のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

台湾

2024年04月03日 | 日記・エッセイ・コラム

 台湾で大きな地震があったようですね。台湾東北部だそうで、石垣島なども近い。2日の朝には青森県で震度5クラスの地震があったとか。なんかやばいことになっているのかな?

 東日本大震災の時にその名が知れ渡った貞観地震は869年のことで、故に千年に一度の大震災と呼ばれたようですが、この時代も大きな地震が頻発する時代でした。今がその時期なんだろうか?

  今回台湾で地震が起きた東側の地域、花蓮は何度か行ったことがあります。海から急に岩山が立ち上るような山岳地があり、花崗岩の石材などの切り出しが盛んな地域。岩山渓流で沢登りなどの登山には開拓の余地がある土地だなぁと、登山仲間と計画を練ったことがありましたが、手続きが非常に難しいみたいです。

 花蓮の街も滞在したことがあります。台北の松山空港からプロペラ機で空を飛んだなぁと思ったらすぐに到着しジュース飲んでいる暇もない場所で、あの間には険しい山脈があるので陸路行くとなると結構時間がかかるみたいです。あの深い山の中に隠れたらちょいと見つけられそうにない。大陸が手を出せないのは長期戦になることを恐れてだろうなと察します。

 友人の結婚式に呼ばれて行ったときに夜の街に出て見て、屋台を食べ歩いたのですが、並んでいるのが豚のチンチンや子宮、瓶に入ったサソリ、生まれたてのネズミ、etc。それを紹興酒ぶっかけて炒めて「健康に良い!」と右手拳をぐいっと持ち上げられても、病気になってもいいからまともなもの食いたい!と、チャーハン食ってきました。安心して食べられるのはチャーハンだけだったような、グロい物ばかり食べさせられる旅になってしまいました。海辺なんだから魚食いたかったのに。

 この友人はアミ族と言う土着民族の血を引く内省人ですが、今は花蓮を離れてなぜか博多にいます。日本企業に勤めたもんで。

 私が子供の頃にあった村の診療所は戦前から台湾の医師が赴任していました。私が覚えている医師は千葉大学卒業してたんだっけかな?いわゆるへき地治療の対象地だったもので、こちらのような山岳地帯や離島などに台湾人医師が赴任していた例はいくつも耳にします。

 昭和の終わりごろは台湾でウナギの養殖が盛んで、当時二度目の学生時代だった私は築地の市場でバイトしながら大学に行ってました。青果の担当だったのですが、貧乏学生なので労務者風おじさんたちにかわいがられました。そんなこともあってスキー場に来る学生バイトに飯食わせて餌付けしてますが、これも恩返しのつもりです。

 築地でバイトしていた頃ウナギを扱う会社のおじさんと親しくなり、土用丑が近くなったころに加工所でバイトさせてもらいました。ウナギを蒸かした窯を洗う仕事でしたが、これがとんでもない匂いがするんです。おかげでウナギが食べられなくなってしまった。でも、最近、少しずつ慣れてきて、ウナ次郎なら食べられます。基本的にかまぼこですから。この会社が台湾からウナギを輸入しており、よほど儲かったようで台湾の養殖会社が旅行に招待してくれたんですね。しかも一泊二日で。なぜかその旅行に私もちゃっかりくっついて、当時、台湾便だけは羽田から出ていたので、午後、バイトが終わってからみんなで羽田に行って台北に。そこで宴会して、さんざん飲み食いして帰国してから生活の足しになりそうな食い物箱に詰めて、女遊びに行くおっさんたちを見送ってからさっさと寝てしまいました。翌朝、早めに朝食食って、すぐに空港から羽田、そのままバイト先。すごい時代でしたねぇ。24時間闘えますか?の時代でしたねぇ。

 市場と言えば、船が横付けされたバナナの取引ってふ頭でセリをやっていたんです。まるで映画に出てくるマフィアの取引みたいな妖しい雰囲気。そこで、台湾バナナの大元締めと言うのを見たんです。「なんか、ミス日本と結婚して、娘がモデルやっているらしいぜ。」と聞きましたが、蓮舫のおやじさんでした。娘を見るとろくなしつけをしてこなかったんでしょうが、こいつは大陸からの外省人ですね。悪そうな人だったなぁ。

 台湾。行く気にはなれないけど、好きな土地ですしいい知人も多い。でもなぁ、グロイ食い物が。

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