八幡山城

2014年04月01日 | 滋賀百城

 

八幡山城は、滋賀県近江ハ幡市北方の八幡山(鶴翼
山)
に所在する城跡で、当時は後背から西にかけて
津田内
(昭和46年干拓)、東に大中の湖が広
がっており、
内湖に囲まれた環境に立地していた。



 豊臣政権下の天正十三年(1585)には、羽柴
秀次に近江四三万石が与えられ、このハ幡山に八幡
山城が築かれた。築城に際しては、山麓に伽藍を配
していた願成就寺が八幡山南方にある日杉山へ移さ
れ、山腹に鎮座していた日牟礼ハ幡宮の上社も同じ
く、麓の下社に合祀されたことが史料に伝わってい
る。

 


 本丸およびニノ丸・北ノ丸・西ノ丸・出丸の城郭
施設は八幡山山頂部分に配置され、居館部分は標高
約130メートルの山腹に平坦地を設けて造られて
いる,火手近は、築城に際して開削されたと伝わる
八幡堀付近から、居館部分最高所に位置する秀次館
に至る,この大手道両側には雛壇状に家臣団屋敷群
が広がっていて、東側の尾根と西側の尾根と八幡堀
がセットで惣構えを構成していると考えられる。
 天正十八年(1590)に秀次が尾張清洲に移っ
た後は、京極高次が代わって2万8千石で城主とな
り、秀次が自害する文様四年(1595)に栄楽第
と同じく破壊された。



 織豊期段階の城郭は、一般的に防御空間と居住空
間が一体になっているが、それに対して八幡山城は
防御空間としての山城(詰城)と居住空間としての
居館が分離する構造となっており、戦国期の城郭に
見られるような時代を逆行した二元的な分離形態を
とっている。これは、八幡山城が築城された天正十
三年(1585)が、小牧・長久手の戦いの翌年で
あり、織田信雄・徳川家康との講和以前の段階で、
東国に対しての臨戦態勢の緊張下にあり、防御線と
して近江国が考えられていたことに起するのではな
いかと考えられている。



 まず、山頂城郭部分に関しては、本丸を中心にニ
ノ丸・北ノ丸・西ノ丸・出丸が放射状に配置されて
おり、それぞれが高石垣で構築されている。
 現在は昭和三十八年に京都より移設された門跡寺
院の瑞龍寺の門となっている本丸の虎口は、方形の
空間を設けて右に析れて本丸に登る内枡型となる。
そこからほぽ九十度曲がって下るとニノ丸に至り、
さらに九十度曲がるとニノ丸の平虎口に到る。この
ためこの導線には、すべてに横方向から弓矢や鉄砲
が撃てるようになっており、防御性を高めている。
各曲輪の石垣は、隅部分が算木積みになっており、
この部分のみ方形に加工した石材を見ることができ
る。これに対して、その他の築石部分は、粗割石か
自然石が積まれており、本丸虎口には、比較的大き
な石材を使用している。また、石垣の傾斜も直線的
に積まれていて、反りが見られないなど大正十三年
段階の城郭の特徴をよく示している。



 八幡山城を特徴づけるのが山頂城郭部分とは分離
して築かれた南山麓の居館部分である。これは谷地
形の中央部分、標高約130メートルの地点から雛
壇状に築かれており、その最上部に位置するのが秀
次館跡で、巨大な内枡型の虎口を設けており、その
両側は、西側では二段、東側では四股の高石垣を構
えている。この秀次館跡の石垣は隅部分が算木積み
で積まれており、直線的に傾斜するものであるが、
天端の一石のみ直立させることにより、やや反りを
もたせた印象を与えている。
この部分の築石は、威信の作用を狙って部分的に象
徴的に大きな石を配する鏡石積みで積まれており、
実際、八幡山城の石垣石材の中で、その大きさは卓
越している。これら居館部分の平坦地については、
山斜面を切土と盛土をして造成されていることが調
査によって判明してきている。尚、当時の史料が残
っていないことから、それぞれの屋敷地に誰が居を
構えていたかというような詳細は判明していない。



 山頂本丸跡から山麓居館部分にかけての斜面は、
昭和42年の集中豪雨によって土砂崩れを起こして
いる。近江ハ幡市では今後予想される砂防工事に対
応し、史跡指定も視野に入れて、この部分で遺構の
残存状態などの確認調査を行っている,その中で、
秀次館に関連した大型の礎石立建物跡と考えられる
礎石列、それに伴う溝などの遺構が確認できている。
また、秀次館の建物に葺かれていたと考えられる金
箔瓦を含む瓦類が大量に出土し、その中には、秀次
の馬印である沢潟紋の鬼瓦も確認できた。大型の礎
石立建物は、部分的な発掘によるもので、全体とし
ての規模・プランはまだ判明していないが、柱間が
約2メートルになるもので、礎石の配置状況からお
そらく書院造りの御殿ではなかったかと考えられる。

                 (三尾次郎)
出典: 

   

  

【エピソード】   

 

織豊時代の集大成の象徴であるはずの八幡山城は秀
次事件を境に、一直線に廃城へ転落する。そこには
戦国のヒーローであるはずの秀吉のイメージは、権
力欲に囚われた哀れな老人の姿へと変化する。そん
な壮大なドラマが詰まった城跡がこの近江八幡をは
じめ滋賀県には数多く存在する。そのように想うと
き、豊臣秀次の心情とこの城跡を訪れた旅人の心情
が、杜甫と芭蕉の詩歌にシンクロナイズする。


   国破れて山河在り
   城春にして草木深し
   時に感じては花にも涙を濺ぎ
   別れを恨んで鳥にも心を驚かす
   烽火 三月に連なり
   家書 万金に抵る
   白頭掻けば更に短く
   渾て簪に勝えざらんと欲す


 さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時
 のくさむらとなる。
国破れて山河あり、城春に
 して草青みたり
と、笠うち敷きて時の移るまで
 涙を落としはべりぬ。
夏草や 兵どもが 夢の跡

           

 

【脚注及びリンク】 
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1. 八幡山城 - 近江八幡観光物産協会
2. 八幡山城跡 -天下を継ぐ城、滋賀県教育委員会 
3. 八幡山ロープウェー 近江鉄道
4. 八幡山城、Wikipedia
5. 旧西川家住宅
7. 豊臣秀次 
8. 田中吉政
9. 藤木久志 
10. 願成就寺

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