そろそろ庭の梅の花が咲き出すかと期待して行ってみたが、まだだった。昨年と同じ枝に、きょう花を開いてもおかしくないような大きな蕾が一つある。
今は風呂に入りたいときに入り、空腹になれば食べる。車に乗る用事がなければ、時には明るい時でも遠慮しながらビールを飲む、こともある。
その中で、昼寝だけは、夜の睡眠時間を狂わせるからしない。上でもこのことは守っている。これを赦してしまうと昼夜の境が曖昧になって、しまいにはとんでもないことになってしまう。
ただし、2,3時間のブレは赦していて、昨夜は寝るのが少々遅かったが、それでも9時間近く、一気通貫で眠れた。
こうして冬ごもりをしながら日々を過ごしていれば、もう机に座り、退屈極まりない書類と格闘したり、苦手な相手に電話で無理な依頼ごとをしようとしたり、納得のできない支持を受けたり、ということも遠いとおい昔の話だ。
雨の日に混雑した通勤列車に乗ることもないし、酔っ払って下車駅を乗り過ごすこともない。何よりかも、ややこしい人間関係を気にせず、気楽であるのが一番だ。
ところが、今横になっていて、先程呟いたような生活はもう来ないのだなということに気付き、ふと、あんなころを懐かしむというか、そんな時代に頭が戻っているのに気付いた。
平坦な生き方を求めたつもりはなかったし、時代もそういうふうではなかった。「モーレツ」から「ビューティフル」の時代だと言われたりしたが、1970年代前後の混乱がまだまだくすぶり続けていた。
昔を懐かしんだり、昔話に耽るようになると終わりだと聞いてはいる。多分そうだろう。以前に、乏しくなった残り金を慎重に使おうとするように、普段は過ぎたことよりか先のことを考える方が多くなってきたと呟いた。
それは確かだが、あの時代に起きたある事件に関する本を読んでいて、いつになく、半世紀前に連れ戻された。
あれから日本は、世界は良くなったのだろうか。夫婦別姓だとかLGBTQとか、やれパワハラだ、セクハラだとか喧しいが、ウクライナはあの状態、パレスチナも無辜の人々が日々苦しめられている。
少数の権力者の個人的な欲望、動機、理由でなぜあれほど多くの人々が、いつまであんな目に遭わなければならないのか。この国の政治も混乱しているが、冬ごもりのつれづれに、後期高齢者がこんなことを呟いていられる。まだましだと言っておこう。
本日はこの辺で。