ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

扇の話(その6)

2008-02-04 01:42:56 | 能楽
前述の通り藤原は氏の名前で、平安時代も半ばになると、藤原の名は公文書などに署名するときなどのとくに公的な場面で使われるだけで、それ以外の場ではそれぞれの家の名を名乗るのが普通でした。。それと似た事は世阿弥も行っています。

世阿弥の伝書の中には奥書に「秦元清」と署名してあるものがあります。「元清」は世阿弥の本名「観世三郎元清」のことですが、問題は「秦」。世阿弥は『風姿花伝』の中で自分の事を秦河勝の子孫だ、と言っていて、「秦元清」という署名はすなわち「自分は観世を苗字として普段は活動しているけれども、出自は秦氏である」と言っているわけです。

観阿弥や世阿弥には申し訳ないけれども、彼らの祖先が秦河勝であるのは信じがたいと考えられていて、実際には大和猿楽の大夫家出身以前の来歴は未詳というべきでしょう。それなのに伝書の中で世阿弥がそう主張しているのは、足利義満に見いだされて急に政治の中枢のシステムに組み込まれた当時の世阿弥ら能楽師が置かれた立場によるのでしょう。贔屓を受けた将軍その人はともかく、将軍の側近の大名や、はては将軍が交際する公家らとも交通は避けられない世阿弥は自分の家の歴とした出自を主張しなければならなかったのです。

あ、ここでまた一つ話が飛びますが、永和元年(かその前年)に観阿弥・世阿弥父子が今熊野で催した猿楽能で足利義満に見初められて、これ以後父子は義満に絶大な後援を受けるようになったのは広く知られるところですが、義満が彼らを極度に贔屓した理由としてしばしば、観阿弥の優れた芸もさることながら、義満がまだ幼い世阿弥の可憐な稚児姿に魅了され、以後その稚児趣味を満たす相手としても寵愛した、と言われています。でも、これは ぬえはどうかな~?と思っています。そう思う理由は当時の彼らの年齢。この今熊野の催しのときの世阿弥の年齢は、世阿弥自身が『申楽談儀』の中で「十二の年」と語っています。この催しが催された年代が永和元年(かその前年)とハッキリしないのは ほかに傍証資料がないからで、世阿弥の生年の推定からの逆算です(しかも多少年代が前後する可能性も残されています)。いずれにせよ当時 将軍義満は若干 十七歳か十八歳。世阿弥よりわずか数歳だけ義満は年長であるに過ぎないのです。でっぷりと肥った中年オヤジが稚児を囲い込む、というイメージは成り立たないでしょう。

義満は父義詮が死去したため、十一歳という若さで将軍職に就任した人で、当時は日野業子(この人も藤原氏だ。。)を正室として迎えた年かその翌年。将軍とは言ってもまだまだ足利氏の守護大名から帝王学を学んでいる時期ですから、若くして重責を任された青年将軍が、多忙の中でその孤独を癒す相手として「友人」のように世阿弥を見ていたのではないか、と ぬえは考えています。

で、話は戻って、世阿弥は長じて父・観阿弥が逝去した後には、一身で将軍やその政治の中枢の中で生き延びていかなければなりませんでした。将軍の寵愛という奇跡的な成功の上にもあぐらをかかず、さらに自分の芸に磨きをかけ、夥しい新作の能を作り、ついには複式夢幻能という新ジャンルまで開拓した世阿弥の努力と非凡には ぬえも感服しますが、そうでなかったら実際には彼は寵愛を失って能は廃れ、現代には生き残っていなかったでしょう。

そんな中、役者としても中堅どころの年齢になった世阿弥は、自分の成功の理由を分析して子孫のための庭訓として編んだ書。。それが世阿弥の著作になる伝書類です。そこで世阿弥は秦河勝の子孫でる事を堂々と宣言し、「秦元清」と署名している。現実にはこういった伝書類は「公文書」ではないけれども、子孫がこれを見るときは 家の憲法として目に映ったことでしょう。ここに署名された「秦」の字。「立派な出自を信ぜよ(それも芸のうちだ)。そして胸を張って私の伝える技術に導きを受けて芸道に精進せよ」と子孫に呼び掛ける世阿弥の姿が見えるようだ。