民主党が掲げた「脱官僚依存」から「政治主導(政治家が結果責任)」で、自民党主導の積年の政治で醸成された政官業の硬直化した既得権社会の「国の形」を変え、「国民の生活第一」への政治を国民が期待し、政権交代を実現させたのです。
菅首相が「TPP開国」「社会保障と税の一体改革」らのご立派な御託を並べても、「国の形」が従来とおりであり、「増税?」「社会保障か?」の2者選択などの政治は期待していないのです。
当方は、菅・岡田民主党については期待から失望に、失望から不満に変わり、民主党の分裂・政界再編を願うようになりましたね。
世界が新たな不安定な状況下は、日本には「破壊と創造」の時期が到来していると思うこの頃であり、政権交代は、その前兆であったが、現在は、政治も社会も旧世代から次世代に交代の変革時期に直面しているのに、政治は迷走し、社会は「崩壊か、創造か」の岐路に相対していると感じています。
当方は、生成発展は「破壊と創造」による新陳代謝が不可欠という考えで、菅・岡田民主党は、旧世代の政治・社会感覚であり、更に、悪いのは偏狭な独善的な思考で、社会は悪化すると懸念しています。
日本が直面している課題は、高齢少子社会の現下での「多額の累積赤字」、「公債依存の赤字体質」であり、赤字体質から脱却です。
残された数年間で、課題への取り組みは「耐乏しながら借金をへらし、経済成長する」しかなく、「成長戦略」が最重要課題であり、次世代の「人材育成」です。
自然膨張する社会保障の安定財源の確保への改革は、枝葉末節の話と矮小化できないが、成長戦略の1要素に過ぎないのですね。
与野党で熟議すべきは、菅政府の「新成長戦略」ですね。
日本は、明治維新以来、国づくりの現場を官僚が担ってき、官僚による統治体制が完備される一方、官僚だけの強固な暗黙の互助的体質が醸成されてきたのです。副産物が天下り・共済ですね。
相撲では、生活がかかった互助的グループの八百長が問題になっていますが、官僚の世界にも、互助的体質が潜在しているのです。
また、戦後の憲法は、労働者の基本権を保障しているが、公務員については労働3法が制約され、労働組合と並存しているのです。
その労働組合も時間の経過とともに変容し、民間企業の労働組合は正規社員の御用組合化し、労働者のための組合から組合幹部のための組織に変容し、公務員の組合は、労働者権利を保障という過去の遺物を現在まで引きずっており、権利意識だけを主張する組織になり、社会から遊離しているのです。
その権利団体の労働組合の集合体が「連合」であり、民主党の最大の支持団体であり、民主党は「歪」を抱えているのです。
菅首相が「不条理を正す政治」を掲げるのであれば、「クリーンでオープンなフェアな社会」を目指すことでした。
それを「政治とカネ」問題に矮小化し、小沢一郎氏を「日本の政治の諸悪の根源」とし、小沢一郎氏切りで「政治の良化」と問題をすり替えたのです。
鳩山前代表・小沢一郎氏が掲げたのは、「自立と共生」の「クリーンでオープンなフェアな社会」であり、日本の統治体制の変革であり、「脱官僚依存」で、「地域主権」で、「国民の生活第一」でした。
菅首相のいう「不条理を正す政治」であれば、「フェアな社会」を目指すべきで、「クリーンでオープン」な世界は、その方法論ですが、小沢一郎氏の「政治とカネ」問題など枝葉末節の一つですね。
まずは、冤罪を発生させる社会の縮図にメスを入れるべきで、排他的独善的の強権世界を精査すべきです。
人を拘束・裁く権限をもつ警察・検察・検察審査会(検察審査会協会を含む)、裁判所の「不条理を質す」ことです。
元警察官の仙波敏郎氏の「警察の裏金」、元大阪高検公安部長の三井環氏の「検察の裏金」、元高裁判事ので生田暉雄弁護士の「最高裁の裏金」を問題提起したが、すべて、有耶無耶に終息していますね。
このことは、相撲の互助グループの八百長と同質で、過去に遡り組織に累が及ばぬように「問題提起者を異端児とし、皆で異端児を黙殺・抹殺」してきているのです。
常識的に考えても、「高知白バイ事件」は組織の互助体質の冤罪ですね。
相撲協会の放駒理事長の「今までは、八百長はなかった」の強弁は、警察・検察・最高裁には「裏金は存在しなかった」と同質の強弁であり、告発者を組織の異端者扱いにし、組織防衛に傾注せざるを得ないのです。
相撲の八百長は、個人の生活防衛のための互助グループが形成されたが、公務員制度改革に、「天下り」が話題になりますが、天下りは天下りする側・受け入れ側に相互利益の互恵関係があるから、無くならないのです。
天下りも・企業団体の献金も、短絡的な罪悪ではない側面はあるが、公務員というだけでの天下りは「フェア」ではないですね。
天下りも突き詰めれば人事考課が主要因で、評価される人間は、現場より、評価する上を見て仕事するようになり、それが組織の風土となり、組織に順応していれば、余計な波風を立てることなく、順調に仕事ができ、無意識に組織人間に染まってゆくのです。
このことは、官僚組織であろうが、民間企業であろうが、どこにも存在する風土(無難に、長い物に巻かれろ)ですね。
放駒理事長の「今までは、八百長はなかった」の強弁は、自分は「八百長の存在は知っていた」が、組織の長として、過去、「組織が否定したきた」ことを全否定することになり、世話になった関係者・組織を否定し、犯罪者扱いにすることは心情的にできないのです。
横綱・白鵬が記者会見で、「八百長の存在を知っていましたか?」の問い、「知らないとしか言いようがない」の答弁と相通じますね。
警察・検察・最高裁には「裏金は存在しなかった」と強弁するのも同質であり、組織の長は、「否定し、過去の組織の長、組織防衛」をせざるをえない心情になり、組織に染まった人間は、告発者を異端児として「村八分」にし、組織防衛に努めなければならない心境になるのです。
当方が、生成発展は「破壊と創造」の新陳代謝が不可欠という考えで、「小沢シンパ」、「小沢信者」でないが、金権政治家だろうが小沢一郎氏の「破壊力」を期待しているだけです。
老化体質・自閉気質の硬直化した日本社会は、もう、誰が悪いとか、過去がどうだったかという次元でなく、社会全体をご破算し、「国の形」を変える改革しなければ、日本の新生はないですね。
もう、「正論めいた常識論」など通用せず、現状を否定・挑戦する異端者の「馬鹿さのエネルギー」が変革の先導の契機になり、菅政府をご破算させ、政権交代ではなく、世代交代による政界再編しかないと思うこの頃ですね。
マアー、淡い希望でしょうね。
その前に、日本は破綻するでしょうね。
我が国の政治責任は、政治指導者の手の中にしっかりと握られている。
政治家は、国民の代理人。我が国は、主権在民である。
軍部・官僚は、効率よく政治を行うために雇われた要員にすぎない。
官僚は、政治家からの頼まれ仕事に汗をかく人たちである。
軍部の暴走・官僚の横暴を抑えられない政治家は、その存在をゆるされるはずもない。
自分の飼犬を調教できない飼い主を選ぶのは、有権者の無責任であろう。
とかく、この世は無責任。
一億総玉砕と一億総懺悔ばかりを繰り返すのではたまらない。
国のありようは、国民一人一人のありようで決まる。
民主主義は最低だ。しかし、それを超える制度は存在しない。
我々有権者はもっと頭を鍛えておこう。
現実肯定主義にとらわれて、現実の矛盾を指摘できない。矛盾解消に向けて総決起できない。
立ち上がるための内容がない。だから、おとなしい。
意思のないところに解決策はない。意思 (will) は、未来時制の内容である。
日本語には時制がない。無為無策には、閉塞感と諦観が待ち受けている。
自分に意見がなければ、相手の言いなりになるしかない。「よきにはからえ」か。
我々の政府は、軍部の言いなりになるか、官僚の言いなりになるか、それともアメリカの言いなりになるのか。
この道は、いつか来た道。ああ、そうだよ、民族の歴史は繰り返す。