傍観者の独り言

団塊世代で、民間企業で「チンタラ・グウタラ」に過ごした人間の手前勝手な気儘な戯言・放言。

小沢判決:後味の悪い無罪判決・・・心証有罪の無罪判決

2012-04-28 06:47:31 | 検察・メディア

26日、小沢一郎氏の無罪判決だが、強制起訴の議決を問題視するが公訴は有効とし、虚偽記載は認め、共謀はあったが違法性の証拠不足で認められず、収支報告書を軽視する政治家の資質を疑問提起し、諸般状況により無罪にせざるを得ないという後味の悪い無罪判決の印象ですね。
何か、小沢一郎氏を国家権力で抹殺しようとしたかどうかが問われる裁判であったが、連立方程式を1項目(違法性の認識)の変数次第で有罪にも無罪にも推認できる判決ですね。

小沢無罪判決の論評で、当方が共感するのは、格調高いブログ「永田町異聞」様のエントリー『小沢無罪判決の本質』ですね。

当方は、小沢事件・裁判は、西松献金事件が起点で、異例の強制捜査・秘書逮捕起訴、陸山会の土地取引の事件化、水谷建設の裏献金疑惑、西松献金事件の変容、不当違法の取調べ、怪しげな市民団体の告発・検察審査会の申立の思惑、捏造捜査捜査報告書、検察審査会の審査員・弁護士の選出不透明、議決の正当性、議決と公表時期ずれ、異例の議員秘書の強制逮捕、検察情報によるメディアの世論形成、収支報告書の規定・責任・運用の慣習、石川議員らの虚偽記載で有罪判決の既成事実らの疑惑・疑念・既成事実に、外部環境に、田代検事の告発、更なる検察幹部の告発、水谷建設(元社長川村尚)の告発申請、森議員主導の法務委員会秘密会の開催要請と複雑な要素が絡み合う「守旧勢力 VS 破壊屋小沢」であり、「既得権互助組織体 VS 破壊屋小沢」であり、見方によれば「既成マスメディア VS 新興ネットメディア」の一側面もありました。

一地裁一裁判官が、収支報告書の記載云々で国家運営に関わる事案を「法と証拠」で裁くことは荷が重く、既成事実を是とし、公訴棄却の最高裁判断、判決済みの虚偽記載を肯定の前提をせざるを得ず、公訴棄却を是認することは、検察審査会の議決を否定することになり、議決に至る審査は否定し手続きは是認する公訴棄却は無効とし、虚偽記載を是認することで既成判決を配慮し、小沢一郎氏の資質を疑問し、有罪を推認できるが・・・・。
さて、有罪にするか無罪にするかを組織の意向を委ねた結果が違法性の認識の証拠が希薄とし無罪判決に至ったのでしょうね。
要は、連立方程式の「違法性の認識」という1項目で無罪にしただけであり、「違法性の認識」の度合いなど裁判官の主観的要素であり、どうでもできるのです。

小沢無罪判決で、「小沢一郎氏は収支報告書を軽視姿勢は批判されるべき」という指摘をとりあげ、検察の国家権力の乱用より、小沢一郎氏の政治家の資質を問題視し、道義的・政治的責任があり、説明責任から逃れられないとか、野党が秘書は有罪判決が下されており、小沢一郎氏は国会での説明責任があるという意見に違和感がありますね。

2年前、本ブログ「小沢幹事長への説明責任の要求は、痴漢容疑者への弁明要求と同質」で、

”「小沢幹事長の不動産疑惑で不起訴について、メディア・野党は嫌疑不十分の不起訴は「政治的・道義的責任」があり「説明責任」を求めているが、当方には、痴漢容疑で事情聴取をうけ、嫌疑不十分で不起訴の人間に、過去に胡散臭い噂があるので、嫌疑を払う弁明しないと社会は許容しないと強要しているとしか思えないですね。
弁明内容をメディア・野党が納得しなければ、今の社会生活を継続することは、世間が許さないという様相に写りますね。」”
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今回の小沢幹事長の嫌疑不十分による不起訴で、メディア・野党が小沢幹事長に、嫌疑不十分は疑わしさが晴れたのでなく、疑いをかけられた「政治的・道義的責任」があり、疑いをはらす「説明責任」があると声高に騒いでいますが、なにか痴漢容疑者に、「被害者から届けがあり、事実はどうなんだ!」「過去に、諸々の問題を起こしており、本当は痴漢行為をしたのだろう!」と要求しているように思えますね。
痴漢容疑者に「弁明せず、今までのとおりに、暮らせると思うのか?」と弁明を強要し、「世間が許さない」と「社会の声」の代弁(詭弁)をしているがごとく写りますね。
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嫌疑をかけ、嫌疑不十分で不起訴は、検察側の論理であり、嫌疑をかけられた人間が嫌疑不十分を晴らすために説明することは、不自然ですね。
やはり、嫌疑不十分で、小沢幹事長に多大な迷惑をかけ、風評被害を与えたと、検察側に説明責任をあると思いますね。
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同様に、痴漢の被害届け痴漢容疑され、事情聴取され、嫌疑不十分で不起訴になっても、容疑をかけられた人間は悲劇ですね。
もし、作為的や誤解・誤認による被害届であり、嫌疑不十分で不起訴になっても、嫌疑不十分だったでは世間は許容されないでしょうね。
まして、前科があり、その後、更生し、現業に、真面目に一生懸命に働いていても、容疑をかけられたら最後でしょうね。

小沢幹事長にとってみれば、痴漢の被害届で、事情聴取させられ、家宅捜査され、過去を暴かれ、挙句の果て、嫌疑不十分で不起訴の上、やれ「政治的・道義的責任」があり「説明責任」があるとし、現職を続けるのは、許容できないというのは、「冗談じゃない」という思いでしょうね。

当方は、小沢幹事長、検察、メディアも、皆、グレイという印象をもっており、小沢幹事長のグレイより、検察権力の独善性、権力に同調した報道で世論をミスリードするメディアが悪質で、検察・メディアが正義ぶっていることに怒りを感じますね。
やはり、嫌疑・嫌疑不十分の説明責任は、検察なり、メディアにありますね
。」”

と書きました。

本ブログは、過去に、検察が小沢一郎氏を不起訴処分にした際に、メディア・野党が小沢一郎氏に説明責任があると喧伝を「痴漢容疑者にされた人間が不起訴になっても、検察は許しても、社会(メディア・野党)は許さないという風潮に違和感があると書きましたが、この度の小沢一郎氏の無罪判決でのメディア・野党が説明責任を問うのと同質ですね。

少なくとも、小沢一郎氏は無罪判決が下された以上は、更なる説明責任を要求することは、司法無視の手前勝手の傲慢しか思えず、無罪が確定するまでは静観し、確定したら、検察が小沢一郎氏を容疑をかけた説明責任は免れませんし、メディアは世論をミスリードした責任も問われるのが当然です。

当方は、小沢一郎氏のシンパではないが、硬直化した社会の生成発展には、新陳代謝が不可避であり、「破壊と創造」を繰り返しながら社会は安定するという考えであり、金権政治家であろうが、小沢一郎氏の既成社会の破壊力を期待するだけです。
それにしても、世の中、パワーゲームの生存競争ではあるが、マスメディアの論調には、自省もなく、本ブログで書いた「ペンは剣より強し」を誤認していますね。



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