近江の歴史と漬物Ⅳ

2019年03月14日 | 滋賀グルメ紀

   
作成日: 2019.03..14|更新日:

  

くらしを彩る近江の漬け物 
❑ 背景と土壌を探る
2 生業と漬物
☈ 農家のくらしと漬物
昭和三十年頃まで、農家の食事は麦ご飯に漬物と味噌汁
が定番であった。ふだんはきわめて質素な食事であっか
日本食は仏飯や客呼びの時くらいで、日常食は麦を二割
くらい混ぜた麦ご飯であった 農家では、ほとんどコメ
で栄養をまかなっていたようなものなので、漬物はご飯
を食べるための必需品であり、一番のおかずであった‘
漬物は常にご飯とともにあり、コメ文化を支える柱てあ
つた。「ご飯と味噌汁と漬物」の組み合せは、栄養もそ
こそこ取れて、何回食べても飽きのこない素朴な味であ
り、農家のきつい労働を支えてくれた 農家では、朝に
一日分のご飯を炊いた 前日に麦をよばしておき、コメ
とともに炊き上げる。子供の数も多かったので、ひと家
族ニ、三升ものご飯を炊いた 特に農繁閲は日の出前か
ら、日没後まで働きづめなので、一日五、六回も食事を
した。田へ行く時は、ご飯を弁当箱にぎゅうぎゅうに詰
めこんで、梅干しをのせる。タクアン、葉っぱの漬物
つけ味噌、佃煮が主なおかずであった 今ならとても食
べられないほどの塩辛すぎる漬物も、大量に汗をかいた
後なのて身体が要求した 漬物で麦飯をかきこみ、重労
働に見合う熟量を補給した。若い男性ならなら一日一升
ぐらいの飯を食べるのは普通であった ご飯を大量に食
べるために漬物は欠かせなかった。



農家では、きつい労働をするために大量にご飯を食べた 
そのために大量に漬物をつけなければならず、農家の主
婦は年がら年中漬物と向かい合ってくらしてさた 田圃
の仕事をする合間に漬物作りの段取りをする 材料の野
菜作りにも精を出す 季節ごとに野菜が育ち、それを次
々に漬物にしていく「家族の人数を順に入れて、漬ける
補の数を決める 農家ではタクアンを四斗桶に二、三本
漬けるのは普通で、大小をあわサると十本から二〇本の
桶が並ぶ、漬物桶はできるだけ風が通り、温度管理のし
やすい所の方がよいので、家の裏側の軒下か、母屋と小
屋の間の通路などに置かれた。漬物専用の小屋を設けて
いる家もある 昔は漬物をつけたので、けっこう場所を
とぃた,川戸で野哀の泥を洗い落としてから、水洗いし
て、少し乾燥させてから桶に漬けていく。土足で動きや
すくて作業のしやすい場所がよい。



鴎外もほぞをかむ麦飯パワー

湖北の農村部では葬式が起こった時にタクアンの贅沢煮
や塩押しナスの煮物が必ず出される地域がある。葬式は
何時起こるかわからないので、漬物を切らす訳にはいか
ない。どの家でも大量にタクアンと塩切りナスを漬けて
おいた。ナスは夏場次から次に収穫できるので、若くて
きれいなナスを丸のまま塩漬けにしておく。秋じまいに
一度桶から塩ナスをあげて、小糠と塩をまぶし漬け直す。
ウリ、キュウリ、ナスは 収穫して、どぱ漬けにする 
ナスヒ同じくウリやキュウリもどぽ漬け以外に
塩押しに
しておく、これらは酒粕につ・け直して奈良漬けにする
とが多い、塩押しする時は我石が収い万がよく、途中
で軽くして
しまうと酸っぱくなってしまう、また雁行が
均等にかかるように
石の傾きを時々直してやる必要があ
る。
農家ではウメの木がミ一、二本植わっている。梅雨
の頃、ウメが
たわわに実をつけると、収して塩漬けにす
る。シソの葉が育っ
たらウメ酢に漬け、土用の頃に三日
一晩しあげる。秋口にダイコン、カブの芽が出てきたら、
適度に間引いて菜っぱの浅漬けにする。秋の農繁間には
この間引いた青菜を塩漬けにしたものが、とても新鮮で
おいしい ダイコン、カブは、十一月中旬頃収穫できる 
寒風が吹き出す順にプレ目ほど、はさ架けしてダイコン
の水分を落す、四斗桶を用意してご隼分のタクアンを塩
と糠で仕込むナスの葉や干しガキの皮を入れると風味が
よくなる。.大家族だと桶は二、三本必要だ。三月まで
の寒いうちに食べるのは、塩を控え目にするが、夏を越
すタクアンは、塩を多くふり入れる。

 



 漬物をはさんだユリコ団子(湖東地方

滋賀県は耕作面積のほとんどが水田てあり、米栽培を中
心にした農業が続けられてきた。
しかし、米を作ってい
るといっても、いい米は売っ
てしまうので、家で食べる
のは二番米であった 米
は年に1回しか収穫できず、不
作の年だとし、八月の端境期に米が食べられないことが
よく起こるので、始末して食べた 米の少ない時は、ユ
リコ団子や混ぜご飯を多く食べ、米を節約して食べのば
した。糧飯としては、リョウブ飯、ダイコン飯、豆飯な
どが食べられている。が、この場合も漬物は欠かせない
おかずであった。

農閑期の冬場はモチにウル米を混ぜて作るコワ餅が主食
や間食となる さらに質の悪い末熟れや胴割れ米などの
くずれ米はユリコ、イリコ、ユルゴ、コゴメ、コマカな
ビと呼ばれている これも大事な食料であハで、粉に挽
いてから団子にして代べた ユリコ団子は滋賀の全域デ
食べられている。ヨモギを入れたユリリ団子はばほ全域
で認められる。湖北では煮煮団やカブと一緒に団子汁に
したり、ミョウガなどの葉に包んで蒸し団子にすること
が多い。湖東のユリコ団子は、灰の中に入れて焼き団子
にするのが特徴である 中身も変わっていて、大根や日
野菜や葉っぱの漬物を刻んで入れたり、焼いわしやエビ
を入れる。日野菜漬けかよく使われている 素朴な味で
蒸して、焼いて食べても美味しい。ここに、スジエビ、
サワガニ、シジミ、モロコなどの魚介類、ラクト、ジビ
エ、クルミなどの具材に加え、麹や酒粕、酢、ハーブ(
香辛料)などを加えどに漬け込んだ「ゆりこ団子」とし
てバージョンアップすれば強力な滋賀の名産事業となろ
う。

   

【#野菜漬物#北海道#旭川市西神楽#かぼちゃ漬】

材料:大根/塩/かぱちや/サッカリンノ笹の葉

鮮やかな黄色が笑しい漬けものである。水分の多いかぼ
ちゃ、甘みやうまみの乏しいかぽちやなど煮炊きしても
まずいもの
用いて有効利用。 二斗桶一本分の聖護院
大根を縦半分に切って、一週間、塩漬けしておく。かぼ
ちゃ.三個はあらく切って、水をひたひたに加えて炊き
あげ、汁ごとつぶしておく。かぼちゃのないときは好み
で砂糖をを少し入れる。水気をしぼった大根を―斗樽に
一段並べ、つぶしたかぽちゃを平らに置いて、大根、か
ぼちゃと、交互に詰めていく。笹の葉をかぶせ、ふたを
して.重石をかけておくと、―週間すぎから食べられる。
なお、大根は縦半分に切って、四、五日干したものを、
直接かぼちやの床に漬ける方法もある。この場合は、か
ぼちゃ三個に対して、塩を荼わん三杯くらい混ぜて漬け
る。

 

 

 LEDを照明としてでなく、家庭用菜園と兼用させた
ランプが提案されている。もう自然農法が主流でなく、
多様な農産物育成時代である。無自覚ではあるが、環
境全面対応できる宇宙食農法時代なのかもしれない。
 

【脚注及びリンク】
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  1. 食べ物の「こく」を科学するその現状と展望  西
    村敏英、江草愛、化学と生物、2016.vol.51,No.2,
    PP.102-108 
  2. 物を科学する 世界に誇るマイクロバイオームフ
    ード, Anti-Aging Food Association 2016.08.23
  3. フローラ健康通信 - NHKでも放送された、今話題
    の腸内フローラ!毎日のスッキリと快適生活を維
    持する方法とは 2019.03.07 
     
  4. 近江つけもの 山上 公式ホームページ 
  5. 戸時代は100種以上、日本人と大根の根深き関係
    食の安全、
    JBpress
     
  6. 方領大根  Wikipedia 
  7. 聖護院大根領大根  Wikipedia 
  8. 多賀の食「おやき・ゆりこ団子」2018.06.17 
  9. 滋賀県の家庭料理 おやつの特徴 日本調理科学会
    2017.08.31 
  10. 滋賀県出身の人物一覧         

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近江の歴史と漬物Ⅲ

2019年03月08日 | 滋賀グルメ紀

   
作成日: 2019.03..|更新日:

くらしを彩る近江の漬け物 
❑ 背景と土壌を探る
1 近江の歴史と漬物
☈ 明治以後、食生活の変化による潰物の行方

昭和二十五年頃から日本経済は回復に向い、昭和三十年
代に入
ると高度経済成長が始まり、食生活は一変するこ
ととなる。加工
食品、肉類の摂取が急増し、食生活の洋
風化の進行とともに、漬
物は食ヴの主役から脇役へと後
退していった.「食塩の過剰の弊害
も指摘され、タクア
ンをはじめとして主要な漬物の生産量は激減
期を迎える
こととなる。

昭和二十五年代に入ると日本型食生活の再評価が始まり、
漬物も
多品目少駿時代を迎えることとなる 10%以上
の高塩漬物は次
第に減少し、現在では塩分2%以下のも
のが多く、1%くらいま
で塩分を落とした漬物も増えて
いる。家庭で漬ける漬物から購入
するものへと変化して
いく中で、発酵させずに調味液につけただ
けの製品も多く
なり、漬物交化そのものが大きく変身していった。



☈ 滋賀の漬物技術

滋賀県は「近畿の米倉」といわれたほどのコメの
産地で、農耕地
のほとんどが水田なっている漬物
交化は稲作とともに発展してきたので、コメの産
地である滋賀は当然、漬物交化も豊かに発
展した

滋賀県は野菜の漬物だけではなく、淡水魚の漬物・馴れ
ずしの宝庫である,魚をご飯と一緒に漬け込むことは贅
沢なことで、ナレズシは米どころであるからこそできた
漬物である。また長く農家が魚捕りをする半農半漁の漁
業が、主体であったからこそ生まれてきた文化でもある。
野菜の漬物、魚の漬物・馴れずしも含めて、滋賀の人々
は優れた漬物技術をもっていた 発酵食品は相手が微生
物だけに目をかけてやらないと失敗する 経験ときめ細
かな観察力が要求される。近江の人はそれを厭わずに発
酵食品を育ててきたといえる。

漬物の産地として京都が有名である。滋賀は京都の近郊
に位置し、都を支える物資供給基地としての役割を永く
担ってきた。米や淡水魚介類だけでなく、野菜も近江か
ら運ばれた。a・津や大津でとれた野菜が京都の収場に
並び、また行商されていき、京都の漬物になっていった,
、現在でも1枚漬けのド漬けが滋賀でされており、滋賀
は京漬物を支えながら、漬物を漬ける腕も磨いてきたと
もいえる。        
                  この項つづく              

 

 

【エピソード】

    

【#野菜漬物#青森県#大根の水漬】



青森県三戸郡階上(はしかみ)町道仏

みずみずしい方領(ほうりょう)大根を六斗樽に一杯漬
け込む。おかずにしたり、手みやげに持って歩くほどで
ある。二十貫(75キロ)くらいの大根に六百匁(2.25
キログラム)くらい塩入れ、樽の三分の一ほど入れて押
しぶたをし、二十貫ほどの重りをのせる。十二月八日、
薬師さまの年取りの日に水漬に手をつけ、神さまにあげ
申してから食べ始める。甘塩で、しやわしやわと歯ざわ
りもよく、うまい。なんぼでも食べられる,

  

日本の大根は大陸から伝わってきたとされる。大根の種
は腐りやすいため、化石として遺りにくく「何年前の遺
跡から発掘」といった成果は上がってこない。ただし、
土中の花粉には大根の属するアブラナ科のものが多く見
つかっており、稲作より前に大根は日本に広まっていた
とする説もある。
大根についての最古の記録は、712年成立の歴史書『古事
記』における仁徳天皇の歌にある。

つぎねふ山城女の木鍬持ち打ちして淤富泥(おほね)
根白の白腕(しろただむき) 枕かずけばこそ 知らずと
も言わめ

この歌は皇后に向けて詠んだもの。「淤富泥」が大根を
指す。「木の鍬で育てた大根のように白いあなたの腕を
枕にしたことがなければ、知らないと言うだろう」と歌
っている。昔は「大根」を身体のよい喩えに使っていた
ようだ。仁徳天皇が在位していたとされる4世紀、すで
に木鍬で大根が育てられていたこともうかがえる。

【脚注及びリンク】
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  1. 食べ物の「こく」を科学するその現状と展望  西
    村敏英、江草愛、化学と生物、2016.vol.51,No.2,
    PP.102-108 
  2. 物を科学する 世界に誇るマイクロバイオームフ
    ード, Anti-Aging Food Association 2016.08.23
  3. フローラ健康通信 - NHKでも放送された、今話題
    の腸内フローラ!毎日のスッキリと快適生活を維
    持する方法とは 2019.03.07 
     
  4. 近江つけもの 山上 公式ホームページ 
  5. 江戸時代は100種以上、日本人と大根の根深き関係
    食の安全、JBpress
     
  6. 方領大根  Wikipedia 
  7. 滋賀県出身の人物一覧        

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近江の歴史と漬物Ⅱ

2019年03月07日 | 滋賀グルメ紀

   

作成日: 2019.03..07|更新日:

くらしを彩る近江の漬け物 
❑ 背景と土壌を探る
1 近江の歴史と漬物
☈ 大陸との交易に携わった安曇氏と塩の道
亀井千歩子著「塩の民俗学」によると、筑前糟屋阿曇郷(福
岡県
を本拠地とした安曇氏は、宗像氏と並んで、海人族を従
え、大陸との交易、塩など海産物の交易にも携わっていた。
安曇氏ゆかりの土地は各地に存在し、長野の安曇野をはじめ、
近江国にも安曇郷が存在する。日本に塩泉は存在するが量的
には少ない。ほとんどの塩は海水から調達し内陸部へ運ばれ
たので、海人族が活躍し、塩の道がはりめぐらされていった。

海には接していない近江へ、塩がどのように運ばれてきたか
は興味がそそられる。近江には複数の塩のルートが存在した。
瀬戸内海でとれた塩が大阪、伏見を経由して大津に入ってき
たし、近江北部には福井から塩のルートがあり、塩津という
地名も残っている。湖東へは伊勢湾からの塩の道があった。
漬物菜は、十字花植物のアブラナ科がそのうちの大多数を占
める。

十字花植物はアクが少なく、栽培も容易でおいしい漬物とな
る。漬物になる野菜は地中海沿岸、アフリカ、西アジア、イ
ンド、中国を原産とするものが多い。野生種を改良して栽培
化された野菜の多くはシルクロードを経由して、日本にもた
らされた。カブは地中海沿岸または西アジアが原産地で、縄
文晩期に伝わったという説がある。日本はカブの種類が豊富
で、和様と洋種がある西日本は和種が多く、日本にしかない
種類もある。ダイコンは地中海沿岸または中国原産で、日本
へは南支那系のものが縄文期に伝わったとされている。

ほかに縄文期に伝来したとされる野菜にはニンニク、ラッキ
ョウ、ネギ、アサツキ、ショウガ、ニラ、ある、四~七世紀
の古墳時代には中央アジア原産のカラシナ、インド原産のマ
クワウリが伝来したとされている。ナスはインド原産で七世
紀に中国へ、八世紀に日本へ、キュウリ、シロウリ、シソ、
タカナは八世紀頃に日本へ渡ってきたとされてい今の主要な
漬物野菜のほとんどが八世紀の日本にはすでにそろっていた
ことになる。

奈良時代の長屋王(664-729)邸宅跡から発見された木簡資
料は食に関する貴重な記録になっている。野菜など食材が搬
入される時につけられていた荷札、伝票に相当するのが木簡
である。奈良時代初期の木簡資料に登場する野菜は、ナス、
ダイコン、カブラ、チシャ、ショウガ、トウガン、セリ、ジ
ュンサイ、アザミ、レンコン、ゴマ、ゴボウなどである。漬
物の形で搬入されたものも多い。滋賀の甲良町や蒲生町から
も漬物が献上されていた。その頃の日本は、すでに米から酒
や酢が醸造されていたので、漬物は塩漬けだけでなく、粕漬
けや酢漬けも存在した、醤漬け、味噌漬けもあり、漬物技術
はかなり発達していた。



平安期に書かれた延宮武には、宮中の儀式に使われた食品が
記されており、野菜の漬物や馴れずし類も多く記述されてい
る。多様な野菜が漬物にされており、食生活上の漬物の位置
づけが今以上に大きかったことが伺える。古墳時代に伝来し
たウメは、鎌倉時代には全国に普及し、江戸時代にはウメ干
しに漬けられるようになりたといわれている、江戸時代には
『本朝食鑑』など、数多くの食物関係の本が出されている。
江戸の町には漬物を扱う店も生まれ、京都や大阪にも漬物を
行商して歩く人がいた。江戸の町では白米食も盛んとなり、
糠の生産も増え、糠みそ漬けやタクアン漬けが始まった。そ
れとともに漬物は多様化し全盛期を迎える。江戸間後期に出
された『漬物塩嘉言』には漬物の詳しい作り方も記されてい
る。

明治以後、食生活の変化による潰物の行方

明治時代に入ると、米食が都市部だけではなく、全国に拡大
していく、漬物がご飯のJ番のおかずであり、生産量は伸び
ていった、明治、大正期には精米法が進み、白米で食べる習
慣が全国に
拡大していった。漬物や味噌汁だけの貧弱なおかずと白米だ
けでは、ビタミンB1の供給は追いつかず、この頃は風土病の
ように脚気がはやツタまた食塩摂取量が高すぎて、タンバク
質の足りない東北の農村部では脳卒中が多発した。戦中、戦
後にかけて食料事情が悪化すると、栄養失調は都会部を中心
に悲惨な状態になり、結核も蔓延した。

                     この項つづく

【エピソード】

    

【#野菜漬物#岩手県#がっくら漬】

岩手県紫波(しか)郡紫波町片寄

大根は、やわらか方領(ほうりょう)大根を水洗いして
鉈たか包丁でがくがくかくかく。がっくらのこうし漬は、
かいた大根ににんじんを細かく切ったものと、しその実
の塩漬を加え、塩を少し入れて甘酒またはこうじで漬け
る。日がたって水が下がらないときは、水を少し加える。
薄塩で漬けるので、少し酸味が出てくるか、それがこう
じの甘みと混ざり、とてもおいしい漬けものである。し
その香りも一段とうまみを添え、喜ばれる漬物の一つで
ある。
長くおくと色が悪くなるので、二、三日で食べら
れる分だ
けつくる。
 

甘酒に含まれるブドウ糖は、麹菌によって既に分解済と
なっているため、効率よく体内にエネルギー源を吸収で
き、その他にもアミノ酸、ビタミンB群、ミネラルなど
が含まれ、麹菌は一緒に摂った栄養の消化吸収を助けて
くれる働きがあり、胃腸にも優しく、夏バテにもってこ
いである。また、甘酒には食物繊維やオリゴ糖も含まれ
腸内の善玉菌を増やして腸内環境を整え、便秘の予防・
解消にも役立ち、麹菌は死骸となり腸内にいる善玉菌の
餌となり、免疫活動を活性化させて免疫力を高める効果
もある。さらに、甘酒は、血行と代謝をアップさせ、毛
細血管の隅々にまで身体が求める栄養素を届け、老廃物
を流してくれる。麹菌は、飲酒・喫煙・ストレスなどで
欠乏しやすい、皮膚の状態を整える働きのあるビオチン
を含み、目の下のくま、肌荒れ、しみやくすみにも効果
があると言われている。

【脚注及びリンク】
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  1. 食べ物の「こく」を科学するその現状と展望  西
    村敏英、江草愛、化学と生物、2016.vol.51,No.2,
    PP.102-108 
  2. 物を科学する 世界に誇るマイクロバイオームフ
    ード, Anti-Aging Food Association 2016.08.23
  3. フローラ健康通信 - NHKでも放送された、今話題
    の腸内フローラ!毎日のスッキリと快適生活を維
    持する方法とは 2019.03.07 
     
  4. 滋賀県出身の人物一覧       

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近江の歴史と漬物Ⅰ

2019年03月05日 | 滋賀グルメ紀

   

作成日: 2019.03..05|更新日:

 

くらしを彩る近江の漬け物 
❑ 背景と土壌を探る
1 近江の歴史と漬物
☈ 植物・デンプン食に、塩は必需品
日本に残っている記録ではせいぜい七世紀くらいまでしか
さかのぽれないが、漬物がそれ以前から存在したことは確
かである。食塩は体液の成分として、からだに必要なもの
である。とりわけ食生活が植物やデンプン質のものにかた
よっている民族は塩の需要量が高い。日本は伝統的に獣肉
食の比率が低く、食塩摂取量は西欧諸国に比べると高い。



縄文時代の日本では、シカやイノシシ、ウサギ、魚、貝な
ども摂取したが、雑穀やサトイモなども多く食べていたの
で、食塩は必需品であった。縄文時代の藻塩を使った製塩
土器も確認されている。漬物が縄文期にあったかどうかに
ついては確証がないが、自然に生えている野草や山菜を漬
けた可能性は高い。栽培化された野菜を漬けることは弥生
時代を待た
なくてはならないが、塩があれば野山の脂を漬
けることを自然に
思いついたであろう。



青森の縄文期の三内丸山遺跡では漬物をつ
けたらしい容器
があり、漬物が存在したと考えてもよさそうであ
る。野山
の幸と塩と壷などの容器さえあれば漬物はできる。一二内

丸山遺跡では土器だけでなく、漆器も存在し、高度な技術
を持っ
ていた。種実のアク抜きや酒作りもやられており、
食品加工につ
いてもかなりの技術を持っていたと考えられ
る、また当時、他地
域との交易もなされており、塩などの
物資が沿岸部から内陸部へ
運ばれていた可能性は高い。



弥生時代には水稲栽培が日本国内に急速に普及していった.
人の移動や稲作技術とともに、いくつかの栽培化された野
菜も入ってきた可能性は高い。漬物に適しか野菜が漬物技
術とともに、大陸から渡来してきた可能性もある。東アジ
アの照葉樹林え化圈には野菜の漬物や馴れずしなど乳酸菌
を利用した発酵食品が多く確認されている。日本での稲作
の普及とともに、デンブン質比宰は高くなり、ますます塩
の需要談は増していった。製塩技術は発展し、広域に塩の
道が仲びていった。渡来した野菜も加えて、漬物の種類は
増えていった。縄。文時代の山野草の漬物と弥生時代の栽
培野菜の漬物は、混ざりあいながら日本独特の漬物文化へ
と進化していったと推察できる。



母の漬けた大根の古漬けは塩味と糠発効の匂いと酸味が家
庭固有の独特の食感が見た目と異なり、「こく」や奥深さ
は忘れられずにいたが、これは彼女の古漬けが世界一とい
うわけでないが、少ない食歴ので一番というだけの話しだ
が、それに触発されこの地域でしか味会うことのできない
食品を開発したいと思い立ち、「漬け物」(古漬け)×「
近江」+「唯無二」の創作研究を始めることに。まさに、
忙中に華を求めるがごととなったき変な行動をすることと
なる。

                   この項つづく


【エピソード】

    



● AI搭載ロボ キャベツ自動収穫

機械学習である『計算(computation)』という概念と『
コンピュータ(computer)』という道具を用いて『知能』
を研究する計算機科学(computer science)の一分野は、
個人的には、1980年からなり、エキスパートシステム、
ファジィ制御、ニューラルネットワークあるいは、事例
ベース推論などで、現代制御理論とともに製造ラインの
自動制御開発だから40年近く経過している。

3月4日、彦根市日夏町で深尾隆則立命館大教授らの研
究グループは、収穫時の人手不足を解消してコストを削
減し、経営規模の拡大につなげる目的で、人工知能を搭
載したロボットで露地栽培のキャベツを自動収穫する試
験を行っている(滋賀)AI搭載ロボ、キャベツ自動収
穫 彦根で実験:朝日新聞デジタル、2019.03.05)。こ
の日の実験場はフクハラファームが所有する約90アー
ルの畑。土壌の湿度が高く、約30センチの高い畝がな
いとキャベツが育たない。自動収穫機には厳しい環境だ
が、ステアリングと刈り取り部を細かく操作して、要領
よくキャベツを収穫。


プロジェクトは新規導入コストを1台1900万円、維
持コストを年10万~30万円と見込んでいる。人が収
穫機を操縦して収穫すると5、6人必要な作業が、自動
収穫機では1、2人で賄える。
20年度までにコンテナ
の搬出と運搬、集荷の自動化も目指し、この日も無人運
搬機をAI制御で収穫機にドッキングし、キャベツを積
んだコンテナに積み替える実験を実施している。
 

【脚注及びリンク】
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  1. 食べ物の「こく」を科学するその現状と展望  西
    村敏英、江草愛、化学と生物、2016.vol.51,No.2,
    PP.102-108 
  2. 漬物を科学する 世界に誇るマイクロバイオームフ
    ード, Anti-Aging Food Association 2016.08.23
  3. NHKスペシャル 被曝の森2018 見えてきた“汚
    染循環” 赤かぶ 2018.02.25 
  4. 滋賀県出身の人物一覧 Wikipedia       

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ラ・コリーナ近江八幡

2015年01月05日 | 滋賀グルメ紀

 

 

 

19日に「ラ・コリーナ近江八幡」がオープンする。ラ・
コリーナ近江八幡は、自然を愛し、自然に学び、人々が集
う繋がりの場として、
八幡山から連なる丘に、緑深い森を
夢み、自ら木を植え、ホタル舞う小川を作り、生き物たち
が元気に生きづく田畑を耕す。
このような環境の中に、和・
洋菓子のメインショップをはじめ、たねや農藝、本社、飲
食店、マルシェ、専門ショップ、パンショップなど、ゆっ
たりとした自然の流れに寄り添いながら、長い年月をかけ
て手がける壮大な構想の本で建設されこのほどめでたくオ
ープンする。

 

元は江戸時代に材木商を生業とした家系で、のち近江
国蒲生郡八幡池田町で、穀物類・根菜類の種子を商う
「種屋」を創業した。1872年(明治5年)、7代目山本
久吉が京都の和菓子店「亀末」で修行を積み、栗饅頭
と最中を製造販売する和菓子店に商売替えし、屋号を
「種屋末廣」とした(のち「種屋」に改称)。1921年
(大正10年)、東京「塩瀬総本家」で修行を積み宮内
省大膳寮に2年奉職していた8代目山本脩次が種屋2代
目を継承。物資不足の太平洋戦争直後には栗饅頭が人
気を博し、たねやの基本づくりとなった。 

クラブハリエ日牟禮カフェ明治末期から昭和初期にか
けて、種屋の近所にはアメリカ人実業家のウィリアム・
メレル・ヴォーリズが住んでいた(池田町洋館街)。
ヴォーリズの勧めで脩次は1951年(昭和26年)10月に
洋菓子の製造を開始し、これがのちのクラブハリエの
基となった。

1958年(昭和33年)8月に種屋は有限会社「たねや菓舗
に改組し、脩次が代表取締役社長に就任した。脩次は
1966年(昭和41年)9月に死去し、長男の傳一が有限会
社たねやの社長に就任。その後、1967年(昭和42年)
2月の近江八幡駅前への出店を皮切りに、1972年(昭
和47年)8月に株式会社「たねや」を設立、次男の徳次
が社長に就任。1976年(昭和51年)6月に大津西武に
百貨店初進出、1984年(昭和59年)には東京営業所(
現・東京支店)を開設して日本橋三越本店と銀座三越
に県外初進出を果たすなど、滋賀県を代表する菓子メ
ーカーに成長する。

1979年(昭和54年)7月の洋菓子部門株式会社「ボン・
ハリエ」(1995年4月にクラブハリエに改称)設立以降
、グループ会社化が進み、2006年(平成18年)にはグ
ループ本部を近江八幡市から愛荘町に移転。

 

【エピソード】

●  樹冠都市構想

樹冠都市構想という、まちづくり未来図があるという。
動植物の生態・構造を模倣した未来都市という。バイオミ
ミクリーとは生物摸倣とも表し、勤植物の生態や構造を分
析し模倣することで、よりサステナブルな新しい技術を生
み出すこころみだと。そのバイオミミクリーの技術を駆使
した未来の都市の構想、それが「樹冠都市」なのだ。この未
来都市は、緑に覆われている。自然を征服するべき対象と
見るのではなく、人と他の種が同じ価値を持つというディ
ープ・エコロジーの考え方も反映させ、都市と森林が融合
している。

人々が居住するのは、高さ二百メートル、地上63階の超高
層住宅。アスパラガスにも見えるこの住宅の建
築材には、
鉄筋コンクリートの数倍の強度を持つアワビの殻から生ま
れた新素材が使
われ、この住居は、地上から七階までが吹
き抜けになっている。これは、アフリカのサバンナに生息
する白
蟻の巣の構造を模したものだという。この白蟻の巣
は土の上に盛り上がった巨大な塚のようになっている
のだ
が、内部は吹き抜けで、地下の湿った冷気を利用した気化
熱で叫の中の温度を調整している。

その結結果、昼間50℃にも達し、夜はゼロ℃になる過酷な
環境ににありながら、巣の中は30℃
前後に保たれる。さら
に、チムニー効果と土の通気性で、巣の中は常に空気が循
環している。アス
パラガス住居は、この構造を取り入れて
電気のいらない空調換気システムを実現。
また、年間を通
して安定した温度に保たれている地表に近い地下にチュー
ブを通し、森と住居を繋ぐこと
で、夏は涼しく、冬は暖か
い空気を住居に送り込んでいる。

この住居の1フロアの住民数は約50人。フロアの各地に
井戸
端スペースが設けられていて、住民同士の交流の場に
なってい
る。樹冠都市では、人間活動による環境負荷を減
らすために
人間が占有する地表面積をなるべく小さくなる
よう設計されて
いて、例えば単身者用の小住宅は2メート
ル四方と小ぶりなつ
くりだが、その分、井戸端スペースに
人が集まる。シェアハウス
のようなイメージだ。藤森照信
工学院大学教授によるこのような記事を読んでいたら、映
画「スターウォーズ エピソード1/ファントム・メナス
」やジョージルーカスを思いだし、本棚にあった「スター
ウォーズ エピソード1/ファント
ム・メナス」(ソニー
マガジンズ)を取りページをめくりながら、チ
ューイング
ガムを噛むように、“柔軟で自由な発想時代”を懐か
し思
い出していた。

                 「スターウォーズ巡礼の明日」より

【脚注及びリンク】
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1.ポスト・城郭都市巡礼の明日 2014.09.03 極東極楽

2.スターウォーズ巡礼の明日  2013.05.10 極東極楽
3.城郭都市巡礼の明日         2013.06.12 極東極楽
4. 藤森照信 Wikipedia etc 
5. ラ・コリーナ近江八幡 | たねや公式ホームページ   
6. たねや Wikipedia
7. 森里海連環学とは
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