小谷城は、東浅井郡湖北町伊部にある戦国時代の山城
である。日本五大山城の一つに数えられる名城である。
現在は国指定史跡として保存されている。城の築城に関
してはは不明な点が多い。『浅井三代記』によると、水
正十三年(1516)十月に完成したという記事がある
が定かではない。大永三年(1523)に、浅井亮歎が
当時の北近江の守護であり湖北一帯を支配していた京極
高浩の家督争いに乗じて京極氏の重臣上坂信光を失脚さ
せ、替わって江北支配を手に入れたことからその勢力は
大きく飛躍した。大水四年(1524)には、浅井亮歎
が小谷城京極丸で京極高浩を饗応していることから、少
なくともこの頃に築城されたと考えてよいであろう。
その後、浅井氏は亮政・久歎・長歎と続く三代で盤石
な組織のもと、京極氏に取って代わり戦国大名へとのし
上がっていった,城はその過程で、随時、拡張されされ
ていったと考えられている。
京極氏・浅井氏・六角氏が支配するこれら強固な近江
の地は、尾張と美濃を支配し京上洛を果たそうとしてい
た織田信長にとっては避けて通れない地域であった。こ
の一角を崩すため、永禄十年(1567)頃、信長は知
略聡明で美男子と評判であった浅井長政に目をつけ、信
長の妹お市を妻に娶らせることにより兄弟の契りを結ぶ
こととした。しかし、父・祖父の代から絆の深かった越
前朝倉氏との同盟関係はそれよりも堅い絆であった,信
長が元亀元年(1570)に越前の朝倉義景を攻めた際
に浅井氏はついに信長に反旗を翻す。姉川合戦に破れた
浅井・朝倉軍は敗走し、その後、横山城を拠点とする織
田軍とにらみ合いが続いたが、ついに天正元年(157
3)小谷城は、羽柴秀吉軍を筆頭とする織田軍に総攻撃
され、浅井氏三代は自害し果て滅亡した。
浅井氏滅亡後、この地は功のあった秀吉に与えられた。
秀吉は、その後今浜の地に長浜城を新造するが、それま
での間は小谷城を居城としている。彦根城の西の丸三重
櫓は、長浜城へ移築された小谷城の天守と云われている。
城は、小谷山の幾重にも重なる尾根筋の1つを利用し、
雨北に縦に長い形として見ることが出来る。尾根筋を深
さ5~10メートルほどの堀切で区切り、出丸から金吾
丸、番所、御茶屋、御馬屋、桜の馬場、大広間、本丸と
続き、その奥の中丸との曲輪で南北に分けている。そこ
からさらに亮政が京極氏を幽閉していた場所といわれる
京極丸、小丸、山王丸と続いていく。大獄へは山王丸か
ら谷筋を下り、さらに百メートルほど高いところにある。
築城当時亮政の代には、現在の本丸跡よりも、さらに北
の頂に築かれた大獄に本丸があったと考えられている。
最終的な城の形は、その後の久政、長政による代々の
拡張が重ねられ結果、現在のような構造になったと思わ
れる。城に登ると、多くの曲輪によって城が構成されて
いることがわかるであろう。眼下の谷筋である清水谷が
山下町で、家臣団の屋敷や町やがあったと考えられてい
る。また、尾根の斜面には魚の鱗状に小さな曲輪や滑り
台のように長い竪堀が幾重にも掘られており、防御制を
高めている。特に、曲輪には石灰岩の石積みが多く用い
られており、安土城に先行する高い近江の技術を先進的
に取り入れた城作りを見ることも出来るであろう。
(木戸雅寿)
【エピソード】
2017年03月末をめざし北陸自動車道の長浜市湖北町山脇
に、高速道路の利便性の向上、観光振興、産業振興、救
急・医療体制の強化、災害時の避難経路の確保の5つの
目的をもって、小谷城スマートICが連結される予定に
ある(上図、クリック)。ここを起点とした"戦国浪漫
琵琶湖一周の旅"(1泊2日~2泊3日規模の歴史ツア
ー)などが計画できそうだし、戦国時代だけじゃなくて
"日本史浪漫の里山ツアー”(白州正子の愛した近江ツ
アー)も考えられ、これは面白い。
【脚注及びリンク】
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1.小谷城戦国歴史資料館
2.小谷城の戦い、Wikipedia
3.小谷城 、Wikipedia
4.小谷城跡、滋賀県
5.小谷城址|小谷城郷土館ホームページ
6.江(ごう)~姫たちの戦国~(1)
7.白州正子の愛した近江
8.和泉事典シリーズ27 戦国軍記事典 - 天下統一篇
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