ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

扇の話(その13) ~どの鬘扇? なぜ修羅扇?<4>

2008-02-19 22:21:54 | 能楽
摺箔は女性の役専用のインナーウェアといった感じの小袖の装束で、多くは白地の繻子地の生地に金銀箔で文様を摺ってあるところから「摺箔」と呼ばれます。インナーウェアですから文様としてはあまり奇抜なものはなく、また白地に金銀箔では遠目では文様は定かには見えないせいか、いくつかの例外を除いてはそれほど役柄によって合う・合わないという うるさい決マリもありません。多く見かける文様としては金銀露芝文様、小葵文様、麻の葉文様、観世水文様。。といった感じでしょうか。白地でない摺箔もあり、たとえば赤地に紗綾形(さやがた)という雷紋か卍字繋ぎに似た文様を焼いて青くした銀で摺った摺箔はもっぱら『鉄輪』の後シテ専用に使いますし、『羽衣』には鬱金地に金で枝垂れ桜を摺ったものなどが使われることがあります。また稀にところどころに刺繍の施された豪勢な摺箔もありますね。こういうのは「縫い入り摺箔」なんて呼ばれたりしています。

ぬえが面白いなあ、と思うのは、摺箔には「紅入・無紅」の区別がない。。どころか、年齢不詳の装束ですね。これは能装束の中では、わけても女性の役に使う装束としてはとっても珍しいと思います。もちろん役によって区別が全くないわけではなく、まずシテは金の文様の摺箔、ツレは銀の文様のそれを使う、というような決マリはあります。前述の『熊野』の場合などがまさにこれに当たるのですが、シテであっても無紅であれば、やはり金の文様は避けて銀の文様の摺箔を使います。だから、やや困ったことも起きることがある。『富士太鼓』などはシテが無紅ですから銀の文様の摺箔を使うのですが、この曲ではシテは子方を伴っています。この曲の子方は女の子という設定で、唐織を着流しに着ているので、やはり胸元から見える摺箔を着ます。この子方に銀の文様を使うと、これほど年格好が違うシテと子方が同じ銀の摺箔を着ることになってしまうのです。こういう場合、この重複を避けるために、シテは金銀の摺箔を着たりしますね。

そういえば去年 ぬえは建長寺で催された巨福能で『隅田川』のシテのお役を頂きましたが、そんな名刹での演能は ぬえにとって名誉で、記念に香色地金銀露芝文様の摺箔を新調しました。「香色」というのは、いわば乳白色で、とってもキレイな色です。白地の摺箔を作ろうと、ぬえは当初は思ったのですが、装束屋さんに「白地で」と注文すると、まあ何と言うことか純白に染め上がってしまうのです。そこで我々は白地でも「少し汚してください」とお願いして注文するのです。汚す、と言っても純白でなくて地色を薄くつける、という意味で、そうしたら今回は装束屋さんが気を利かしてくださって、美しい香色の摺箔が出来上がりました。

今書いたように、ぬえはこの摺箔を建長寺での『隅田川』のために作ったのですが、同じ装束を秋に自分の主宰会「ぬえの会」で勤めた『井筒』でも使いました。せっかく作ったのですから、『隅田川』一番ではもったいないと考えたからですが、考えてもみてください。『隅田川』は失った我が子を求めて遍歴の旅を続ける中年の女性。かたや『井筒』は初恋の思い出を語る、三番目能のシテの中でもかなり年齢は若い設定となっています。このように金銀の摺箔は年齢不詳。。『富士太鼓』にも、『隅田川』にも『井筒』にも似合ってしまう。。これはほかの装束ではあり得ない例だと思います。

また逆に『海士』で小書がついて前シテが裳着胴になる場合などは、浅黄と白の段に染められた生地に銀の箔で文様を置いた摺箔を着ることもありますが、これは完全に無紅というイメージですから、若い役には使えない。。こういう事もあります。

さて『葵上』では白地に銀の鱗文様を置く摺箔を着ることが決マリになっています。前述のように、これも鬘帯や腰帯のように「銀鱗箔摺箔」と呼びます。。が、摺箔は胴箔の技法で作った装束ではないから、おのずと用法は鬘帯・腰帯とは違います。同じ「鱗箔」という呼び名ですが、ようするに「鱗文様を銀箔で摺った摺箔」という意味でしょう。

ここでまた興味深いのは、『葵上』は若い女性の役なのに「銀」の鱗文様摺箔を着ることです。これはかなり特殊な例ですが、銀を着る理由はシテの役の年齢とか性格によるものではありません。じつはこれ。。『道成寺』に遠慮しているのです。『道成寺』では白地に金鱗の摺箔を着るので、『葵上』はそれに位を譲って銀鱗を用いるのです。同じく鱗箔を着るほかの能のシテも『道成寺』に遠慮して、『葵上』と同じく白地銀鱗だったり(ぬえは12月の『山姥』の後シテはこの白地銀鱗文様摺箔を着ました)、はたまた『紅葉狩』では赤地に金鱗の文様の摺箔を着たりしますね。

では三鬼女の もう一曲『安達原』は。。? なんとこれは摺箔を着ないことも多いのです。女性の役なのに。やはり山奥に住む鬼婆ですから、なんと無地熨斗目とか厚板を着る。これはまたこれで、シテの性格によく似合っています。