Photo by Ume氏
中央に見える長い谷が山室川の削った芝平の谷で、牧場が始まればここを行き来する。遠くに小さく見える白い峰は中アの西駒ケ岳。
昨日の呟きばかりかいつもだが、何が言いたかったのかと聞かれても困る。多少は聞き耳を立ててくれる有難い人のことも意識しないではないが、これはあくまでも独り言なわけで、特に今は炬燵の虜囚でしかない身、花が咲いた鳥が囀るの話題は乏しくなって、どうしても陋屋の住人としては乱雑不明なことばかりを呟くことになってしまう。
それで昨日の言い訳としては、丸元淑生のような人もいれば、たかだかが70歳そこらで早くも老いの先を考えたり、その年数を数えるような人もいる、というだけの話で終わった。付け加えれば、山田風太郎はパーキンソン病という思いがけない病を得た晩年ではあったが、ともかくも1000日以上の晩飯を食べることができた。氏のたった1冊の愛読者とはいえ、それについては何より喜ばしいことだったと思う。愛妻家だったと感じた。
ここからは妄言になるが、文士・作家と言われる種族の中には、やれ腰が痛い、足がふらつく、視力が落ちたなどと老齢の不自由、衰えを嘆くふりをして、それを材料に徒し事を綴りながらまだ生きている人がいる。そもそもこの作家などは出版社に甘やかされて法外な稿料を当然のように貰い、優雅の過ぎた暮らしをしていると聞く。それだけでなく、これまた法外異常な講演料などというものを人気力士の賞金のように得て、その際に遠方遠出であれば当然、列車はグリーン車で高級旅館が用意される。しかも中には、送迎にタクシーでは嫌だという女流もいるから驚きである。
作家ならだれでもこれほど恵まれているとは思わないが、本が売れなくなった現在、そしてこの先、過疎地の人口のようにこういう人たちも淘汰され、減少し、希少化の一途を辿るだろう。そうなれば、市井の隅でつましくも清貧に生き、短い一生にもかかわらずあの人の残した名作が、乱作駄作の中でより光るだろう。
少しばかり顔が整っているとか、声がきれいだとか、これらのことも天与のものとは思う。しかし、いまのような自分勝手な感情に酔った、歌う人のための歌にしか聞こえない曲を何曲持ってきても、「赤とんぼ」1曲にさえ勝てないだろう、というようなもので、この「赤とんぼ」に匹敵するような本を探すとなれば埃だらけになることを覚悟で、本の整理をしなければならなくなる。止そう。
ころころと天気が変わる、どんな予報だったか記憶が混乱してきた。本日はこの辺で。