個人的な好みなら、雪景色はあまりあっけらかんと晴れているよりか雪催いの空だったり、しんしんと降り続ける森や林の風景の方に惹かれる。前回の13日に上へ行ったときは、素晴らしい青空が拡がり、積雪を気にしながら車を走らせる身には有難かったし、冬の牧場の風景を当たるも八卦のような気持で撮るには悪くはなかったが、それだけだった。あまり冬の牧場は多くを語ってくれず、単純で、朗らかで、笑っているだけだった。
もしも先方は折角、足取りの不確かな旅人を快く迎えてくれようとしたのであれば、少し気難しいことを言い過ぎているかも知れないけれど。
これが「あっけらかんとした」としたという景色、写真と言うわけだが、あの日の機嫌のよい牧場の様子が少しぐらいは伝わるだろうか。
もう14年前の話になる、雪はなかったが、ここから目にした早春の牧場の風景に誘われて、やったこともない牧場管理人になろうと思ったのだ。まだ牛の姿はなく、小屋も固く閉じられていた。それでもその傍に行ってみて初めて、冬が終わったばかりのキャンプ場らしきがあり、管理用の建物としては大きすぎる小屋が奥にあった。きっと宿泊できる山小屋だろうと想像した。もっと若いころ、山小屋の管理人になろうと思ったこともあったから、そういう仕事をやることにも抵抗はなかった。
今では見慣れてしまい、当時とは違いこの眺めにそれほどの感興を覚えるわけではないが、それでもやはりこの風景が一人の当てのない者の身に与えた影響は大きかったと思う。まさか、と言ってもいいくらいだ。幼年期の何らかの体験が、その子の将来の生き方に大きな影響を与えたという話は聞くが、とてもそういうことを言えるような年齢ではすでになかった。とにかく、不思議な決断をした場所ではある。そう思えば、この場所に立った時はもっと神妙になった方がいいかも知れない。
ところでこれが寒風吹きすさぶ、雪の舞う寒々として寂しい風景であったとしたらどうだろうか。登山者の中にはまだ先が長いことを知って、一段と気を引き締めて歩こうとする人もいるかも知れない。あるいは、無人の山小屋を遠くに見て、訪れる人を拒否したような冷たい佇まいに、寒さや疲労感を感じて心細くなる人もいるだろうか。
もしそこに、小屋の窓から灯りが漏れていたり、人の姿でも目にしたら、ここの印象は一変するはずだ。さて果たしてどちらがいいだろう。誰もいなくていいし、いかにも寂しい冬の景色の中に消沈しているような頼り無げな小屋に立ち寄ることなく、黙って通り過ぎていく方を選びたいと思う。
そうですか、あそこでも空海の影を感じるのですね。「心形久しく労して一生ここに窮まれり」という言葉を残したあの人はどうですか。本日はこの辺で。