鎌刃城

2014年04月29日 | 滋賀百城

 


  鎌刃城は、中山道の宿場町である番場の南東山中にあ
る。霊仙山系から西に突き出た比高約180メートルの
山頂に位置し、山麓の中山道や、周辺に点在する佐和山
菖蒲嶽城太尾山城などを見下ろすことができるほ
か、湖北・湖東方面まで眺望が利く立地である。
 鎌刃城の築城については斎場の土豪土肥氏によるもの
と伝わっていたが定かでない。文明四年(1472)に
坂田郡の今井秀道が堀次郎左衛門の龍る鎌刃城を攻めた
という記録が最古である。戦国時代の近江は江北の京
極・浅井氏と江南の六角氏が争う構図であり、当時の今
井氏は京極方、堀氏は六角方であった,鎌刃城は坂田郡
南部に点在する他の城砦群と共に、この南北両勢力の国
境に位置する「境目の城」として機能していたのである。
琵琶湖側に位置する磯山城・佐和山城・太尾山城に対し
て、鎌刃城は山間を抜ける中山道やその他の間道を監視
する役目を担っていた。



鎌刃城模型

 堀氏や今井氏は坂田郡南部の国人で、南北抗争の中で
しばしば服属先を変えている,その度に鎌刃城では攻防
戦が行なわれた記録がみられるが、永禄二年(1559)
以降は浅井氏に属した堀氏が入城し、浅井方の城となっ
ていた,
 元亀元年(1570)に浅井長政が織田信長に反抗す
ると、長政は織田方に降った堀氏に換えて百々越前守を
入れるが、姉川合戦後は信長が堀氏を入れている。天正
二年(1574)に堀氏が改易され、翌年に城内にあっ
た米穀二千俵が徳川家康に与えられた後は記録にみえな
くなり廃城になったようである。

鎌刃城は霊仙山の東尾根から派生する支尾根の東端に築
かれ、中山道の番場宿を見下ろす位置にある。
番場宿は
西には琵琶湖の水運を利用できる朝妻港を控え、東は美
濃、南は京へと続く中山道と、木之元宿を経て越前に通
じる北国街道が交差する交通の要衝にある。

こうした要衝の地をめぐって、天文年間から永禄年間に
かけては江北の浅井氏と江南の六角氏の戦いが繰り返さ
れ、中山道に沿っては鎌刃城以外にも菖蒲岳城、太尾山
、および地頭山城などが点々と築かれている。


鎌刃城は尾根頂部の主曲輪を中心として、北と東に延び
る尾根上には連郭式に曲輪が配され、南尾根は幅2mほど
の痩せ尾根にもかかわらず八条の堀切を入れるなど徹底
した防御が図られている。
鎌刃城の名前は、この尾根の
形状が鎌の刃状であることに由来しているのかもしれな
い。

主曲輪から延びる北尾根には小曲輪も含め7つの曲輪を
階段状に築き、尾根の先端は3条の堀切で処理している。

また、西に延びる尾根にも小曲輪を連ね、堀切と切岸に
よる防御が主体であるが、尾根の先端部斜面には三条の
畝状堅堀を配するなど、近江では数少ない防御がなされ
ている。


こうした連郭式の縄張りを持つ鎌刃城が、他の中世城郭
と一線を画するのは、石造りの城という点にある。

1999年から発掘調査が実施されるまでは、石垣といえば
主曲輪から東に延びる尾根先端の曲輪(ここでは、仮に
三の曲輪としておく)の南斜面に高さ3~7m、長さ40m
ほどの石垣(通称:大石垣)だけであった。

しかし、1999年から2002年までの3年間に渡る発掘調査
で主曲輪周囲を石垣で固め、虎口は山城としては異常に
大きい石造りの枡形虎口を備えていること、また三の曲
輪にも石造りの枡形虎口を有するなど、要所要所は石積
みで固められていることが判明。

出典:  

    

  

【エピソード】 

 

 

【脚注及びリンク】
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1.
鎌刃城コース|戦国の舞台 近江を歩く - 滋賀県
2.戦国の山城・近江鎌刃城
3.鎌刃城公式サイト
4.鎌刃城の近江戦国史における歴史的な意義づけ
5.箕浦の合戦

6.近江の戦国時代 京極氏と六角氏
7.近江の戦国時代 浅井氏の台頭
8.近江の戦国時代 信長の近江侵攻
9.近江六角氏はなぜあっという間に敗れ去ったのか?
10.琵琶湖岸の地理的環境と戦国時代の近江の水城
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太尾山城

2014年04月26日 | 滋賀百城

 

 

 太尾山城はJR米原駅の東側にある比高約170メー
トルの山上にある,

 築城は在地の土豪米原氏によって行われたと伝えられ
ているがその詳細は不明である。戦国期の文明三年(1
471)
に美濃の斎藤妙椿が近江に侵入し「米原山」
合戦が行われたとするが、この「米原山」が「太尾山」

とみられている。山手を通過する中山道(東山道)と共
に米原には湖岸沿いを通過する街道があり、近江の南北
をつなぐ交通路の中継点となっていたのであろう。
 天文七年(1538)の六角氏による江北攻めでは、
湖西から参戦した永田伊豆守や能登殿が「太尾」に着陣
している。この後、永禄年間にかけて太尾山城は江北の
京極・浅井氏と、江南の六角氏の国境線に位置した「境
目の城」として佐和山城や鎌刃城・菖蒲嶽城・磯山城・
朝妻城など共に攻防が繰り返された。
 大尾山城には浅井方から中嶋宗左衛門(浅井郡)や、
六角方から佐治太郎友衛門尉(甲賀郡)や吉田安芸守
蒲生郡)など、領国の後方から城主が派遣されていた。

天文二十一年の六角義賢から佐治氏への書状には「為太
尾山番勢、入城辛努候、傀気遣肝要候」とあり、長期に
わたる敵前での過酷な任務の様子がうかがえよう。この
年、京極高広は今井氏に大尾山城攻略を命じたが失敗し
ている,永禄四年(1561)に吉田安芸守が守備する
太尾山城を浅井方は磯野員昌・今井定清か夜襲によって
攻略したが、今井定清か同士討ちで戦死している(『嶋
記録』)。



 浅井氏の下では中嶋宗友衛門が在城していたが、織田
信長の近江進攻と南北抗争の終結によって境目地域は消
滅し、元亀争乱によって大尾山城も役割を終えて廃城と
なったようである。
 城は北城と南城からなる「別城一郭」と呼ばれる構造
で、共に尾根上に曲輪や土塁・堀切を階段状に並べてい
るが、両城の間は自然地形を残している。
 北城は北・東面を土塁で囲んだ主郭を中心に、北側は
堀切こそ無いものの土塁囲いの曲輪が防御を固めている。
主郭から東へ派生する尾根続きへは堀りと腰曲輪を設け
て遮断する。主郭から南は三段ほど曲輪が並び端を堀切
で遮断している。主郭からの眺望は伊吹山や湖西・湖北
のほか、鎌刃城・佐和山城を望むことができる。



太尾山城跡を望む

 南城はやや小さい山頂の主郭北側に土塁囲いの曲輪(
副郭)を設けている。いずれも方形を指向した平面形
で他の曲輪からの比高差も大きい。その北側には虎口を
持った曲輪が置かれ、北・東の尾根続きに配した堀切へ
斜面が続いている。南側へはやや削平が不完全な曲輪が
連なり西への尾根続きをかなりの落差を持った堀切によ
って遮断している,
 こうした土塁囲いの曲輪や、堀切による厳重な遮断、
曲輪の方形平面の指向は近江の中でも比較的進んだ縄張
りであり、境目地域に最新の築城技術が役人されていた
ことがうかがえよう。先述の別城一郭構造は大尾山城の
南方に位置する菖蒲嶽域に
もみられ、境目の城における
特徴とも言われている。

 近年行われた発掘調査では、北域・南域ともに主郭と
その北側の土塁囲いの曲輪で礎石建物が検出されてい
る。これは『大原観音寺文書』の「中嶋宗左衛門直頼書
状」にある「太尾門矢蔵之用、上野より材木三本召寄候
云々」の門・櫓の存在を裏付けるものである。南城の土
塁囲い曲輪では区画溝や集石遺構も検出されている。ま
た土師器皿や天目茶碗・擂鉢などの出土遺物もあり、境
目の城としてかなり恒常的な施設や生活が営まれていた
ことが明らかとなった。
 現在、青岸寺から北城、湯谷神社から南域へと二通り
の登山道が整備され、城跡には各所に調査成果を反映し
た写真入りの解説版が設けられており遺構の理解を助け
てくれる。     
                  (早川 圭)

出典:  

     

  

  

【エピソード】 

 

 

【脚注及びリンク】
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1.
太尾山城
2.太尾山城・その1
3.太尾山城・その2
4.太尾山城・その3
5.中世の伊吹山と山伏−『大原観音寺文書』が語ること

6.近江の戦国時代 京極氏と六角氏-滋賀県
7.近江の戦国時代 浅井氏の台頭
8.近江の戦国時代 信長の近江侵攻
9.近江六角氏はなぜあっという間に敗れ去ったのか?
10.琵琶湖岸の地理的環境と戦国時代の近江の水城
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長比城

2014年04月25日 | 滋賀百城

 長比城は、近江の秀峰、伊吹山より派生する尾根上で、
滋賀県と岐阜県にまたがる野瀬山の山頂に位置している。
古来この辺り一帯を「たけくらべ」と称した。いつ
頃か
ら称しているのかは定かでないが、一条兼良の『藤
川記
』(文明五年)に「たけくらべというは近江とみの
との
山を左右に見て行所なり」とあるように、長比城眼
下を
通る東山道(中山道)の両側(南北)にそびえる
山々が
その背丈を競い合っているようであることから、
その名
がつけられたのであろう.つまり、長比城は東山
道(中
山道)を押さえる要害の地に構えられているので
ある。

 さて、戦国時代の近江は江南を守護である佐々木六角
氏が治め、江北を佐々木氏の流れを汲む京極氏が領国と
していたのである,さらに、戦国期の後半には京極氏の
内紛によりその家臣であった浅井氏が台頭し、江北を支
配していったのである,こうした江南と江北の境に加え
て、湖北地方、特に現米原市は東側で美濃国(岐阜県)
と接する国境地帯でもあった。このため、こうした国境
地帯は、領国の境目として「境目の城」「国境の城」と
いった国境警備の軍事拠点の山城が構えられた,長比城
もその一つである、



長比城跡東側曲輪

 長比城が「境目の城」「国境の城」としてその性格を
一層明確にしていくのが、元亀元年(1570)の浅井
長政による織田信長の離反である、元亀元年四月、織田
信長は朝倉義景を討つため三万余の大軍を率いて越前に
攻め入り、金ケ崎城を攻略した。ところがこの時、信長
のもとに妹お市の方の婿である浅井長政が反復し、朝倉
氏と結び信長を攻撃してきたのである.信長は、朽木越
えで京都に逃れ、最大の危機を脱したのである。
 岐阜に戻った信長は軍勢を整え、元亀元年六月浅井長
政の討伐に向かった。これに対して、浅井・朝台車は、
美濃の国境に防御ラインを設けるのである。『信長公記
』(元亀元年六月条)には、「去程に、浅井備前越前衆
を呼越し、たけくらへ・かりやす両所に要害を構え候」
とある。信長の侵攻に対して、越前衆の力を借りて、長
比城・苅安城(ヒ平寺城)を築城したのである。しかし、
『信長公記』の続きには、「信長公御調略を以て、堀・
樋口御忠節仕るべき旨脚請なり、6月19年、信長公御
馬を出だされ、堀・樋口謀反の由承り、たけくらへ・か
りやす取物も取取へず退散なり、たけくらへに一両日御
逗留なされ、」とあり、守備していた堀秀村・樋口直房
は信長軍に内応し、浅井・朝倉両氏との思いとは裏腹に
両城はあっけなく落城するのである。



 長比城は、現在でもその姿をよく留めている。JR柏
原駅から中山道を東に向かい、JRの踏切(野瀬踏切)
を越えて更に東へ。左手にある神明神社の鳥居をくぐり、
突き当たり(ダム堰堤)の左に「長比城」の木札があり、
そこが登り口。山腹の秋葉神社から尾根伝い(踏み跡)
に登り、山頂の西側の曲輪に到着する。
 長比城の遺構は、大きく東と西の曲輪(郭)からなり、
「境目の城」に多く見られる、いわゆる「別城一郭」を
呈している。西側の曲輪は、東西約50メートル、南北
最長で約30メートルの規模を有している。特に残存状
況が良く、ぶ厚く高い土塁が巡り、東側にくい違いの虎
口を設け防御している。南側に数条の竪堀がある。東側
のくい違いの虎口を抜け、少し登ると東の曲輪へと続く。
西の曲輪よりひと回り大きく、東側の土塁はぶ厚く高い。
東側と北側にくい違いの虎口を設けており、東側(美濃
側)を意識した構造と呈していることが読み取れる。築
城に際して、越前衆によって工事が実施されていること
など、朝倉氏の築城技術を垣間見ることができる。

                   (桂田峰男)
 出典:  

    

 

 

【エピソード】

 

【脚注及びリンク】
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1.
こころに残る滋賀の風景 - 滋賀県
2.野瀬山-長比城址 - 山聲
3.滋賀県米原市 成菩提院 - Japan Geographic
4.虎御前山争奪戦
5.神明神社 - 万葉集を携えて

6.中仙道:柏原宿(滋賀県)(その1)
7.姉川の戦い - 戦国の姫たちの越前・若狭
8.
堀秀村
9.樋口直房
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上平寺城

2014年04月22日 | 滋賀百城

 

  伊吹山南麓一帯に展開する京極氏の本城・上平寺城に
は、江戸時代の初期に描かれたと思われる『上平寺城絵
図』(米原収蔵)がある。廃城後百年ぐらいたった頃に、
現地の遺構を忠実に描き、伝承を加えて作成され
たと考
えられている。

 絵図は伊吹山頂を北にして、山腹の上平寺城と山麓の
京極氏館を中央に描き、南に城下、西側尾根上に家臣屋
敷、東は川戸川の峡谷、南端には軍事・経済の重要ルー
ト越前街道(北国脇往還)を描いている。現在でも、上
平寺周辺は絵図に描かれた中欧の姿を偲ぶことができ
る。ここでは、絵図の記載をたよりに城下から山城まで
をたどってみたい。



 まず、かつての外堀を埋めて作られた市道藤川相撲庭
線の上平寺バス停から上平寺城へ向かう。市道から南は、
絵図に市店や民家の存在が記されていて、発掘調査で屋
敷跡が出土している。その南の集落は寺林で、北国脇往
還が貫通する宿場町である。西に見える森には、若宮・
加州など六区画の家臣屋敷が良好にのこる。
 バス停から集落内を山手に向かう道が大手道で、一之
御門と呼ばれる四つ辻をすぎて、杉本坊を右手に見なが
ら伊吹神社の石柱にいたる。上平寺はわずか15軒の小
集落であるが、戦国時代にはここに武家屋敷が広がって
いた。石柱前の小水路が内堀で、京極氏館と城下を区画
する。



 ここから伊吹神社に入る。境内地一帯が京極氏館であ
る。全体の規模は東西約170メートル、南北約250
メートル。入ると右手に薬師堂がある。もともと一番上
手の伊吹神社の隣にあったものが、明治の神仏分離で場

所が移されたという。薬師堂の上段は弾正屋敷。その
かいに隠岐屋敷がある。いずれも京極氏の一族の屋敷

と推定され、隠岐屋敷には道に沿ってL字の土塁がめ

る。さらに、蔵屋敷などの広大な屋敷跡があり、道の

き当たり、鳥居の右側下段が京極氏の屋敷跡である。

奥行き約54メートル、幅約35メートルの規模で、こ
の奥に京極氏が愛でた庭園跡がある。
 池泉観賞式庭園で、おそらく館側に庭園を見るため
建物があり、川戸谷の四季を借景にして庭園を観賞した
思われる。百近くの大小の庭石が残り、往時を想像す
るには
充分だ。このような庭園は、単なる遊興のための
施設ではな
く、京都の御所で行われていた武家の儀礼を
この地で行い
京極氏の権勢を見せるための舞台装置とし
ての役割をもって
いた。北近江に花開いた戦国大名文化
を体感できる遺構である。



 さらに上段の伊吹神社の脇には京極氏一族の墓所があ
るが、ここからは、鳥居の手前を左に入る登威迫で山城を目
指す。クマは鈴などの鳴り物で避けてくれるが、ヒルは知らな
い間に忍び寄り、スズメバチは見境がないので要注意。
 京極高清か山麓に京極氏館を構えたとき、詰の城として築
いたのが上平寺城である,大永三年(1523)の家臣団によ
るクーデターにより、京極氏館は北近江の守護館として
の役割を終えるが、上平寺城は東山道と北国脇往還を見
下ろし、北近江と濃尾平野を一望できる地点にあること
から、江濃国境の境目の城として機能することになる。
『信長公記』には、元亀元年(1570)、浅井長政が
美濃から侵攻してくる織田信長に備えて、朝倉氏の援助
を受け、上平寺城と長比城を改修していることが記され
ている。しかし、城将の堀・樋口が信長に内応したこと
により、戦わずして開城した。



 七曲と呼ばれる急な山道を約50分。道の脇に巨大な
竪堀が見え隠れしはじめ、さらに進むと山道はこの竪堀
を分断して、すぐに上平寺城最大の曲輪に取り付く。こ
の曲輪先端部に展開する一本の放射状の竪堀群によって、
敵の攻撃は分断される。
 この最大の曲輪は、兵の駐屯地的な場所だろうか。こ
こをすぎると堀切があり、土橋を渡って両側を土塁で遮
断された空間に入りこむ。さらに正面に土塁が築かれて
おり、敵は前面と左右を土塁で囲まれた狭い空間に入り
込み、土塁上から弓矢による攻撃を受けることになる。
この枡形遺構が上平寺減量大の見どころである。
 ここからは、厚くて高い土塁に守られた曲輪が連続し、
量高所の主郭との間には東西に長大な竪堀が設けられて
いる。主郭へは仮設の遺で帯郭から登る。主郭からの眺
望は、晴天の日に名古屋のツインタワーが見え、また、
西に隣接する尾根上には弥高寺の広大な坊跡群が展望で
きる。



 上平寺城跡は、伊吹山(1377メートル)から南へ
伸びる刈安尾と呼ばれる尾根の先端に築かれており、主
郭背後の巨大な堀切には、ひと一人がやっと通れる土橋
を設けて尾根を断ち切る。
 伊吹山麓の京極氏関連遺跡は、弥高寺跡も含めて地元
により刈払いが行われている。規模・構造・眺望・歴史
ともに、一日かけてじっくり味わいたい。(高橋順之)

出典: 

    

【エピソード】

【脚注及びリンク】
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1.上平寺城 - ぶらり歴史めぐり - 歴史のかたりべ
2.京極氏遺跡群 -京極氏館跡・上平寺城址・弥高寺跡
3.伊吹山 新ルート 上平寺、弥高尾根コース
4.北国脇往還を歩く-関ヶ原から木之本
5.京極氏館跡&彦根城 モニタツアー

6.米原市: 伊夫岐神社
7.上平寺城跡(桐ケ城)と弥高百坊(刈安尾城)
8.
佐々木信綱
9.武家伝 京極氏
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小谷城

2014年04月16日 | 滋賀百城

 小谷城は、東浅井郡湖北町伊部にある戦国時代の山城
である。日本五大山城の一つに数えられる名城である。
現在は国指定史跡として保存されている。城の築城に関
してはは不明な点が多い。『浅井三代記』によると、水
正十三年(1516)十月に完成したという記事がある
が定かではない。大永三年(1523)に、浅井亮歎が
当時の北近江の守護であり湖北一帯を支配していた京極
高浩の家督争いに乗じて京極氏の重臣上坂信光を失脚さ
せ、替わって江北支配を手に入れたことからその勢力は
大きく飛躍した。大水四年(1524)には、浅井亮歎
が小谷城京極丸で京極高浩を饗応していることから、少
なくともこの頃に築城されたと考えてよいであろう。
 その後、浅井氏は亮政・久歎・長歎と続く三代で盤石
な組織のもと、京極氏に取って代わり戦国大名へとのし
上がっていった,城はその過程で、随時、拡張されされ
ていったと考えられている。

 京極氏・浅井氏・六角氏が支配するこれら強固な近江
の地は、尾張と美濃を支配し京上洛を果たそうとしてい
た織田信長にとっては避けて通れない地域であった。こ
の一角を崩すため、永禄十年(1567)頃、信長は知
略聡明で美男子と評判であった浅井長政に目をつけ、信
長の妹お市を妻に娶らせることにより兄弟の契りを結ぶ
こととした。しかし、父・祖父の代から絆の深かった越
前朝倉氏との同盟関係はそれよりも堅い絆であった,信
長が元亀元年(1570)に越前の朝倉義景を攻めた際
に浅井氏はついに信長に反旗を翻す。姉川合戦に破れた
浅井・朝倉軍は敗走し、その後、横山城を拠点とする織
田軍とにらみ合いが続いたが、ついに天正元年(157
3)小谷城は、羽柴秀吉軍を筆頭とする織田軍に総攻撃
され、浅井氏三代は自害し果て滅亡した。



 浅井氏滅亡後、この地は功のあった秀吉に与えられた。
秀吉は、その後今浜の地に長浜城を新造するが、それま
での間は小谷城を居城としている。彦根城の西の丸三重
櫓は、長浜城へ移築された小谷城の天守と云われている。
 城は、小谷山の幾重にも重なる尾根筋の1つを利用し、
雨北に縦に長い形として見ることが出来る。尾根筋を深
さ5~10メートルほどの堀切で区切り、出丸から金吾
丸、番所、御茶屋、御馬屋、桜の馬場、大広間、本丸と
続き、その奥の中丸との曲輪で南北に分けている。そこ
からさらに亮政が京極氏を幽閉していた場所といわれる
京極丸、小丸、山王丸と続いていく。大獄へは山王丸か
ら谷筋を下り、さらに百メートルほど高いところにある。
築城当時亮政の代には、現在の本丸跡よりも、さらに北
の頂に築かれた大獄に本丸があったと考えられている。



 最終的な城の形は、その後の久政、長政による代々の
拡張が重ねられ結果、現在のような構造になったと思わ
れる。城に登ると、多くの曲輪によって城が構成されて
いることがわかるであろう。眼下の谷筋である清水谷が
山下町で、家臣団の屋敷や町やがあったと考えられてい
る。また、尾根の斜面には魚の鱗状に小さな曲輪や滑り
台のように長い竪堀が幾重にも掘られており、防御制を
高めている。特に、曲輪には石灰岩の石積みが多く用い
られており、安土城に先行する高い近江の技術を先進的
に取り入れた城作りを見ることも出来るであろう。
                   
                   (木戸雅寿)
 

出典:     
 

 

 

【エピソード】     

    

  

2017年03月末をめざし北陸自動車道の長浜市湖北町山脇
に、高速道路の利便性の向上、観光振興、産業振興、救
急・医療体制の強化、災害時の避難経路の確保の5つの
目的をもって、小谷城スマートICが連結される予定に
ある(上図、クリック)。ここを起点とした"戦国浪漫
琵琶湖一周の旅"(1泊2日~2泊3日規模の歴史ツア
ー)などが計画できそうだし、戦国時代だけじゃなくて
"日本史浪漫の里山ツアー”(白州正子の愛した近江ツ
ー)も考えられ、これは面白い。
 

 

【脚注及びリンク】 
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1.小谷城戦国歴史資料館
2.小谷城の戦い、Wikipedia 
3.小谷城 、Wikipedia

4.小谷城跡、滋賀県

5.小谷城址|小谷城郷土館ホームページ
6.江(ごう)~姫たちの戦国~(1)

7.白州正子の愛した近江 
8.
和泉事典シリーズ27 戦国軍記事典  - 天下統一篇

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