入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

      ’24年「秋」(71)

2024年10月31日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

 
 月末を控え、納金のために高遠支所へ下った。紅葉真っ盛りの中、林道には色鮮やかな落ち葉がさながら絨毯のように敷き詰められ、その夥しい量に自然の持つ力の途方もなさ、圧倒されるばかりの無駄を改めて感じさせられたものだ。
 今年は夏が長かったから、里の紅葉は色彩を欠き驚くほど貧相で、他方杖突街道の走る狭い藤沢谷の田は、刈り取られた稲株からまた新しい芽が出始め、いつもなら感ずるこの時季の放置された田の閑散とした風景ではなかった。

 往路は久しぶりに芝平の谷を下ってみたが、その荒れ放題の道に辟易して、帰りはいつものように千代田湖経由にした。
 その途中、松倉の集落を走っていた時だった、1本の電話が入った。高遠支所のT君からで、その内容には驚いたというより、呆れて言葉をなくした。  
 いつのことだか知らないが、テイ沢から小黒川林道に出て、そこからは右、林道に沿って流れる小黒川を上流に向かって行くべきなのに、下流へ下ってしまった人たちがいたというのだ。高速道路を逆行する人もいるご時勢だから、こういうことも起こりうるのだろう。
 
 戸台までは20㌔、どこまで下ったのか知らないが、親切な人の目に留まり、お蔭で大事なく車で送り返してもらったそうだ。それにしてもこういう時の登山者の心理というのは、引き返すよりかとにかく人里へ出たいという一心で固まってしまうものなのだろうか。
 以前にも、高座岩からは20分も歩けば御所平峠に着き、そこからは山道を右に下れと教えたのに左の法華道に進み、20分どころか2時間以上もかけて荊口へたどり着いたやはり3名ほどの女性の登山者がいた。

 こういう人たちに対して、行政はどこまで責任を持たねばならないのかは知らないが、調べに来るという。
 それもいいが、あんな所で道を間違える人がいるなら、そういう心配をしなければならない場所が他にもいくらでもある。にもかかわらず、これまで行政は何もしてこなかったと言っていい。
 伊那側のそこらここらにある不出来な道標、案内板は材料を工面して個人で用意したものだ。今は営業を中止してしまった種兵小屋の高橋さん夫婦も、それとは別に山道を整備し、同じことをしてくれた。その嚆矢となったのが、今は亡き北原のお師匠である。

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 本日はこの辺で。

 


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      ’24年「秋」(70)

2024年10月30日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 霧が深い。視界は数十メートル、白いベールの向こうに紅葉した樹々が薄い影絵のように見える。コナシ、マユミ、レンゲツツジ、山桜。こんな天気なのに、霧の中から小鳥の声も結構聞こえてくる。

 今回の国政選挙が終わり、与党である自民、公明は大きく議席を失った。そのことについては、多くの識者や報道に携わる人たちが連日語る通りだろう。そう思って聞いている。
 政(まつりごと)から遠い山の中にいてぼんやりと感じていることは、選択的夫婦別姓などの問題ではもちろんない。それよりか医療制度の危機、教育の格差、それから安楽死の問題であったが、美味しい話ばかりしか聞こえてこなかった。
 
 健保は医療費負担が1割と3割だから、医師と製薬会社は患者の負担額を甘くみて、特に高齢者に対して不必要と思えるようなな検査や医療に加え、これでもかというほどの薬を持ち帰らせる。
 医療費負担の増額は患者ばかりか、こうした今の制度に悪乗りしている政治家、団体、企業も反対して難しいだろうが、このままでは早晩この制度はやっていけなくなるのではないか。(社会保障費37兆円、33㌫/112兆5000億。令和6年度予算より端数切捨て)
 
 この医療と関連するが、ベッドに縛り付けられ、下の世話もできず、生きる意欲を失った人の場合は特にそうだが、健常者であっても人生の高、限度を知った人は個人の持つ最高の自己決定権である自死、それも安楽死の選択をもっとできるようにすべきとだと思う。社会が高齢化する中、これは深刻で差し迫った問題だと思う。

 もうひとつ、都会で学ぶ地方出身者と、自宅から通える学生とでは経済的負担があまりにも違う。そのために、明らかに大きな格差が起きている。このまま見捨てられていてもいいのか。
 せめてアメリカの州立大学のように、地方の国立大学が、その県の出身者であれば授業料を軽減するとか、逆に他の県の出身者であれば軽減するとか、もっと弾力的な方法がありはしないか。奨学金制度においてもしかり。
 結構卒業後も、その地に留まる者もいて、地方のためにもいいと思うが。

 霧が少し薄れてきて視界が明けてきた。「秋の訪れを感じます」とテレビから聞こえる嬉しそうなレポーターの声。ここは「とっくにいい秋が来ています」。
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      ’24年「秋」(69)

2024年10月29日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

 
 先日、遠目にはコナシの夥しい枝が日ごとにワイン色に見えてくると呟いたが、そのわけは言わなかった。実はあの木には今、小さな赤い実が無数に付いていて、きょうのような曇り空の天気では余計にそんな色に見えると思って眺めている。
 しかし、同じような大きさの黄色い実を付けた木もある。それでも全体は、やはりワイン色に見えるのだから実の役割があるにしても、そのせいだけではないのかも知れない。やはり「性悪女の木」にされてしまった夥しい数の厄介な枝が、そのように見せているのだろうか。

 昨日の午後も3時を過ぎて、台湾からの待ち人は小さなバイクに乗ってやってきた。20代、もしくはそれより上でも30代前半であったろう。日本語の能力は、意思を通じ合うのに殆ど問題がなく、それも丁寧な言葉使いであった。
 実に精力的な旅を続けていて、日本のこれまでに訪れた場所やこれからの予定を聞くと、こっちが疲れてしまうほどで、そのためによく事前学習もやってきたように思えた。
 
 日本の歴史に関心があるらしく、織田信長や真田幸村の名が出てくるうちは黙って聞き流していたが、穴山だ小山田の名が出てきたのには驚いた。本能寺の変に至っては羽柴秀吉の謀略ではないかと言い出し、そうでなければ毛利攻めを中止して、あれほど短期に引き返すことはできなかったはずだと言い出すほど、これにも驚く。

 翻って台湾について、人口1千200万人、島の面積はほぼ九州と同じだと、どれほどの日本人が知っているだろうか。
 日清戦争に敗れたため、台湾は日本に割譲され、統治され、日本語による教育が行われた。これくらいは知っている。しかし、調べなければ戦争勃発の年、1894年は出てこない。
 1920年代、日本が軍事力をもって中国大陸への野望を実現しようとしていた中、蒋介石の国民党と毛沢東率いる共産党軍とが共闘したり争ったりした。第2次世界大戦で日本が破れ、大陸から去ると、またしても内戦が起こり、破れた蒋介石や国民党軍がこの島に渡った。これは歴史の教科書にも書いてある。
 
 中国は台湾の独立を認めようとせず、台湾海峡を挟んで近年その関係はますますきな臭くなってきている。このことは誰でも知っている。案じてもいる。
 東日本大震災の際には最も多くの義援金を送ってくれたように親日的であり、台湾のIT企業TSMCなどがわが国への進出を図るなど、経済的な交流は盛んである、この程度でしかない。
 台湾にもきっとかの国の織田信長がいただろうし、真田幸村もいただろうが、そういう歴史を大方のわれわれは知らない。

 今朝は約束の時間より1時間早く起こされ、前日から行ってみたいと言われていた場所を案内した。その後、できたらもっと日本の紅葉も見たいというので、とっておきの場所に連れていった。きっと、彼の旅の思い出の1ページぐらいにはなっただろう。
 
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      ’24年「秋」(68)

2024年10月28日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 昨夜から降り続いていた雨が止んだ。目の前には渋い秋が広がり、就中権兵衛山の落葉松の黄葉がまた一段と進んだのが分かる。
 全体の色調はまず下から牧草の緑、そして中段に雑木の林の黄色に赤が少し混ざり、点在するモミの緑はきょうはあまり目立たないまま曇天の空へと続いている。
 
 囲いの牧草は雨に濡れてまだ鮮やかな緑の色を残しているが、その中にきょうも鹿の姿はない。罠を仕掛けてからすでに9日が過ぎているというのに、いくら誘引してもこれではもう、賢くなった鹿の捕獲は難しいかもしれない。

 外へ出たら、雨は一時止んだだけでまた降っていた。初の沢の大曲まで行けば、それまでの黄色が主体であった色調にも赤い色が目立つようになる。特に南面の斜面にはモミジやカエデの大きな木が幾本もあって、ここらあたりの赤や朱の色を目にしてやっと、そこまで出かけけていった理由、目的が自分の中ではっきりとしてきた。
 
 大曲を回ったところで、藪の端に雨に濡れた鹿の尻が見えた。すぐ近くだ。車の接近に気付かないまま草を食べていたようで、さらに近付いてみると大きな雄鹿だった。
 敵もようやくこちらに気が付き、やっと流れの方へと逃げていこうとした。しかしその動きに素早さはなく、10メートルもしないうちに立ち止まり、こちらへ振り向いた。
 立派な角が目を引く。それも4尖ではなく滅多にしか目にしない5尖のような気がした。1本の角が枝分かれしたその先の数をこのように呼ぶ。
 車を戻し、再度確認しようとしたら鹿は対岸へ渡り、さらに下流へと下り、姿を消した。
 
 もしも数え間違いでなく5尖だったとすれば、相当の年寄だったことは間違いがなく、ならば車の接近にも気付かず、この時季に1頭で仲間もおらず、どことなく動きが鈍かったのも納得がいく。
 雨に濡れ老いた身のその孤独な姿が、日頃の鹿に対する敵愾心よりかも不憫さを誘い、やがて来る長く酷しい冬に耐えられるのかと案じさえした。
 
 いやいや、わが身を重ねてというわけではござらん野拙はまだあそこまでは老いておらず、足腰も達者、清貧独居禁欲の日々に格別の苦も無く過ごせている果報者、あの老躯を引きずる鹿などと一緒にされては、迷惑千万でござる。

 きょうは小屋に台湾から予約者が1名、到着はいつになるのやら。それにつけても善男善女の皆さま方、深まりゆく秋を求めてなにとぞお出かけくださるやうお待ち申されてこそ候へ。
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      ’24年「秋」(67)

2024年10月26日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 もう20年、いや21年も以前のことになるか、鮮やかな錦繍に埋もれる小黒川の谷をTDS君と上ってきた。信州に暮らすことを決めた最初の秋だったと思う。時季が良かったのだろう、谷全体に散りばめられた黄色や赤の豪勢な紅葉、狭くて深い谷を縫って流れる眼下の清流、そして見上げた秋の青く澄んだ空、山水の極みを見たような気がした。
 翌年も同じ時季にまた二人して訪れ、前年にも劣らない期待通りの秋を、紅葉を満喫した。そして、谷の終わる林道から牧場へ入るゲートまで来て、そこで手を広げて迎えてくれたような広大な牧の眺めに触れて、唐突にも人生の後半をそこで働くことができたらいいなと思った。運命的、と言ってもいいだろう。

 昨日の午後も、そんなことを思い出しながら仕事のついでに小黒谷へ行ってみると、谷の両岸の落葉松はすっかりと黄金色に変わり、日の当たる谷の中だけでなく、日陰の幾分暗い谷の中にも燃えるような真っ赤に色付いたカエデやモミジが、モミなどの常緑樹の色とも絶妙な調和を見せ、さらには澄んだ流れとも相まって谷を飾っていた。
 同行者が「こんな紅葉今までに見たことがない」と感極まって叫んだ。

 21年前、南沢の出会いを過ぎた岩の上にたった1本の真っ赤に燃えたモミジの木を見た。それに目に留まらなかったら、翌年も行こうとしなかったかも知れないほど、その葉の色付き方が強く印象に残った。
 昨日は時間がなかったから行けなかったが、たまにそこを通ると、牧場で働くきっかけを作ってくれた遠因だと思い、今ではすっかり精彩を欠いた古木だがつい目が行ってしまう。
 
 紅葉は姫君の秘められた恋だと誰かが言ってた。想いを成就できぬままその姫君も老いたということだろうか。

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 本日はこの辺で。明日は沈黙します。




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