goo blog サービス終了のお知らせ 

ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

廬生が得たもの…『邯鄲』(その4)

2012-11-05 01:49:17 | 能楽
およそ一畳台と同じほどまで正ヘ出たシテは、作物に向いて下から上まで見上げて、それから台に乗ります。

着座しながら枕を見て

シテ「さてはこれなるが聞き及びにし邯鄲の枕なるかや(と謡い)、これは身を知る門出の(と正を見)。世の試みに夢の告げ。天の与ふる事なるべし(と枕を見)。
シテ「一村雨の雨やどり(と正を見)。
地「一村雨の雨やどり。日はまだ残る中宿に(と右の方を見)。仮寝の夢を見るやと(と枕を見)邯鄲の枕に臥しにけり邯鄲の枕に臥しにけり(と伏す)

いよいよシテが夢の中に入っていくシーンですね。シテは安座をするように左の腰を一畳台の床に下ろし、左手、右手の順に袖をかかえるようにして左を下にして横になり、唐団扇で顔を隠すようにします。シテが横になるのは本当に珍しい型ですね。『邯鄲』に固有の型のようにも思えますが、じつは観世流以外の他流では『大江山』に例があります。ぬえは実見しましたが、演者の工夫かもしれませんが。。

そういえば『邯鄲』の作品研究の中で、この場面について古文書にシテが目をふさぐ指示があることから、古くは直面で勤めることがあったのではないか? という指摘がされていたように思います。が、ぬえの師家の形付けにもここで「目はふさぐこと」と注記がありました。

面の中での演技なのでお客さまにはわからない事なのですが、形付けというものは、その場面を演じる演者の心得を喚起するための、こういう注記はしばしばあるものなのです。このへん、一般に流布する仕舞の形付けとは大きく違うところです。「ちょっと小首をかしげて考える心」とか、実演上は無理だったり、実際にやってしまっては滑稽な注記も往々にしてあります。

『邯鄲』のこの場面も、「目をふさぐ」という注記は、これが型としてどうお客さまにアピールするか、という事よりも、「本当に眠ってしまうつもりで演じろ」という意味に解するべきでしょう。実際のところ、時間のうえでは横になるや否やワキが扇で台を2回打ってシテを起こすので、目をふさいでじっくりと眠る演技をする暇はありませんので、稽古段階では ぬえはまだ目をふさぐところまで行っていません。。

ワキは輿舁二人を伴って、地謡の「一村雨の雨宿り」の返シから幕より登場し、輿舁は後方に控え、ワキは地謡「邯鄲の枕に臥しにけり」いっぱいに台の前に着座して扇で台の縁を2つ打ちます。

シテは、ここはガバッと起きあがって安座し、その間にワキは下がって下居、両手をついて謡います。

ワキ「いかに廬生に申すべき事の候。
シテ「そもいかなる者ぞ。(とワキへ少し向き)
ワキ「楚国の帝の御位を。廬生に譲り申さんとの。勅使これまで参りたり。(と直し)
シテ「思ひよらずや王位には。そも何故にそなはるべき。(と再びワキの方へ少し向き)
ワキ「是非をばいかで量るべき。御身代をもち給ふべき。其瑞相こそましますらめ。はやはや輿に召さるべし。(と直し)
シテ「こはそも何と夕露の。(とワキヘ向き)光り輝く玉の輿(と輿舁の方を見)。乗りも習はぬ身の行方。
ワキ「かゝるべきとは思はずして。
シテ「天にも上がる。(と直しながら思わず数珠を捨て)
ワキ「心地して。

ワキに誘われて、訳も分からぬまま輿に乗る廬生。

地謡「玉の御輿にのりの道。

ここでシテは舞台中央に行き、これを見て輿舁二人は輿を持ってシテの後ろにつきます。

地謡「玉の御輿にのりの道。栄花の花も一時の。夢とは白雲の上人となるぞ不思議なる。

この地謡の間にシテはほんの3足正ヘ出、少し下がりながら下居ます。シテが下居ると輿舁はすぐに立ち去り、舞台の後ろ、鏡板に輿を立てかけて切戸口から退場します。

結局、輿舁がシテの上に天子の天蓋を差し翳している時間は20秒くらいではないかと思いますが、これにてシテは(夢の中で)皇帝へと変貌することになります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

廬生が得たもの…『邯鄲』(その3)

2012-11-04 06:45:56 | 能楽
名宣リのトメの立拝を見て大小鼓は打切を打ち、シテは「道行」を謡います。

シテ「住み馴れし。国を雲路のあとに見て。国を雲路のあとに見て。山また山を越えゆけばそことしもなき旅衣。野暮れ山暮れ里くれて。名にのみ聞きし邯鄲の。里にもはやく着きにけり。里にもはやく着きにけり。

「道行」の方は定型で、「そことしもなき旅衣」の打切でシテは右ウケ、三足ほど出てから左へ取って、また元来た方向に三足ほどツメて「邯鄲の里にも早く尽きにけり」一杯に足を止めます。

邯鄲は中国に今も実在する地名なのだそうですが、この「道行」には邯鄲以外に具体的な地名は一切出てきません。当たり前のことですが、能の作者は現地に行って取材したわけではなく、文学作品など先行作品や、あるいは人口に膾炙した説話などを題材にして能を書いているからで、このような例は『楊貴妃』や『玉井』など、想像の世界へ旅をする能にはよく見られることです。

日本の国内の旅の場合は具体的な地名がたくさん出てくるのですが、遠方が舞台の曲ではやはり歌枕を並べただけのような曲もあります。。反対に都の近辺を舞台とする能の「道行」は具体的です。ぬえが聞いて印象深かったのは『鉄輪』の道行で、この曲の「道行」に登場する地名は、もちろん実在しているし、その順番を追っていけば貴船神社にも到着するのですが、これが神社に至る道順としては一般的なものではなく、獣道のような場所も通るような道らしい。自分を裏切った不実の夫を呪うシテが、人目を避けて丑の時詣でに通う道であれば、それにふさわしい道順であるらしく、この道順を知っているお客さまにとっては臨場感が増すのでしょう。

「道行」を謡い終えたシテは地謡が謡う「地取り」の間に正面に向きます。

シテ「急ぎ候程に。これははや邯鄲の里に着きて候。未だ日は高く候へども。この所に旅宿せうずるにて候。

これにてシテは橋掛リ一之松裏欄干の狂言座に向いて呼び掛け、間狂言との問答になります。

シテ「いかに案内申し候。
狂言「案内とは誰にて渡り候ぞ
シテ「これは旅人にて候。一夜の宿を御貸し候へ。
狂言「安き間の事お宿参らせう。こなたへ御入り候へ。

シテは再び正面に向き直り、その間に間狂言は後見座に行って後見より床几(鬘桶)を受け取りシテの後ろに着座して

狂言「まづこれにお腰を召され候へ。

と声を掛けると同時に床几をシテのカカトにつけて知らせ、シテは床几に腰掛けます。間狂言はシテが着座したのを見て角へ出てシテヘ向き着座して、これより宿屋の中での問答となります。

狂言「さてこれはいづ方よりいづ方へ。御通りなさるる旅人にて候ぞ。
シテ「これは蜀の国のかたはらに。廬生といへる者なり。われ人間にありながら仏道をも願はず。たゞ茫然と明かし暮らすところに。楚国の羊飛山に。尊き知識のまします由承り及びて候程に。身の一大事をも尋ねばやと思ひ立ちて候。
狂言「近頃奇特なる御望みにて候。さやうに候はば。わらは邯鄲の枕と申して。奇特なる枕を持ちて候。この枕を召され。一睡まどろみ給へば。来し方行く末の事を。知ろし召さるる枕にて候間。一睡まどろみ。御望みの事をも知ろし召されかしと思ひ候。
シテ「さてその枕はいづくに御座候ぞ。
狂言「あれなる大床にある枕にて候
シテ「さらば立ち越え一睡見うずるにて候。
狂言「その間に粟の飯をこしらえ参らせうずるにて候

これにてシテは立ち上がり、間狂言は床几を持ち去って後見に渡し、再び橋掛リ狂言座に着座します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

廬生が得たもの…『邯鄲』(その2)

2012-11-03 01:16:40 | 能楽
次第は本式では三段構成ですが、略して二段構成…これを「一段」と呼び慣わしているのですが…、さらに略して「段ナシ」で演奏されることもあります。『邯鄲』のシテには一段といえどちゃんと段を取って出るのがふさわしいですね。悩める哲学青年、求道者、なんて言葉で言い表されることが多いシテですが、ブルジョアジー階級の憂鬱、と言った方が正しいかもしれません。身に降りかかった事件も、心を熱くする情熱もないのに、生活臭さえ まったくないシテなのですから。

橋掛リの歩みも丁寧に、やがて舞台常座に立ったシテは、「次第」の登場楽にのって一人で登場した場合の定型として囃子方の方に後ろに向いて「次第」の謡を謡い、地謡の「地取り」で正ヘ直して名宣リを謡います。

シテ「浮世の旅に迷ひきて。浮世の旅に迷ひきて。夢路をいつと定めん。
(正ヘ向き)「これは蜀の国のかたはらに。盧生といへる者なり。われ人間にありながら仏道をも願はず。たゞ茫然と明かし暮らすばかりなり。(右へウケ)まことや楚国の羊飛山に。貴き知識のまします由承り及びて候程に。(正ヘ直し)身の一大事をも尋ねばやと思ひ。唯今羊飛山へと急ぎ候(と立拝)。

シテの装束は次の通りです。

面=邯鄲男、黒頭、黒地金緞鉢巻、襟=縹色または浅黄、着付=厚板唐織、半切、法被、縫紋腰帯、掛絡、唐団扇、水晶数珠。

ただし師家の形付には、これとは別に大水衣、大口、小格子厚板という姿で、掛絡も数珠も持たない、という扮装の記述があります。これは奇抜な発想ですね。完全に市井の市民。。それもあまり高貴な階級の人ではないようですし、ましてや求道者というイメージはまったくありません。…が、しかしこの装束の問題はほとんど金が入らない、という点でしょう。この姿で夢の世界の皇帝の場面を勤めるのは かなり難しいと思いますし。。このあたりは芸力があれば気にならないのかしら。

もっとも観世流の『邯鄲』の小書「夢中酔舞」「藁屋」のときは黒頭を唐帽子に替えて、着流しで勤めるのを建前としています。唐帽子は常の『邯鄲』との見た目の印象の違いを際だたせますが、着流しは。。これはおそらく狭い一畳台の上で「楽」を舞う便宜なのかもしれません。しかし、ぬえが稽古した限りでは、半切を着たために一畳台の上での動作がなおさら窮屈になるわけでもありません。そうして、着流しでの皇帝の役は、やはり やりにくいだろうと思いますね。このためか、小書がついた場合でも着流しでの上演というのはほとんど行われず、常と同じく半切・法被、そうして黒頭だけは唐帽子に替えて演じられる場合が圧倒的に多いと思います。

さらにまた、小書がつかない『邯鄲』の場合でも、演者の工夫として唐帽子が用いられる場合も しばしばあるようです。結局、小書があってもなくても『邯鄲』のシテは半切・法被で演じられることが多い。。わずかに黒頭か唐帽子か、だけが選択される、という、姿としては比較的定まった曲ではないかと感じています。

でもねえ。。ぬえは『邯鄲』という曲には ちょっとこれとは違うイメージを持っているのです。まず、「邯鄲男」の面が、この曲を現代人の目から見た場合に、ちょっと違うかなあ、と。。

「邯鄲男」は「『邯鄲』の専用面だが『高砂』『養老』などの脇能のシテにも流用される」と能楽入門書などでは しばしば説明されて、面としての完成度が高いという印象が流布されているかもしれませんが、ぬえには『邯鄲』という曲に描かれるシテの「悩める青年」というイメージとは ちょっと違うように思えるのです。…たしかに「邯鄲男」の面には眉間に深い皺が刻まれていて、いかにも苦悩を表現しているようでもありますが、全体としての印象は「決意」がみなぎったような風貌に見える。。これは、「邯鄲男」に名品が少ないのも原因のひとつなのかも知れませんが。。このへん、ぬえの上演にあたっては、ただ今師匠と相談させて頂いているところです。

それから、これは演者としての個人的な好みかもしれませんが、ぬえには半切・法被に、そして「邯鄲男」に、唐帽子は似合わないような気がします。ここはやはり黒頭で…黒頭がその印象として夢中の皇帝の役にふさわしいとは思えないのですが、装束とマッチするのか、不思議と『邯鄲』の上演中に違和感を感じたことはありません。

要するに、装束の取り合わせのバランスがうまく取れていれば、有職故実的な違和感は霧散するのかもしれません。こうして考えると、師家の別附けの大水衣、大口、小格子厚板…という奇抜な取り合わせも、実際に着付けてみて、それが姿として成立していれば、案外違和感がないのかも。。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

廬生が得たもの…『邯鄲』(その1)

2012-11-02 06:39:03 | 能楽
11月15日に ぬえが勤めさせて頂く『邯鄲』についてですが。。

え~、じつは もうすでに師匠の稽古も受けまして、昨日は稽古能で初めてお囃子方や地謡とともに稽古を致しました。この能についてこのブログで考えるには、あまりに時間が足りない状況ですが。。例によって舞台進行を見ながら能の解説、併せて ぬえが考えていることなどを書き連ねてみようと思います。。

まずもって。。稽古を始めて、これは大変な曲だと思いました。いろいろな面で相当に難易度の高い曲であるのは、ある程度予想はしていましたが、これほど難しいとは。よく言われることですが「邯鄲は。。簡単じゃないよ」と経験者は口を揃えるところです。が、しかし。お囃子オタクを自認する ぬえから見ても囃子の手配りと合方の難しさは超一級ですね。技術的な難易度も相当に高くて。。以前この曲を勤めた方がひと言。。「よくこれで習物じゃないな。。」

さてまずお囃子方が幕より登場し、また地謡が切戸口より登場してそれぞれ所定の位置に座着くと、作物の一畳台と引立大宮が幕から持ち出され、脇座に据え付けられます。

引立大宮とは柱が折り畳んであって、一畳台に載せて舞台に持ち出され、舞台の上でお客さまの目の前でその柱を立てて組み立てられる作物の屋台のこと。これに対してすでに組み上がっている屋台の作物を「大宮」とか「大屋台」などと呼びます。引立大宮は『鶴亀』などに例がありますが「大屋台」はほとんど使われることがありませんね。むしろ屋根を藁葺きにした「大藁屋」(『大原御幸』などに使用)や板葺きの「大板屋」(『雨月』に使用)など、赤地の金襴の屋根衣(やねぎぬ)を飾った「大屋台」よりも屋根の材質を替えた作物の方が身近に感じられます。

また不思議なもので、舞台上で組み立てられる、言うなれば即席の、未完成の「引立大宮」の方が、台輪(だいわ=床の縁にあたる部分)を持つ「大屋台」よりも豪華に見えますね。白布で作った「包地」(ぼうじ)を巻く分量が少なく、「屋根衣」や「台掛け」(だいかけ=一畳台を包む布)など金襴の部分が占める比率が大きくなるからでしょうか。

「大宮」に対して「小宮」という作物があります。こちらは『楊貴妃』や『竹生島』『龍田』など甚だ多用されておなじみの作物ですね。こちらは「引立小宮」というものはなくて、すべて台輪の四隅に柱を立てて作ります。「引立大宮」は一畳台の四隅に明けられている丸い孔に柱を差し込んで、舞台の上で組み立てるのですが、「小宮」のために明けられている孔はないので、「小宮」は楽屋で作り上げて完成品が舞台に持ち出されます。「小宮」はシテ一人だけが中に入るために小さく、床面積は半畳の広さで作るわけですが、大宮の豪華、仰々しさに対して華奢で瀟洒に見えますね。なお藁葺きの「藁屋」というバリエーションがあって『菊慈童』や『景清』に、また格子状の壁と扉を取りつけた「萩小屋」は『安達原』や『蝉丸』『籠太鼓』に使われます。

さて『邯鄲』に戻って、引立大宮の作物が完成すると、後見の一人がその後ろに着座します。後見が定位置の後見座をずっと離れている曲もこれだけでしょう。後見はシテの世話をする役目があって、『邯鄲』ではシテはほとんど脇座の作物の中にいるため、後見の一人はこの場所に着座する事になるのです。

舞台の準備が整うと、ようやく最初の登場人物・間狂言が登場します。邯鄲の里で旅館を営む女主人の役で、縫箔の着付けに側次を羽織り、ビナン鬘ではなくシテ方と同じ本鬘を着けているのが珍しいです。鬘を結うのは難しいので、かつて狂言方にこのあたりを聞いてみた事があるのですが、やはり狂言方で鬘を着けるのは『邯鄲』ぐらいなものだそうで、何年かに一度ぐらいしか回ってこない役どころのため、やはりきれいに鬘を結うのは難しく、鬘を着けるところだけは楽屋でシテ方に頼んだりする事もあるのだそうです。

まあ、これは仕方のないところですね。ぬえも、ワキ方の角帽子や狂言のビナン鬘、脚絆のようにシテ方にない装束は着付けることができません。角帽子だけは遠方の催しでワキ方が楽屋働キを連れずに一人で来演された場合などでシテ方が着付けをお手伝いする事も何度かあったので、かろうじて。。『邯鄲』の間狂言の鬘は、狂言方として通常この役には用いる装束ですが、着用の頻度が著しく低いものは、いつでも上手に着けられる、というものでもないでしょう。『紅葉狩』などでワキが弓を射る扮装のため左肩を脱いでいることがありますが、これもシテ方が着けるとすると難儀だったりします。右肩はしょっちゅう脱いでいるのに。。

『邯鄲』の間狂言・宿の女主人は枕を肩にかついで登場します。

狂言「かやうに候者は。唐土邯鄲の里に住まひする者にて候。わらはは古、仙の法を行ひ給ふ御方に。お宿を参らせて候へば。お宿のためと仰せられ、邯鄲の枕と申すを賜りて候。これを召して一睡まどろみ給へば。少しの間に夢をご覧じ。来し方行く末の悟りを御開きある枕にて候。今日もお旅人のお泊まりあらば。こなたへ申し候へ。その分心得候へ、心得候へ。

枕はシテ方が用意して楽屋で間狂言にお渡しします。間狂言は舞台に登場すると常座に立って上記のように名乗りと枕の来歴を語り、枕を一畳台の上に置きます。このとき狂言方大蔵流では上記を一気に語ってから枕を置き、和泉流では枕の来歴を語るところまで語って、枕を置き、再び常座に戻って「触レ」と称される最後の文言。。すなわち旅人の到着があれば知らせるように、という部分を謡うようです(家により違いはあると思いますが)。

間狂言が狂言座(橋掛リ一之松の裏欄干)に着座すると、シテの登場の奏楽「次第」が演奏されます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする