は大変になる。牧場内を歩く歩数はまた増えるに違いない。
 そういえば囚われの鹿2頭はどうしたか、森へ帰っていっただろうか。

 今朝一番の見回りに出たら、囲いの中には1頭の牛もいなかった。心配していた電気牧柵も、横線から小入笠の頭に延びていく縦線との交差点で電圧を測ってみると7千ボルト以上あった。
 これだけの電圧があれば、電気牧柵はまだ無事というわけだが、あくまでも「まだ」である。後で牧区全域を見回るつもりでいるが、その時にはまた状況は変わっているかも知れない。

 日の昇る前ながら雲は高く、青空も見えていた。この梅雨の間に、中アの山々の残雪は消え、北アも、槍と穂高に惜しむように少し白いものを残していたが、青い山肌が夏山の季節の到来を告げていた。

 8月の繁忙期を控え、予約はお早めにお願いいたします。
 山小屋&キャンプ場の営業案内は下線部をクリックしてご覧ください。
 本日はこの辺で。


 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

      ’24年「夏」(41)

2024年07月17日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

 
 薄い雲の間から久しぶりに太陽が顔をのぞかせている。そろそろ梅雨も終わっていいころのはずだが、予報はどうなっているのだろうか。
 
 囲いの中の牛たちを隣の第4牧区に移す時がやってきた。昨日はそのため、土砂降りの中を幾日ぶりかで電気牧柵の点検と補修のため小入笠の頭まで登った。
 案の定、幾か所も鹿によって電線が切られていて、これからしばらくは断線、補修、断線、補修と、この憎たらしい動物を相手にイタチごっこを繰り返すことになる。それに牛たちも、電気柵の衝撃を身をもって知るまでは同じことをするはずだし、時には人もそれを味わう羽目になるだろう。

 中段を過ぎると鹿が警戒する声は聞こえてきたが、幸い断線の被害はほとんどなかった。よく理由は分からないが、牧柵の向こうは林で、しかもそこから先は急な斜面となって落ちているから、その地形的なせいかもしれなかった。
 頂上まで50メートルほど手前、急な勾配が終わるあたりで上を見ると、数メートル先に1頭の小鹿がこっちを見ていて逃げようとしない。今春生まれたばかりで、もしかすれば初めて人を目にしたのかも知れず、変な動物が近づいてくると思って様子を伺っていたのだろう。

 今はマーガレットの咲く季節、そんな花は牧場にとって好ましいわけではないが、それでも雨に濡れながら咲いている白い花の一群をしばらく眺めた。
 牛が来ればこれらの花はことごとく蹴散らされてしまう。それまでの光景で、あの花もまた短命である。

 小入笠の頭の電気牧柵は近年、鹿の被害から免れている。かつては、そこまでやるのかというほど切られたが、上段をリボンワイヤーにし、下段をアルミ線にし、支柱を細いグラスファイバーに換えただけだが、それでも以前より目立つからその効果だろう。
 いつものように、ここでしばらく休む。雨雲で遠くは見えなくも、放牧地の中に点在するコナシや落葉松の木がここでは牧の眺め、その風情に磨きをかけている。

 鹿にしても、コナシにしても、どちらも牧守にとってはとても好意的には扱えない相手で、どのくらい手を焼かされてきたか分からない。それが時々、所によっても、違った印象を与えてくれて、そういうふうに思える場所の一つがここだと思っている。

 山小屋&キャンプ場の営業案内は下線部をクリックしてご覧ください。
 本日はこの辺で。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

       ’24年「夏」(40)

2024年07月16日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

 
 夜中また起きている。9時ごろ寝て、深夜に目覚めた。どうもこういう悪しき傾向が数日続いている。また雨が降り出した。かなり激しい雨音が聞こえてくる。
 夕方、最後の客が帰って、ここには誰もいなくなった。そして今は真夜中、眠れそうもないので独り言でもしながら気を紛らせようとして、ふとあの人、良寛の歌を思い出した。
 
 正確さを欠くといけないので、歌そのものの紹介は控えるが、晩年の孤独な夜の草庵で、淋しさがあるから気が滅入らずに済むと詠っている。漢詩でも、今夜のような雨の夜、山道は幾つあってもそこを行く人など一人もいないだろうと、その孤独感を吐露している。
 しかし、良寛を引き合いに出して良いか分からないが、ここの暮らしに格別な淋しさがあるわけでもなければ、「鬱」を感ずることもない。いつの間にかそういう感覚などはどこかへ行ってしまったような気がする。
 
 もとより良寛のような才能もなければ、修行もしてないし、感ずることも表現することもおぼつかず、できることといったら老いたあの人の暮らしを想像してみるぐらいだが、それもあまり鮮明な像が浮かんでくるわけではない。
 確か亡くなったのは72か3歳で、当時としては清貧な暮らしを続けた割には、長生きした方だと言っていいだろう。

 昔し、若いころに1,2冊良寛のことを書いた本を読んで、ひねくれた感想を持ったことを思い出した。晩年、あのような人生を振り返って、もしかしたら良寛は秘かに自身の生き方に悔いを覚えたのではないかという見方、疑問である。
 本来なら、故郷の出雲崎に名主として暮らす道があり、もしもそうなったなら実質的な面で地域にもっと貢献できただろうし、家族を持ち子もなすことができただろう。その方が意義のある人生だったのではないかという思い、悔いが去来することはなかったのだろうか。
 
 禅の道に生きて人生の大半を空費し、とあえて言うが、結局は故郷でうらぶれた晩年を生きるより仕方のなかった虚しさ、今でこそ、いや当時も、その生き方の評価は高かったかも知れないが、本人自身はどう感じていたのだろうか。「悟了の人」などともてはやす後世の人もいるが、実像は霞の向こうで、見えてこない。
 ただ、老いさらばえた良寛が自分の尿で濡らした布団の上で、ひたすら貞心尼を待つ心情は伝わってくる。

 ようやく眠れそうになってきた。

 山小屋&キャンプ場の営業案内は下線部をクリックしてご覧ください。
 本日はこの辺で。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

       ’24年「夏」(39)

2024年07月15日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 8頭の和牛が山を下りて、また牧場が少し淋しくなった。ただ、朝一番の見回り、そのために出入りする第2牧区の入り口の開閉、電気牧柵の電圧状況、給餌や給塩などを気にしなくて済むようになった。あれを、つまり下牧の選択が満点の解決方だとは今も思わないが、そういう肉体的な労力、精神的な負担からは解放されたのだという思いは大きい。
 今頃あの牛たちは牧舎での窮屈で、単調な日常を過ごしているのだろうが、頭の隅にここで過ごした短い日々の記憶が残っているだろうか。
 
 第1牧区の和牛たちは、迎えに行って呼べば300メートルほど離れた塩場までも列を作ってやってくるようになった。
 きょうは良い子たちにそういう牛の様子を見せるため第1牧区へ連れてった。小学校4年のK君と年長組のHちゃんだ。多分二人は、好奇心と恐怖心をないまぜにして、二人が乗った軽トラに近付いてくる黒い牛の群れに身体を固くしていただろう。
 それでも、ひと夏の思い出としては二人にとっていい体験だったと思う。広大な放牧地からの眺めにも目を丸くしていた。


 
 横浜の学校に通うK君の小学校はもう20日から夏休みになるのだとか。「大学並みじゃないか」と思わず言葉が出た。
 確か、われわれの時代の田舎の小学校の夏休みはたったの17日間だった。ただそれ以外に田植え休み、稲刈り休み、寒中休みがあって、それらの休みを合わせると、都会の小学校と休みの日数は変わらないと言われたが、信じなかった。

 囲いの草も大分少なくなってきたのが分かる。近々に乳牛と2頭の鹿を第4牧区に移す。厄介な電気牧柵の洗礼を受けさせて、それからは梅雨の開けるのを待つことにする。
 当然、牛たちが電気柵の衝撃を体感するまでには時間がかかり、それまでには何度となくアルミ線やリボンワイヤーを切られるはずだ。しばらくは点検と補修のため、小入笠までの往復に耐えねばならない。

 K君Hちゃん二人の写真は掲載に当たり両親の許可を得た。帰るのを渋る二人を、今度は望遠鏡を使って、星を見せてあげるからと約束し、見送った。

 山小屋&キャンプ場の営業案内は下線部をクリックしてご覧ください。
 本日はこの辺で。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

       ’24年「夏」(38)

2024年07月13日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

    散々てこずらせてくれた牛たちが里に帰る前日の様子 

 囲いの中の牛と2頭の鹿は、きょうも雨の中でもひたすら草を食んでいる。あれが彼女たちの仕事だと言ってよいだろう。ただそれだけの短命な一生である、思うこともある。
 降る雨の中、外の様子を見ながら埒もないことを思ったり、考えたりして時をつぶすのもたまにはいいだろう。

 PCとiPhoneを新しくした。かなりの出費だったが、どちらも今の暮らしには欠かせないから仕方がなかった。まさにここは山の中、こんな天気の日は誰も訪れる人がいない陸の孤島とも言え、これらの機器がなければ外部との連絡は遮断されるし、何の情報も入ってこなくなってしまう。
 外界との縁を一切を絶って、世捨て人のような暮らしもしてみたいと思うこともあるが、社会的欲求は食欲、性欲よりも強いと言われる、まず無理だろう。

 時々ここでも呟いてきたが、新聞もラジオもテレビもなかった時代、人々は夜をどんなふうに過ごしたのだろうか。今よりか、時を持て余していたのか、それともそれを当たり前のこととして受け入れていたのだろうか。それこそ夜鍋などをして。
 そういえば、わが家にも子供のころそういう人がいた。その人のことを祖母だと思っていたが、実はそうではなかった。
 明治2年に生まれ、80歳でも竹馬に乗ろうとしたし、読み書きはでき、本も読んだ。雨の日に、1キロ以上離れた小学校まで傘を持ってきてくれ、「お前のお婆さんはちょんまげをしている」とからかわれた。頭のてっぺんの髪が薄くて、藁草履のようなかつらをのせていたのだ。

 病に倒れるまでは、自身のことは食事から洗濯に至るまですべて一人でしていた。着物しか着なかったから、洗濯は洗い張りである。昼間はたまに人が訪ねてきたりしていたが、夜は一人で早かった。
 暗い部屋に横になり、あの人は何を考え、思い、どんな夜を過ごしていたのだろうか。ラジオすらなかったが、毎月東京の孫に当たる人から婦人雑誌が送られてきていた。
 死の一日だか二日前だったかにそれを告げられ、学校を休んだ。生涯で一番泣いた日だった。

 今、あのお婆さんと同じような暮らしを図らずもしている。上ではあまり本も読まず、夜は決まった番組ふたつを掛け持ちで見る他はすることがなく、それさえ最後まで見ることなくいつの間にか寝ている。牛とは違い、夜は無為を食べて生きているようなものだ。
 問題の牛たちもいなくなった。これからは今までよりか少し長く、遅くまで起きていて・・・、はて何をしようか。

 山小屋&キャンプ場の営業案内は下線部をクリックしてご覧ください。
 本日はこの辺で。明日は沈黙します。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする