入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’22年「冬」(19)

2022年11月30日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 最低でも週に一度は上へ行くことにしている。昨日も呟いたように、街中へ出るよりかも牧場へ行く方が余程気が楽で、通い慣れた山路は天気が良ければなおさらに有難く、冬ごもりの巣穴よりかも気分がいい。明日になるか、明後日になるか、目下思案中。(11月29日記)

 家の紅葉も大方が落葉した。この場所も、あれから幾日も経っているから同じくそうだろう。訪れる人もなく、忘れられた旧跡で、放置されたまま荒廃が進む。ただ、かつての住人の秘められた思いを象徴するかのように、モミジの大木が激しく燃えるような色を見せていた。
 
 近道をしようとこの近くを通り、偶々この場所に行き当たった。しばらくそこに留まるうちに、いろいろな記憶が甦ってきて、まさしくこの屋敷跡こそが思うような職に就けなかった友人が江戸を捨て、故郷の四国へ帰る際に伊那に立ち寄り、別れる前の最後の一時を過ごした地ではないかと考えた。ただ、あの時は復元された建物があった。もしかすれば違うかも知れないと思いながらも、絵島と友人とを強いて遠い記憶の中で結び付けようとした。
 あの時は、周囲には菜の花が満開で、杖突峠を超え茅野までその友人を見送った。その後、その記憶に残る囲い屋敷は取り壊された聞き、再訪することもなく時が過ぎてしまった。別な場所にも、後年の絵島が過ごした囲い屋敷があることは知っていたが、そこではないことは分かっていた。
 
 江戸時代中期に起きた「絵島生島事件」は、主役の一人である大奥に勤める御年寄り絵島が、この高遠の地に流され、しばらくここに住んだ。そのことが一隅にあるかろうじて判読できる石碑にも刻されている。
 この事件は、絵島が徳川家縁(ゆかり)の寛永寺、増上寺に代参した際、その帰りに芝居見物をし、さらには出演者の生島らを茶屋に招き宴を張り、江戸城への帰参が遅れたことで大問題に発展したというのが事のあらましである。その結果、生島は三宅島に遠島となり、絵島の兄は打ち首となるなど、多くの人がこの事件に連座したという。
 御年寄り絵島は、7代将軍家継の生母月光院に仕えていた大奥の実力者で、将軍にも御台所にも謁見することができた。月光院の助力嘆願によりかろうじて死罪を免れ高遠へ流され、この地で生涯を終えている。背景には、いろいろなことが言われているが、ここではそれ以上のことは他に譲る。
 絵島の不運、不幸、それでも言い伝えられている限りでは日蓮宗に帰依し、同地の蓮華寺に葬られるまでの流刑26年、61歳の生涯を身を慎み比較的平穏に暮らしたらしい。
 
 そんな絵島の数奇な運命や、今は穏やかな瀬戸の海を見下ろす高台に眠っている友人のことを思い考えながら、もう一度訴えるような紅葉を眺めて囲い屋敷を後にした。

 本日はこの辺で。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

     ’22年「冬」(18)

2022年11月28日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 何かに集中して、短い一日を過ごすのがいいのか、それとも所在無い長い一日を過ごすのがいいのか。このごろは、どちらかと言えば無為なる日々に倦みながらも、後者の方でいいと思うようになってきた。行動するよりか、じっと動かずにいることにそれほど苦痛を感じない。
 
 きょうは5回目のワクチン接種を受けることになっている。しかし、何ともこれが億劫でならない。それどころか、きょう月曜日はゴミ出しの日で、それを忘れずに済ますために、起き出す前の布団の中でさんざん自分に言い聞かせたものだ。
 上には信号もなければ、前をノロノロと走り苛つかせる車もないから、山から下りてきて街中を車で走るのは、運転免許を取得するために路上教習をやっている運転未熟者と同じくらいの緊張を覚え、疲れる。だから外出は苦痛になる。規則、制約、束縛の密林が文明社会で、この環境に慣れ、順応するまでには時間が必要だとつくづく思う。

 上にいても、外部から強いられて予定を変えることもないではないが、ゴミ出しの規則、ワクチン接種の受け方のように、煩瑣かつ窮屈に感ずることは少ない。牛の世話を中心にした牧場の管理、キャンプ場や山小屋への訪問者の受け入れ、撮影などの対応の方が余程体力、気力が必要なのに、あまりそう感じない。
 まあ、それらが仕事だということでもあり、その束縛から7か月ぶりに放免されたのだから、狭い畜舎から広大な放牧地に出された牛のように、思いっきり解放感を味わいたいということもあろう。また、ゴミを出さなくても、ワクチンを打たれなくても、取り敢えずは自分のことだから、ということもあるだろう。

 話が脱線してしまったが、良寛が手毬をつきながら子供らと遊ぶのは楽しくて「暮れずともよし」と詠っている。悟了の人にしてそう思うほどなのだから、牛を引き合いに出して語らなければならないような凡俗の徒にとっては、楽しき時が瞬く間に過ぎてしまうのは惜しい。
 それくらいなら、まだ山から帰って日は経っていないが、これからの5か月、一心不乱を避け、単調、平穏、少し退屈、というくらいを旨として暮らすのがちょうどいいのではないかと、生欠伸をしながら考えているのだが。

 なお、悟りの意味も、良寛が本当に悟了の人であったかも知らない。
 
 本日はこの辺で。



 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

     ’22年「冬」(17)

2022年11月26日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

     Photo by UNT氏

 牧を閉じて、もう1週間が経とうとしている。あまりにも早い。5か月の巣ごもりがまだ始まったばかりだというのにこの速さで日々が過ぎていくなら、ひと眠りしたら春が来ていたとなりかねない。

 外食ばかりの日が続いたから、昨日は気合を入れて秋刀魚飯と鍋料理を作ってみた。近くの書店で求めた新書版を1冊読み飛ばし、その間に入浴を2回、洗濯もして、上から運んできたビール缶や酒瓶を産廃業者へ持っていった。
 と、こう呟けば、まずまずの一日だったとも言えそうだが、実は産廃業者へ行ったのが昨日であったか一昨日であったか、記憶が曖昧で納品書で確認する必要があった。どうやらこのごろは、日時の単位が1日ではなく、2,3日単位で過ぎていくらしく、そのうち、週単位になりそうで心配だ。

 本日の写真は10月の3,4日に番長、裏番長による笹平沢経由白岩岳行の折に撮ったものだという。この日にちも、持ち帰った作業日誌で確認したが、まさか、先月のことだったとは。それも数えてみれば2か月近くも前である、驚きだ。あやうく、「今月」と呟きそうになった。
 それはさておき、このご両人には以前から白岩岳を紹介してあった。その予定が入った時、単調な尾根を標高差1000㍍も登るよりか、笹平沢から入渓し、消えてしまった林道は捨てて急な山腹を勘だけで登り、そこからは眺めを楽しみながら稜線を辿って白岩へ行ったらどうだと話した。
 この登山路、とも言えない、を誰にでも「どうぞ」と言うわけではないが、この二人の実力、経験なら充分に大丈夫だろうと思ったから勧めたのだ。
 ところが、いつまでも連絡がなく、ようやく稜線へ出たという連絡が入ったのは午後の2時を回っていた。何年か前、HALも連れて種平小屋夫妻と一緒に登った時は、この時間にはすでに白岩の頂上を踏んでいたはずから、一体何があったのかと案じた。
 それが写真でも分かる通り、厄介な倒木がわんさとばかりにあって、それで難儀を重ね、時間を食ったことを後で知った。結局、二人は白岩岳の手前で1泊した。これも想定内の行動だったようだ。
 沢がこれほど荒れていたとは全く思っても見なかったことで、われわれは両岸の古い林道を辿り、難なくこの登山の核心である急な落葉松林の斜面に取り付くことができた。そこからは地図に記された古い山道が頼りにならず、複雑に交差する獣道を右に左にと斜上を重ね稜線へ出た。
 
 そもそも個人的には、富士見から高遠の山室の集落に至る古道に興味があって、その一部を踏査して見たくて行ったのだが、その後は再訪していない。それにしてもあの林道の跡が、それほど簡単に消えてしまったのだろうか。

 赤羽さん、ありがとう。白岩はきっと懐かしいでしょう。
 本日はこの辺で。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

     ’22年「冬」(16)

2022年11月25日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 上にあって、ここにないものに加えてもいいのが夕焼けだろう。もちろん里でもそれを見られないわけではないが、あそこで見る息をのむような夕焼けはやはり別格と言っていい。
 牛たちが山を去り急に牧が寂しくなるころから、周囲の景色が次第に色付き、さらにそれも落葉して冬の気配が日を追って強まる間、よく夕焼けを目にした。何かをやり終えた後の満足感と快い疲労感に、暮れかけた淡い水色の空を焦がす夕焼けはいい労いとなってくれた。
 いま炬燵に入ってそんなころの自分を思い出していると、まるで他人を見ているような気がする。いや、あれはもう他人だろう。帰らない日々に残してきた残像だ。

 牧を閉じるのに合わせてFMZ君が帰郷し、また昨日江戸へ帰っていった。その間には安曇野へ遠出したり連日連夜の大宴、小宴を繰り返したりと、TDS君も含め幾人もの知人友人と忙しく交友し、いい酒を飲み、美味い物をたくさん食べた。
 この年齢になれば、どうしても話題は身体の不調のことになる。それゆえに酒を飲まなくなった者もいる。にもかかわらずガブガブと酒を飲み、万のことに口をはさみ、詮もない武勇伝までも語り、彼ら彼女らはそれらを一体どう聞いただろうか。「宴の後」の汗顔止まず。

 行ってみたい土地がある。重い腰を上げて、今年こそはと思いながらまだ果たせていない。そういう土地が幾つもある。
 山も旅も、終わってみれば無理しても行って良かったという思いに浸れると分かっていながら、錆び付いた歯車のようにすんなりと身体が動かない。上でも下でも一人暮らしには慣れているし、HALはいなくなったが雪の法華道は毎年欠かさずに何度か登っている。山も後半は単独が多かったというのに、あの旅以来すっかり腰が重くなってしまった。
 もしかしたら、金の工面があって、周囲の反対があって、それが逆に背中を押してくれていたのかも分からない。今も変わらず貧しいが、そのことよりか、背中の20㌔の荷が40㌔にも、60㌔にも感じられ、行くのを渋らせるようだ。

 本日はこの辺で。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

     ’22年「冬」(15)

2022年11月24日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 牧を閉じるに際し「越年も含めてここへはちょくちょく来る」と呟いた。そしてその言葉の通り翌日の20日、罠の中に捕獲中の鹿を殺処分するため6時起きして上に行った。
 処分を済ませ、それをもって本年の有害駆除はおしまいにすることに決まった、と思っていたら、昨日になって一部の猟師から雪が降るまで罠を私用で使いたいという申し出が農協の方にあったと、畜産課長から連絡が来た。どうもその猟師は農協、地方事務所などの許可を先に取り、いわゆる外堀を埋めてから、こっちの承諾を半ば強制的に得ようとしたようだった。
 その魂胆、浅ましさが不快であったが、幸い、農協のもっと責任のある立場の人が適切な判断を下してくれたようだった。

 そんなことはどうでもいいが、上に比べ、下の生活はやはり便利だ。まず、いつでも風呂に入れるのが有難い。ただ風呂といっても陋屋の一隅にある簡素なもので、五右衛門風呂よりか幾分マシな程度に過ぎないから、昭和の文明を喜ぶ明治生まれの老人のような心境、と言ってもよいかも知れない。
 食器を洗うのに温水が出るのもこれまた有難い。上にはない。食べる物に関しても、すぐ近くの田圃の中にスーパーマーケット他、各種あらかたの物が手に入る店が幾つもあって、それも歩いて行ける距離にある。
 それと、上と下との約6度の気温差、これは大きい。やがてはここも気温は零下になるはずで、刺すような信州の酷しい冬は覚悟の上だが、まだそこまではいってないから助かる。

 ないのは小屋の窓から眺める権兵衛山、樹幹の目立つ白樺や落葉松の林、葉を落としたコナシの木に見え隠れする野鳥の姿、あるいは盛況だったころの賑わいが聞こえてくる今は閑散としたキャンプ場、初冬の牧の寂寥感などなど、つい何日か前までは目の前にあった普段の風景であり、そこでの牧守としての仕事、暮らしである。
 里へと比重を移せば移すほど、この先の茫々とした時間がどうしてくれるかと訴えてくるようで、まだそれに対する答えが見付からずにいる。江戸にも幾つかの用事があるし、会わねばならない人もいるが、さてどうしたものか。

 きょう、富士見町役場の職員と会う約束があって、4日ぶりに上に行った。中央アルプスも八ヶ岳も冬枯れの野面に白い衣を纏い見えていた。
 本日はこの辺で。

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする