次は腰帯ですね。。大成版謡本に載っている腰帯の項には「紅入腰帯」としか書いてありませんが、まあ、普通腰帯を選ぶときは鬘帯とのバランスを考えて決めることが多く、『葵上』の場合は鬘帯と同じ胴箔の鱗文様の腰帯を使うことが多いと思います。ぬえも『葵上』用にお揃いの鬘帯と腰帯を持っていますよ。
で、ようやくたどりつきました。次は唐織。今回『葵上』の装束附について細かく解説しておりますのも、じつはこの唐織について話したかったからなのです。いや、ホントは扇の話のはずなんですけども。。
もう一度『葵上』の装束附を見てみると。。「長鬘(翼元結) 紅入鱗箔鬘帯 襟—白二 着附—鱗箔 黒地紋尽腰巻 紅入腰帯 紅入唐織壺折」となっています。これって、簡単に書いているように見えながら、じつは装束の選択肢はあまり広くありません。鬘は「長鬘」でなきゃいけないし、鬘帯は紅入で胴箔の鱗文様のもの。襟はまあ、1曲1曲すべての曲に個別に指定されているから別格として、着付は女性役なのだから摺箔は当然として、それは鱗箔でなければならない。しかも前述したように、『葵上』では『道成寺』に遠慮して白地銀鱗文様の摺箔に限定されています。腰巻。。つまり縫箔は黒地。。いや実演上は納戸地で紋尽しのもの。油煙は『道成寺』に似合うから『葵上』には好まれない。そして腰帯も鬘帯とのバランスで紅入胴箔鱗文様のもの。。もう、こうなってくると『葵上』にはシテの装束の好みなんて入り込む余地がないように見えます。
しかし実際にはそうではないのです。「紅入唐織壺折」とは。。前回お話ししたように、壺折りとは着付け方の名称ですから、ここでは唐織については「紅入」という以外、つまりどのような文様の唐織を着るべきか、などはまったく決められていないのです。すべて演者の選択に任されている。『葵上』の前シテの装束の中で、もっとも目立つ装束が唐織でしょう。もちろん上着であるワケですから目立つのは当然ながら、『葵上』では中入の直前にその唐織をシテ自身で引き抜くというアクロバティックな型まであるのですから。考えてみると不思議です。ほかの装束について少々ウルサイほどの指定がなされているのに、その一方 ここまで目立つ、『葵上』の前シテの印象を決定づけると言ってよいはずの唐織については何の指定もないとは。。
ただ、ぬえは こういう場面にでくわすと「ああ、能らしいなあ」と思うんです。
能は「決マリ」も多いけれど、演者の自由に任せられているところも とっても広くあるのです。たとえば型を考えるとき、「ここは三足」と歩数まで指定されている事が 能にはままあります。そして、何故かそういう部分ばかりがクローズアップされて、世間では 時には口さがなく「化石」呼ばわりされることもありますが、実際には歩数まで指定されている演技は むしろ稀だと思います。「角へ行く」「左へ廻って大小前に行く」と、位置関係を指定する型の方が断然多いでしょう。ぬえが思うに、能には具体的な演技や位置の移動といった、まあ「劇」というものすべてに共通する「演技」というもののほかに、能に独特の「定型の型」というもの、たとえば左右~打込~ヒラキのような、それ自体は意味を持たない「器」としてだけ存在していて、それに演者が意味を付与していくような定型の型があります。これは「器」ですから歩数まで決められてコンパクトに作られていて、仕舞などでは こういう定型の型が目立つから「動作まですべてがんじがらめ」という間違った理解が蔓延してしまうのではないでしょうか。また、定型の型でなくても歩数が指定されている場合もありますが、それはすべて、その曲の中で ある重要な演技をする場合であって、三間四方という限定された空間の中で、その演技が最も効果を出す歩数、というものが長い上演の歴史の中で取捨選択されて、先人によって あえて指定された場合ばかりだと、ぬえは経験上、そう思っています。
ちょうど『葵上』で唐織だけが文様さえ指定されていないのは、これとまったく同じ意味なのではないでしょうか。。すなわち役の個性を表現する最大の効果を持つ上着としての唐織という装束の選択は演者に任せておいて、その下から見え隠れする摺箔とか腰巻に、観客が自然に納得できる文化史的なコードとしての鬼女のイメージ。。それは極端としても、「嫉妬の炎が彼女の心の中で大きくふくらんでいる」という、劇のプロットとして外せない部分のイメージだけは しっかりと指定してある。このように ぬえは思うのです。
つまり「がんじがらめの指定の中に演者の自由も少し残してある」のではなくて、それとは逆に、「自由な選択はあくまで実演者であるシテに任せておいて、それでも外されては困る部分だけは ちゃんと指定しておく」こういうスタンスで装束附は作られているのではあるまいか。
で、ようやくたどりつきました。次は唐織。今回『葵上』の装束附について細かく解説しておりますのも、じつはこの唐織について話したかったからなのです。いや、ホントは扇の話のはずなんですけども。。
もう一度『葵上』の装束附を見てみると。。「長鬘(翼元結) 紅入鱗箔鬘帯 襟—白二 着附—鱗箔 黒地紋尽腰巻 紅入腰帯 紅入唐織壺折」となっています。これって、簡単に書いているように見えながら、じつは装束の選択肢はあまり広くありません。鬘は「長鬘」でなきゃいけないし、鬘帯は紅入で胴箔の鱗文様のもの。襟はまあ、1曲1曲すべての曲に個別に指定されているから別格として、着付は女性役なのだから摺箔は当然として、それは鱗箔でなければならない。しかも前述したように、『葵上』では『道成寺』に遠慮して白地銀鱗文様の摺箔に限定されています。腰巻。。つまり縫箔は黒地。。いや実演上は納戸地で紋尽しのもの。油煙は『道成寺』に似合うから『葵上』には好まれない。そして腰帯も鬘帯とのバランスで紅入胴箔鱗文様のもの。。もう、こうなってくると『葵上』にはシテの装束の好みなんて入り込む余地がないように見えます。
しかし実際にはそうではないのです。「紅入唐織壺折」とは。。前回お話ししたように、壺折りとは着付け方の名称ですから、ここでは唐織については「紅入」という以外、つまりどのような文様の唐織を着るべきか、などはまったく決められていないのです。すべて演者の選択に任されている。『葵上』の前シテの装束の中で、もっとも目立つ装束が唐織でしょう。もちろん上着であるワケですから目立つのは当然ながら、『葵上』では中入の直前にその唐織をシテ自身で引き抜くというアクロバティックな型まであるのですから。考えてみると不思議です。ほかの装束について少々ウルサイほどの指定がなされているのに、その一方 ここまで目立つ、『葵上』の前シテの印象を決定づけると言ってよいはずの唐織については何の指定もないとは。。
ただ、ぬえは こういう場面にでくわすと「ああ、能らしいなあ」と思うんです。
能は「決マリ」も多いけれど、演者の自由に任せられているところも とっても広くあるのです。たとえば型を考えるとき、「ここは三足」と歩数まで指定されている事が 能にはままあります。そして、何故かそういう部分ばかりがクローズアップされて、世間では 時には口さがなく「化石」呼ばわりされることもありますが、実際には歩数まで指定されている演技は むしろ稀だと思います。「角へ行く」「左へ廻って大小前に行く」と、位置関係を指定する型の方が断然多いでしょう。ぬえが思うに、能には具体的な演技や位置の移動といった、まあ「劇」というものすべてに共通する「演技」というもののほかに、能に独特の「定型の型」というもの、たとえば左右~打込~ヒラキのような、それ自体は意味を持たない「器」としてだけ存在していて、それに演者が意味を付与していくような定型の型があります。これは「器」ですから歩数まで決められてコンパクトに作られていて、仕舞などでは こういう定型の型が目立つから「動作まですべてがんじがらめ」という間違った理解が蔓延してしまうのではないでしょうか。また、定型の型でなくても歩数が指定されている場合もありますが、それはすべて、その曲の中で ある重要な演技をする場合であって、三間四方という限定された空間の中で、その演技が最も効果を出す歩数、というものが長い上演の歴史の中で取捨選択されて、先人によって あえて指定された場合ばかりだと、ぬえは経験上、そう思っています。
ちょうど『葵上』で唐織だけが文様さえ指定されていないのは、これとまったく同じ意味なのではないでしょうか。。すなわち役の個性を表現する最大の効果を持つ上着としての唐織という装束の選択は演者に任せておいて、その下から見え隠れする摺箔とか腰巻に、観客が自然に納得できる文化史的なコードとしての鬼女のイメージ。。それは極端としても、「嫉妬の炎が彼女の心の中で大きくふくらんでいる」という、劇のプロットとして外せない部分のイメージだけは しっかりと指定してある。このように ぬえは思うのです。
つまり「がんじがらめの指定の中に演者の自由も少し残してある」のではなくて、それとは逆に、「自由な選択はあくまで実演者であるシテに任せておいて、それでも外されては困る部分だけは ちゃんと指定しておく」こういうスタンスで装束附は作られているのではあるまいか。