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入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

      ’25年「春」(17)

2025年03月31日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

          春は名のみの風の寒さよ      

 短い旅を終えて帰ってきてから、食に対する構え方が変わった。ネパールの食事のせいと言うつもりはない。前にもそれは呟いたように、かの国の食については不満を抱くほど悪いとは思ってはいない。特に、外国人観光客を目当てにした店は、それなりに種類も多く、味にも工夫をこらしていて良かった。
 原因はどういうことかよく分からないが、美味い物を食べるよりか、身体によい食物に関心が高くなって、特に野菜に関してはその傾向が強くなってきた。
 故丸元淑生(としお)先生を遠くから私淑してきた者としては、喜ばしい変化だと思っている。
 
 例えば、ブロッコリーは美味いと思ったことがなく、あまり口にしないできた。が、栄養価の高い野菜だということを最近になって改めて知り、今は冷蔵庫の中に入れてある。他にはレタス、ホウレンソウ、アスパラ、ニンジンなどなど。新タマネギもある。
 単純、と言えば全くその通りだが、この傾向が今後もさらに強まっていくなら採食主義者に近付いていくかも知れない。なにしろ、かつての基準、美味くなければ料理ではない(どこかで聞いたセリフだが)、が変わるかも知れないのだから。
 ただし、ということは、数少ないささやかな楽しみの一つが消えてしまうということでもある。

 高齢化社会到来で、やたらと老人に向けた健康食品の宣伝が目立つ。あんな薬もどきにどれほどの効果があるのか、小さく「個人の感想」などという言葉が並ぶが、というより、「本気にするな」とでも言っているような気がする。
 ガソリンスタンドに行くと、車に良いからといろいろな化学製品を勧められる。ある人曰く(また消えた)そんなモノが本当に車に必要で、かつ効果があるというなら、自動車メーカーが売り出すだろうと。多くはそれと似たような話かも知れない。
 それでも、それに頼よる人もいれば、頼らざるを得ない人もいる。こうした製品で成り立っている企業もあるだろう。

 ネパールの牛のことはつい先日呟いたばかりだが、日本の至れり尽くせりの牛にしても、基本は草だ。それであれだけの堂々とした体躯、数百㌔の巨体を維持する。
 人間にしても、贅沢三昧の食をほしいままにする人もいれば、その逆の人もいる。大酒飲みもいれば、酒を口にしない人もいる。それでどれほどの違いがあるのだろうか。栄養学を語りに語った丸元先生の死因は、癌だった。
 本日はこの辺で。
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      ’25年「春」(16)

2025年03月29日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

    そろそろこのボケの木も白い花を咲かせるころだが
 
 1枚目はやはり失敗した。何事も一度でできないという悪しき癖が、こんな時にも出てしまったようだ。気になっていた障子張りのことである。
 昨日、いつもの独り言を呟いているうちに急に気が変わって、障子紙と糊と粘着テープを買いに行ってきた。買い忘れた刷毛も、絵筆では効率が悪くて再度買い求めた。
 張り替える障子戸は4枚、障子紙も4枚分を求めた。ということは、1枚失敗すればまたしても近くの量販店に行かねばならないが、しかし、そういうこともあるだろうと。

 まずは絵筆、これは手間がかかり過ぎて即刻中断。次は買ってきたばかりの刷毛にたっぷりと水を含ませ古い障子紙を濡らしていく。そして、しばらく間をおいてからすこしづつ剝いでいく。
 あまり上手くいかない。雨が降ってきたので、障子戸を外に出し、自然の手も借りることにして、午前中はそんなこんなで過ぎていった。
 
 午後、来客1名にTDS君も加わり、別の厄介な要件で時を過ごし、その後、浮世離れした人の大活躍するビデオまで見た。この人物のことも呟けば面白いのだが、本日は省略。
 帰り際、TDS君が取り切れていない障子紙はタワシでこすればよいと助言してくれ、それでまた奮発、やる気になる。(また文字が消えた)
 確かにタワシは効果抜群、他人はどう評価するかは知らないが少なくも自分が許容できる範囲、とにかく古い紙の処理は終わった。

 さあ、とばかりに1枚目の障子に挑戦。そして前述のようにあえなく失敗。しかし、この失敗で学ぶこと多くあり、それからは2枚、3枚と腕も上がり、最後の4枚目に至っては経師屋(表具屋)もかくや、というほどの上達ぶり、というのがこれまた勝手な自己評価。
 しかも4枚目は当然1枚目の失敗で紙が途中で不足する。しかし、少しも慌てず、動ぜず、失敗した1枚目の紙の良い部分を使って継ぎ足すことで事なきを得て、完成。



 やりながら、いろいろと考えた。喜寿を過ぎた一人暮らしの老人がここまですることかとか、確かに日本の古い家屋は木と紙だとか、炬燵もない遠い昔人の暮らしとか、雑念は次からつぎへと湧き放題で、これはこれで充実した時を過ごせた。早春の短い一日が、いつもよりか長かった。

 そしてきょう、雪が舞っている。
 本日はこの辺で。明日は沈黙します。
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      ’25年「春」(15)

2025年03月28日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

         奥にも二株見える
 
 昨夜は雨だったようだ。そのせいでか気温は高く午前7時、外は20度近くもある。仙丈岳の雪も大分少なくなった。この分だと、上の雪もかなり解けただろう。
 たった一夜にして、諦めかけていたカタクリの葉がようやくその姿を見せるようになった。ここ数年、毎春この草花に一喜一憂し、片葉だけでも地上に姿を見せてくれれば満足してきた。
 今年はモグラにやられ全滅したとしても、これまで楽しめたのだから、思いを充分に遂げられなかった相手ではあったが感謝して、それを受け入れるつもりでいた。しかし、この様子だと全滅とはならず、また楽しみが帰ってきた。

 昨日も強い風が吹いていた。しかし、散歩に出た。1回に1万歩、週に3回ぐらいは歩きたいと思っている。少しは健康目的も兼ねているが、本来は春の短い一日をみすみす過ごしてしまってはもったいないと思うからだ。
 もしかすれば、破れ障子を張り直す方がもっと充実するかも知れないし、あるいは放ったらかしたままの家の中を片付ければ、もっと気持ちがさっぱりするかも知れない。だが、そのうちにはその気になるにしても、今はその時ではないと勝手に決めて、やらないでいる。

 歩いている時、周囲の風景と、頭の中のことが上手く合致するなどということはそうそうあることではないにしても、それでもそんな時は、つい夢中になって思いの他距離を稼いでしまう。それが呆気なく過ぎた人生と似ているような気がする。
 逆に、歩くことだけに集中していなければ、気力が萎えてしまいそうな時もある。そういう時は時間の経つのが長いし、距離も遠くなる。人生にもそういう時があったし、今もそうかも知れない。

 座るのも、歩くのとあまり変わらない。できるだけ雑念を遠ざけ、鼻呼吸に集中する。こっちは、1分の、10分の長さを、全身で感ずるためにする。
 こんなことをしても短気は治らないし、それどころかひどくなるくらいだが、そういう精神的な効果を期待するつもりはない。あるかも知れないが、自分にはまだない。
 これも、時間の経過に対することで、その潜在的な思いは少しでも時間を遅らせたいということだろう。徒労を承知の上でだが。
 
 恥ずかしながら、障子紙と糊を買ってきた。刷毛は忘れた。さてどうなるか。極太の絵筆で間に合えばいいが。
 本日はこの辺で。
 
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      ’25年「春」(14)

2025年03月27日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

      毎年この時季に紹介している「アノ花」
 
 今朝は8時半の外気温が8度、ということは上は2度ぐらいか。日中は気温がもっと上がるだろうから雪解けもいくらかは進むにしても、里で期待するほどではないかも知れない。世間では真夏日だ、夏日だと騒いでいるというのに、依然として炬燵やストーブの世話になりながら冬の名残を心配している。可笑しな話だが、これも現実である。

 梅の花は日毎にその数を増やしているし、「アノ花」も、きょうの写真のようにすでに先日の雪が降る前から花を咲かせている。わが家のはまだだが、隣家のカタクリはすでに花まで咲かせた。
 他方、モグラも結構活動を始めたようで、もしかすればその被害が出るかもしれない。対策はあるらしいが、そこまでする気にはなれない。
 やらねばならないことがたくさんある。上で仕事をするようになれば、家のことは放ったらかしになるから今のうちに少しでもやっておけばいいのだが、いまひとつその気になれない。
 行かねばと思いながら、それができない不登校の子供らも、こんな気持ちで日々を送っているのだろうか。

 有難いことだが身体が健康だからだろう。これで身が不自由とあれば、今ボヤいたようなことを案ずる余裕もないに決まっている。多少気力が落ちていても、この時季の天気のようなもの、晴れる時もあれば、雨の降る時もある。
 石垣が崩れようと、障子が破れようと、モグラが暴れようと、じっと耐える。無視を決める。そのうちには、何とかしようとする気に・・・、なるだろうか。

 あっ、わが家のことはそんなだが、わが愛しの入笠についてはもちろん違う。こっちは今年が最後になるということからも、いまから気合が入っている。
 篤い信者が、乏しい金をお布施に使ってしまうように、とまでは言わないが、体力、気力は惜しまない。
 
 今、牧場でどこへ行ってみたいかと聞かれれば、即座に応えられる。一カ所だけではない。どこもかしこも、自分だけの思いの詰まった場所だ。そういう場所は牧場内だけでなく他にもある。果たして、今年中にすべてを訪ねることができるだろうか。(もちろん誰にも教えないが、あなただけは別だ。クク)。
 本日はこの辺で。

 

 

 



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      ’25年「春」(13)      ’

2025年03月26日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


  梅の花がようやく咲いて、長かった冬ごもりも先が見えてきた。昨日も開田に行ってみたら、仙丈岳が黄砂の影響を受けてか、夕日を浴びながらもその姿をはっきりと見せてくれず、ポカラで眺めたマチャプチレを思い出した。
 一雨降ればこちらは元に戻るだろうが、あっちはそうはいくまい。10年ほど前にかの地を訪れた人も、大気汚染に関しては同じことを言っていた。

 これからは一雨降るごとに暖かくなり、枯野や山にも黄色や緑の色彩が増えてくる。4月に入れば、今年も仕事始めの日を待たずに上に行くことになりそうだ。
 しかし、まだド日蔭のあたりは雪が深くて、車で行くのは無理かも知れない。それに、この冬はいつになく後半になってから幾度も雪が降り、そういう雪は水気を含み重く、表土の薄い入笠のモミや落葉松には倒木の恐れもある。
 あれは4年、いや5年前か、それで苦労した。何本もの倒木が道路にまで倒れ込んできていて、とてもチェーンソーでは手に負えず、結局は重機の力を借りて引きずり出したり、引き倒してもらった。

 あんな数の倒木は別にしても、軽トラが雪道にはまったり、雪を抱いてカメになってしまうことは毎年のようにあった。仕事始め、途中から歩かずに行けるようになったのはここ2,3年のことで、除雪が行われる4月の末まで、片道約3キロの雪道を歩くことはもとより覚悟の上だった。
 それでも、長い冬ごもりが終わり、芽吹き始めた樹々を眺め、小鳥の声を聞きながら残雪を踏みしめながら歩く。早春の新鮮な息吹を身体一杯に吸い込む快さを一人だけで味わえ、気持ちが弾んだ。

 そして今年も、季節は同じように巡ってくる。しかし、牧場が終局を迎え、牧守もそれに倣うことになった。山も変わるし、自分も変わる。今年で19年目になる、それで充分だと。
 毎年上がってきた牛たちとはそれなりに打ち解けた。何か難しいことを考えているふうをした彼女らの短い生涯に同情も寄せた。
 牧場や周囲の自然とは、誰よりも親しく接することができたと思う。殺生など考えたこともなかったのに、多くの鹿を殺めた。この仕事をしていたから出会えた人たちも数多くいた。
 
 いやいや、もう1年が残っている。まだ総括するのは早い。
 本日はこの辺で。
 

 


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