ぬえの能楽通信blog

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扇の話(その9)

2008-02-08 01:48:15 | 能楽
藤原氏は前述の道長よりも さらにさらに6代下ったときに近衛家と九条家に分裂し、さらにその後近衛家から鷹司家、九条家から一条家と二条家が誕生して「五摂家」と呼ばれる摂政・関白を出す五つの家柄が並立するようになり、近衛家はこの五摂家の筆頭という格式を得ました。ちなみに初代 関白の基経ですが、仕える陽成天皇との仲が険悪になったとき、ところが彼は罰せられるどことろか、逆に天皇を退位にまで追い込んでいます。この時に限らず公卿のトップたる藤原氏は、ある意味では国家元首である天皇の生殺与奪権をさえも握っていました。

今日世界の中で「エンペラー」。。つまり「皇帝」と称される元首は日本の天皇ただ一人なのだそうですが、こう考えてくると、本当の意味で天皇が国政の実権を握っていた時期というものは、日本の長い歴史の中では ほとんど無視できるぐらい短い期間しかなかったのではあるまいか。。平安末期~鎌倉時代~室町時代~安土桃山時代~江戸時代に渡り、その間 建武の新政の時期(でもわずか3年間。。)や、それをはじめた当人である後醍醐天皇が京都を脱出して吉野に建てた南朝に理想だけは残されたりしたものの、政権は事実上ずうっと武家にあったのですし、天皇が政治の中心にいた如くに見える平安時代でさえも、かなり初期の段階から こちらは武家ではなくて藤原氏という公家によって皇室は利用されてきた憾みはぬぐえないでしょう。。明治維新以後は明治天皇の強いキャラクターのおかげで王政復古を果たしたものの、その後昭和に入った頃には事実上軍政になったのは周知の通りですし。。飛鳥時代~奈良時代~平安時代の初期、そして明治時代ぐらいしか天皇の親政の時代はなかったかも。。

そして皇室とは逆に、奈良時代のはじめに興り、平安時代の初期にはじめて関白に就任した藤原基経以後、藤原氏は天皇をも凌駕する強大な権力を得たのでした。藤原氏は家の分立によって苗字こそ様々に増やしながら、千年以上、名目上とはいいながら日本の元首である天皇をも動かし、中枢の実権を握っていたのです。なんせ近代にあっても王政復古を成し遂げた明治天皇の皇后(昭憲皇太后)でさえ一条家、大正天皇の皇后(貞明皇后)は九条家の出身で、ともに藤原氏の出身ですし、その後も近衛文麿が首相に立ったりしました。

天皇家が世界で唯一「皇帝」と称されるほど長い歴史を持っていたとしても、その側近としてたった一つの一族が千年以上政治の中枢にいるのは、これまた世界に例がないそうです。もっとも近代に至るとだいぶ様相は変わってきています。近衛文麿は太平洋戦争開戦の時の首相で、日本の文化を壊滅させた責任の一端はあるのですが。。日本文化を創ったのも藤原なら、壊したのもやはり藤原か。。という気が ぬえはしますけれども。。

ところで藤原氏だけで独占していた摂政・関白の系譜の歴史のなかで、唯一の例外は豊臣秀吉とその養子だった秀次が関白になったことなのですが、面白いのは、秀吉は足軽の出自のままでは関白になれず、前関白の近衛前久の養子となって藤原秀吉と名を改めていることです。やはり史上初の武家政権である鎌倉幕府が成立して400年近くが経過していても、朝廷の重職である関白に就任するには藤原氏の血縁は欠くことができなかったのですね。。しかし秀吉の甥で養子の秀次は豊臣姓のまま関白職を秀吉から譲られて就任しています。。もっとも、その4年後には秀吉の命によって関白の身ながら切腹させられていますけれども。。そして摂政は明治時代の皇室典範で皇族から選ばれる事に決まるまで、ついに藤原氏以外の者がその任に就くことはありませんでした。

えと、話はどう脱線してきたんだっけ。。? あ、そうそう近衛引の文様の扇の話でした。。ま、その文様の出自が近衛家にあるのならば、これほど大きな背景があるんですよ、って事でご理解頂ければ幸甚でございます~ (T.T)