のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

なんで英語?

2012年07月03日 | 日記・エッセイ・コラム

日本語の通訳をしているロシア男性の友人はその昔、西側諸国の人たちはみんな英語が喋れると信じていたそうです。日本人も当然英語が流暢に喋れるものだと思っていたそうです。 

 ソビエト時代、初等教育の外国語教育は英語と同じくらいドイツ語を選択する人が多かったそうですが、ソビエト末期になると英語を選ぶ人が圧倒的に多くなりました。もちろん、子供たちが将来をかんがみて英語の選択をするわけではなく、、親が子供の将来を考えて英語を選ばせるのですが、その友人は外国語に対して重要とは思わなかったので、学校からはドイツ語を押し付けられたそうです。

 東ドイツが存在していた時代なので、技術書などドイツ語で書かれたものも多く、東ドイツがソビエトの重要な戦略拠点だったこともあり、外国語の中ではドイツ語の占める割合は大きなものでした。

 息子が学校側からドイツ語を押し付けられたと知った彼のお母さんは「おまえが大人になるときには西側の人と渡り合わなければならない時代になるので、英語を選択しなければならない」と学校に乗り込み、強引に息子を英語のクラスに編入させたのだそうです。しかしながら、当人はまったくやる気がございませんでしたので、落第しない程度に勉強していたそうです。

 軍港だったウラジオストクはソビエト時代に外国人の立ち入りが禁止されていたこともあり、港町でありながら他のロシアの都市と比べると外国語に対する認識も低かったそうです。実際に英語を使う機会があるのは国際航路の貨物船の乗員か、太平洋艦隊の軍人など外国に出る機会がある人たちくらいのもので、他の人たちにとっては学校の試験の道具に過ぎませんでした。

 彼が日本語に興味を持ち始めたのは日本土産のお菓子の包装紙に描かれていた着物姿の女性の絵に一目ぼれしたことと、彼の友人が極東大学の日本語コースに進学したことで、その友人の教科書などを借りて独学で日本語を勉強したそうです。

 心は一つ、「日本の女性!」と動機はきわめて健全で、日本語を独学していたものの、「西側諸国の人は英語を喋る」と言う思い込みがあり、どちらをメインに勉強したら良いものか迷ったそうです。

 時代は移ろい、程なくしてソビエトが崩壊し、軍港で外国人立ち入り禁止だったウラジオストクにもそろそろ日本人観光客が出現するようになります。日本人らしき観光客に英語で話しかけてみると通じない?この人たちは日本人のふりをした北朝鮮の人だろうか?あるいは何らかの理由で英語を学べなかった人なのだろうか?どちらにしても普通の日本人ではないのだろう!と思ったそうです。

 物怖じしない性格なので、おぼえたての日本語で話しかけてみると実に良い反応が返ってくる。「やっぱり日本人は英語よりも日本語の方が得意なんだ」と、我々日本人にとって至極当然なことに気がついたそうです。

 その後、日本語を学び日本に来て見ると、日本人は彼に英語で話しかけてくる。しかも、彼が日本語を喋れるとわかると興味なくなったように立ち去ってしまう。彼にとっては英語も外国語なのですが、日本人もガイジンさんはみんな英語をしゃべると思っています。

 「なんで日本人は外国では英語を喋れないのに、日本では英語をしゃべりたがるのだろう?」と不思議に思ったそうです。

 やがてお目当ての日本女性の知り合いもできるようになりますが、彼と二人のときは日本語で喋るくせに、他の人の視線があるときは英語で話しかけてくる。いわゆる、ガイジンハンターとかガイジンコレクターと呼ばれる女性でした。

 「さっきまで日本語で喋っていていきなり英語に切り替えられても対応できないですよ。どちらも外国語なんですから。」戸惑いはもっともです。が、この手の女性にとって話の内容なんてどうでも良く、人前でガイジンさんと英語で喋っている姿を見せ付けられれば満足です。自分がその道具にされていることに不快感はあったそうですが、あわよくば一発、と、男の悲しい下心に民族や国境はないので振り回されていたそうです。

 当初はわからないながらも英語での応対に付き合っていたそうですが、だんだんその女性の下心が見えてくるうちに嫌気が差し「え?今なんて言ったの?」とあえて日本語で聞き返すことにしたそうです。通常、こういった状況で第三者の目に映るのは、彼が彼女の英語を理解できないと言うよりは、話しかけた日本人の英語が通用しないレベルに見えたことでしょう、日本人的には恥ずかしいはずですが、ガイジンハンターのおねえさんはめげません。

 彼に英語で話しかけたあと、日本語で「こうこうこう言ったのよ」と説明し、彼が日本語で答えるとまた英語で応対した後、日本語で対訳を付け加えると言った手の込んだもので、相手のことなど眼中にない独りよがりの自己満足以外のなにものでもないのですが、さまざまな日本に関する文献で読んだ奥ゆかしい日本女性ばかりではなく、気品の無い日本女性もいるのだなと発見したそうです。

 言葉なんてものは気持を伝える道具なので、問われるのは根本的な「心」の部分でしょう。外国語は決して自分を飾るための装飾品ではないのですが、使う必要がないとステータスだと勘違いしてしまうようです。

 言葉の壁なんて自分自身で勝手に作り上げてしまっているもので、それが心の壁であることを見間違わないよう注意したいものです。気持ちの伴わない見事な台詞を1000並べるより、心から欲することへの一言の重さの方がはるかに大きいので、見失しなわないよう気をつけたいものです。

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