最低でも週に一度は上へ行くことにしている。昨日も呟いたように、街中へ出るよりかも牧場へ行く方が余程気が楽で、通い慣れた山路は天気が良ければなおさらに有難く、冬ごもりの巣穴よりかも気分がいい。明日になるか、明後日になるか、目下思案中。(11月29日記)
家の紅葉も大方が落葉した。この場所も、あれから幾日も経っているから同じくそうだろう。訪れる人もなく、忘れられた旧跡で、放置されたまま荒廃が進む。ただ、かつての住人の秘められた思いを象徴するかのように、モミジの大木が激しく燃えるような色を見せていた。
近道をしようとこの近くを通り、偶々この場所に行き当たった。しばらくそこに留まるうちに、いろいろな記憶が甦ってきて、まさしくこの屋敷跡こそが思うような職に就けなかった友人が江戸を捨て、故郷の四国へ帰る際に伊那に立ち寄り、別れる前の最後の一時を過ごした地ではないかと考えた。ただ、あの時は復元された建物があった。もしかすれば違うかも知れないと思いながらも、絵島と友人とを強いて遠い記憶の中で結び付けようとした。
あの時は、周囲には菜の花が満開で、杖突峠を超え茅野までその友人を見送った。その後、その記憶に残る囲い屋敷は取り壊された聞き、再訪することもなく時が過ぎてしまった。別な場所にも、後年の絵島が過ごした囲い屋敷があることは知っていたが、そこではないことは分かっていた。
江戸時代中期に起きた「絵島生島事件」は、主役の一人である大奥に勤める御年寄り絵島が、この高遠の地に流され、しばらくここに住んだ。そのことが一隅にあるかろうじて判読できる石碑にも刻されている。
この事件は、絵島が徳川家縁(ゆかり)の寛永寺、増上寺に代参した際、その帰りに芝居見物をし、さらには出演者の生島らを茶屋に招き宴を張り、江戸城への帰参が遅れたことで大問題に発展したというのが事のあらましである。その結果、生島は三宅島に遠島となり、絵島の兄は打ち首となるなど、多くの人がこの事件に連座したという。
御年寄り絵島は、7代将軍家継の生母月光院に仕えていた大奥の実力者で、将軍にも御台所にも謁見することができた。月光院の助力嘆願によりかろうじて死罪を免れ高遠へ流され、この地で生涯を終えている。背景には、いろいろなことが言われているが、ここではそれ以上のことは他に譲る。
絵島の不運、不幸、それでも言い伝えられている限りでは日蓮宗に帰依し、同地の蓮華寺に葬られるまでの流刑26年、61歳の生涯を身を慎み比較的平穏に暮らしたらしい。
そんな絵島の数奇な運命や、今は穏やかな瀬戸の海を見下ろす高台に眠っている友人のことを思い考えながら、もう一度訴えるような紅葉を眺めて囲い屋敷を後にした。
本日はこの辺で。