傍観者の独り言

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高田昌幸氏の『原発事故報道の裏で進むメディアの「選別」』・・・報道機関の劣化

2011-04-29 05:38:03 | 民主党(菅政権)

北海道新聞記者の高田昌幸氏のブログ『原発事故報道の裏で進むメディアの「選別」』で、報道機関が自ら政府当局に迎合し、報道機関の使命を放棄していると書いています。

当方は、北海道新聞記者の高田昌幸氏には、バランス感覚を持ち、新聞メディアの良識を感じ、本ブログで度々引用させていただきました。
この度の高田昌幸氏のブログ「ニュースの現場で考える事」のエントリー『原発事故報道の裏で進むメディアの「選別」』は、福島原発事故における福島の現地対策本部と東京の東電本社、保安院とで発表内容に違いがあり、報道機関から発表の一元化を要求し、会見の一元化することで、保安院が会見に出席できるメディアを審査されることは報道機関の使命の怠惰・劣化だと。

高田昌幸氏は、某TV番組で、アナウンサーだかキャスターだかが、
”「(原発事故の状況について)福島の現地対策本部と東京の東電本社、保安院では、それぞれ言う内容が違う。本当に困る。どれが本当なのか、国民は分からない。政府は、発表を一本化してきちんと対応すべきじゃないか。早くひとつにまとめて下さい」”
という発言を視聴し、報道機関なら、
”「発表内容がなぜ違うのか」の要因や背景を取材し、そこに隠された何かがあるならそれを追及し、そして広く伝えることが当然の姿勢ではないか。仮に意図的な隠し事がなかったとしても、東電や保安院では立場が違うのだから、発表内容に多少の違いが生じたとしても、何ら不思議なことではない。
だから、「事実をとことん調べる」という報道の初歩的大原則に立てば、発表の食い違いは、取材の大きなきっかけになる。敢えて言えば、歓迎すべきことでもある
。」”
と書き、報道機関が自ら、
”「発表を一本化してくれ」と頼む。原発事故を起こした電力会社と、その監督に当たるはずの保安院に対し、「一緒にやれ」と頼む。」”
は、報道機関に身を置く高田昌幸氏の理解を超越していると。

そして、時事通信の配信
”「記者会見、25日から一本化=東電、保安院など-福島第1原発事故

 福島第1原発事故で、政府と東京電力の事故対策統合本部は23日、東電本社と経済産業省原子力安全・保安院、原子力安全委員会が別々に行っている記者会見を25日から一本化すると正式に発表した。毎日午後5時をめどに東電本社で行う。説明の食い違い解消が目的という。
 会見には同本部事務局長の細野豪志首相補佐官も出席。記者は事前登録制となる。東電によると会見にはフリージャーナリストも参加可能だが、参加の可否は保安院が審査するといい、批判の声が出そうだ。
 保安院の西山英彦審議官は参加記者に条件を付ける理由について、「メディアにふさわしい方に聞いていただきたいと考えている」と説明した
。」”
を引用し、
”「政府・当局が「ふさわしい」メディアを選別するのだという。閉鎖的な記者クラブ制度の下では、選別する側がだれであるかは別にして、常日頃から事実上、メディア選別は行われている。選別自体は何も、今に始まったことではない。それでも時々、このような形での「特別な」選別も起きる。」”
と、メディア選別が実施されると書いています。

高田昌幸氏は、2005年春には在沖縄米軍によるメディア選別という事例があったとし、過去の自分ブログを再掲示し、第2次世界大戦の敗戦時、毎日新聞の記者だった藤田信勝氏(故人)が敗戦前後の日記を復刊の著作「敗戦以後」(リーダーズノート新書)の一部を紹介し、
”「上記の藤田氏が敗戦前後の思いを日記帳に書き綴っていた数年前、日本の報道界は、政府・軍部による進んで迎合した。新聞統制令によって、群雄割拠だった地方新聞社が都道府県単位で強制統合され、「一県一紙体制」になることは、新聞社の経営安定につながるとして、各社は基本的に喜んでそれを受け容れた。記者クラブ制度は、事実上、政府・当局の手で再編・強化され、記者は政府への登録制になった。排除された記者も出た。」”
と、報道機関は政府当局の御用機関に劣化していったと。

高田昌幸氏は、報道人として、政府当局の会見の参加資格を政府側が審査し、流言飛語を否かを政府当局が判断することは、政府による情報統制につながると危惧し、報道機関が自ら政府当局に情報統制を醸成する申し出ることへ憤りを書いています。

当方は、原発事故で、本ブログ「原発事故:現場体制も不問のまま、外部電源による復旧へ・・・政管業での責任分散化?」で、
”「マス・メディアも保安院の会見内容を有識者に補足説明するだけで、現場への独自取材は皆無で、現場取材が規制で限界であれば、何故、事故現場の現場責任者への会見も、中継システムも、放射能汚染モニタリングポストの増設も、要求せず、自衛隊・消防庁の活躍を過剰に取り上げ、政府の広報機関の代替に成り下がっていますね。」”
”「マスメディアも、自衛隊・消防庁の命賭けの放水作業を美談として報道しているが、暗黒の中で命賭けの現場作業員の苦闘は、事故発生した責任を負い、命賭けは当然でしょうかね?
大いなる疑問ですね。
「船頭多く現場が犠牲」「トップが馬鹿だから現場は苦労」と書いてきましたが、現在は報道機関を含め政官業の馴れ合いの責任分散化(長いもに巻かれろの相互互恵関係)と思っています
。」”
と、報道内容に不満を持っていました。

原発事故現場については、「週刊文春」(4月21日号)で、記事『東京電力 「福島第一原発」の反乱 「やってられねえッ!」所長が東電本社幹部を怒鳴りつけた』で、福島第一原発の吉田昌郎所長が窒素注入の件で対策本部に怒鳴りつけ、現場放棄の発言をしたと報道し、「週刊現代」(5/7・14)で、記事『日本の運命を握るヨシダという男』で、吉田昌郎56歳、フクシマを仕切る最高責任者の人間像を報道していますが、4月になり、現場体制について報道されるようになりました。
マスメディアは、現場体制についての報道が皆無であるが、どう見ているのでしょうかね?
自ら、自己規制して、自分らは安全地帯にいて、原発事故を報道しているのは、御用機関でしょうね。

また、TV・新聞の報道機関が、未曾有の震災の被災者を思うと、政局をしている場合ではないという論調で、「現在は、政治の空白を作るべきでなない」という世論を形成しているが、当方に言わせれば、正論めいた常識論としか思えないのです。
当方は、政官業の既得権による硬直化した日本社会には、「破壊と創造」が不可避で、先鋭的な異才に委ねるしかないという考えでした。
東日本大震災は、日本社会の「破壊」にも相当し、新たな「創造」の好機であり、従来の固定観念による常識論を決別を決断できる人間の登場を切望します。

フリーライター宮島理氏のブログ『非常時こそ解散要求した朝日新聞』の冒頭の部、

”「この難局を首相が本気で打開しようとするなら、結局は原点に戻って早期の総選挙で信を問い、政治に力強さを取り戻すしかあるまい。(略)
 この緊急時に総選挙で1カ月もの空白をつくるわけにはいかない、という見方もあるかもしれない。だが、政治の混迷と指導力に欠ける政権が続く方がはるかに『空白』なのではあるまいか」(朝日新聞社説「衆院解散・総選挙 危機克服にこそ決断を」より)
」”

と読み、あれ、朝日新聞もまともな意見を述べているなーと思い、先を読んだら、

”「実は冒頭で引用した社説は、2008年10月31日付けのものだ。「100年に1度」の世界金融危機直後、麻生政権が非常時を理由に解散総選挙を先延ばししていた時期に、朝日新聞は解散総選挙を求めていた。」”

と、麻生下ろしの社説でした。

宮島理氏は、その後の朝日新聞の社説を引用し、
”「この緊急時に総選挙で1カ月もの空白をつくるわけにはいかない、という見方もあるかもしれない。だが、政治の混迷と指導力に欠ける政権が続く方がはるかに『空白』なのではあるまいか」と主張して、菅政権に退陣を迫ることが、この非常時にこそ求められている。」”
とし、
”「政治の混迷と指導力に欠ける政権が続く方がはるかに『空白』」なのだから、解散総選挙は大歓迎のはずだ。その結果、菅民主党が勝利したとしても、それもまた国民の選択ということになる」”
と結んでいます。

事後処理は、誰でも容易にできます。
危機察知、洞察力は資質であり、危機発生したら過去の前例を無視し、終息なり、再生させるのは、誰でもできません。
菅首相が大震災・原発事故後に、多数の本部・会議を設けることは、責任分散・転嫁しかなく、対策本部を設置したら、関連部門(省庁)に権限委譲し委ねることが肝要です。
菅首相は、権限委譲せず、責任委譲しているの過ぎず、諸官庁が有機的に機能せず、ただ、一生懸命を喧伝している過ぎないのです。
官僚も、イラ菅に、罵倒され続けられたら、「やってられねえッ!」という心境になるでしょうね。

マアー、菅首相では、大震災・原発事故を日本再生の好機にできず、日本の疲弊は続きますね。


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