地域循環共生圏概論Ⅷ

2020年03月15日 | デジタル高宮町史


作成日:2020.03.25|更新日:


【地域循環共生圏概論Ⅷ】

☈ 今回は「燃料利用に不向きな竹を使える、コンテナで運べ
るバイオマス温水ボイラー」及び「籾殻太陽電池」に関する「
">地域循環共生型事業例として考えてみる。
テス・エンジニアリング、巴商会エム・アイ・エスは、3社
共同開発製品の竹チップ混焼バイオマス温水ボイラー「E-NE(
イーネ)シリーズ」を販売。バイオマス燃料に不向きとされて
いる竹を燃料として利活用できるバイオマスボイラー(価格は
税別4000万円)。竹はカリウムを多量に含んでおり、灰の軟化
温度が680~900度と低く、大型のボイラーで燃焼させると炉内
に「クリンカ」という溶岩を生成する特性がある。さらに塩素
濃度も高いため耐火物や伝熱管を腐食させやすい。そのため、
国内では豊富な資源であるものの、一般にはバイオマス発電な
どの燃料としては不向きとされる。E-NEシリーズはバーナーの
回転と燃焼制御技術、クリンカの自動排出機能などを搭載する
ことで、竹の燃焼を可能にした。竹チップのみでの燃焼も可能
だが、基本的には竹チップと木質チップの混焼(5対5)での利
用を想定。この場合、60~75℃の温水が供給でき、燃料消費量
は78.2kg/hとしている。混焼での利用する場合は、15年の製品
保証も付帯する。システムはサイロや供給機などを格納したも
のと、バーナーやボイラーなどを格納した2つのコンテナで構
成。このようにコンテナを利用したパッケージ収納型とするこ
とで、機械室等の建築工事を不要とし、基礎工事のみで導入で
きるため、コスト面でも有利だという。コンテナ格納時の外形
寸法は2440×3710×1万2120mm、システムのみの場合は1810×
2300×5940mm、重量は5375kg。3社では年間10台程度の販売を
目指す。


■「竹害」を引き起こす「竹」をエネルギーとして利活用
現在、竹の需要は年々低下し、適切な管理が行われないことで
放置竹林」が増加している。増殖した竹は、他の植物の成長
を妨げ、森林の生態系を乱し、また、竹の根は横に広がり深く
は伸びないことから、豪雨などの災害時、土砂崩れを引き起こ
しやすいといわれており、日本各地で「竹害」の深刻化が問題
視されている。竹林は定期的に伐採を行うなど、適切な管理を
行っていくことが必要だが、竹を有効利用するためには課題が
多く、経済活動にも繋がりにくいため、十分に有効利用されて
いないのが現状である。このようなことから、竹をエネルギー
として有効利用できないかと考え、3社で共同開発、この竹チ
ップ混焼バイオマス温水ボイラ「E-NEシリーズ」です。竹を燃
料として利活用することで、放置竹林に悩んでいる地域を中心
にバイオマス熱利用を促し、エネルギー自給率の向上および再
生可能エネルギーの普及を促進していくことで、持続可能な社
会の実現に貢献していきたいと考える。




✔ 竹害 Wikipedia 近世に移入された外来植物である孟宗
竹は1950代頃までは木材や筍を得るために管理された竹林に
て栽培されていた。竹林の周囲は深さ1メートル程度の空堀を
掘り巡らすなどの対策がなされていた。しかし輸入品の筍が
出回って筍栽培が経済的に成立しなくなり、竹材の需要も減
少すると、各地の竹林は管理されなくなった。元来繁殖力が
異常に強い樹種である孟宗竹は、これによって竹林の周囲に
無秩序に進出し、既存の植生を破壊していった。
孟宗竹が進出するとアカマツクヌギコナラなどかつて里
山で優勢であった樹種が置換され、生態系が単純化してしま
うことや孟宗竹は土壌保持力が低いため崖崩れが起きやすく
なるなど、各種の害が発生することが現在問題視されている。
また、他の樹種が侵入し辛いスギヒノキ人工林にも
容易に侵入する。樹高が竹の背丈より低い場合はほぼ
全てのスギが枯死する。竹よりも遥かに樹高の高いス
ギ・ヒノキ林でも水吸収の競争に起因する枯死が報告
されている。




✔対策:12月から翌年2月までの間に1mほどの高さで
竹を切る。真竹などの細めの竹なら一年後には根元から
抜ける。太くて肉厚な孟宗竹だと抜けるまでに1~2年か
かることがある。また、放置竹林を産業利用する試みが
各地でなされており、その一つにメンマづくりがある。
筍としての収穫時期を逸した幼竹を使用でき、筍よりも
収穫が容易であるため、産業利用を通じた竹林整備が期
待もある。

✔純国産メンマプロジェクト:幼竹から作ったメンマを
販売し、竹林管理の費用に充てる活動が全国に広がるよ
う取り組む。国内で流通するメンマは、ほとんどが中国
や台湾からの輸入品。同プロジェクトによると、国産は
加工方法の違いから歯応えや匂いが良いと好評だ。輸入
品に比べ割高、今後はレシピを標準化して生産量を増や
し外販する(荒れる竹林、メンマで解決=「おいしい」
と評判-売り上げは伐採費用に:時事ドットコム,2019.
5.7)。
✔ 竹のカリウムで全固体型カリウムイオン電池・籾
でシリコン系太陽電池を!
唐突ではあるが、「再エネ100%事業」を描けないことは
ない。


オールバイオマス事業篇:イネの「もみ殻」で発電
ヤンマーが国内初の発電システムの実証を開始

11月14日、ヤンマーエネルギーシステムは、稲作農業で
発生するもみ殻を活用し、熱と電気を供給する「もみ殻ガス
化発電システムの実証を開始したとことを公表。もみ殻に特
化した年間約200万トン発生>している。しかし、その処
理方法として行われていた野焼きは禁止されており、一部は
たい肥に利用されているものの、その多くは費用を掛けて処
分しなくてはならないという。そこで、ヤンマーエネルギー
システムはこのもみ殻を燃料として有効利用できる発電シス
テムの開発に取り組んできた。開発した発電システムは、ま
ずもみ殻を燃焼してガス化し、このガスを燃料として発電す
る。さらに、燃焼時に発生する熱も利用できるようにした。
通常、もみ殻は適切な処理を行わずに燃焼すると、結晶質シ
リカという有害物質が発生する。ヤンマーエネルギーシステ
ムが開発した発電システムでは、特許技術により有害物質を
発生させずに処理できるのが特徴。小型ガス化発電システム
は国内初。稲作農業でもみより時に発生するもみ殻は、国内
で完全無農薬有機栽培米。




フクハラファームでは、毎年およそ200トン発生するもみ殻を
処理している。本システムを導入することで、農場規模拡大
に伴うもみ殻処理問題を解決し、発電した電力の自家消費に
よる省エネ効果も期待されています。また、もみ殻の燃焼後
に残る「くん炭」も農地に還元することができるため、エネ
ルギーの地産地消に加え、有害物質を発生しないトリジェネ
レーションシステムとして資源循環型農業にも貢献する。
✔設置先:有限会社フクハラファーム 
https://fukuharafam.co.jp/
❦設置日:2019年8月28日
❦発電量:15kW (年間75,000kWhを計画)


特許技術を採用したガス化炉                     
                   この項つづく
【エピソード】



【脚注及びリンク】
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  1. 選挙ドットコム滋賀県土木防災情報システム
  2. 東近江市版SIB事業滋賀県東近江市のコミュニ
    ティビジネス 若者支援事業への「社会的投資」募
    集開始! 関西SDGsプラットフォーム,2019.07.05
  3. シャープ凋落への岐路は、あの戦略転換だった、
    日経BizGate、2016.06.08
  4. 一期一会の「いちご」 いちご笠岡岩野池ECO発電所
  5. いちごECOエナジー株式会社「負の遺産」から愛さ
    れる発電所へ環境ビジネス 2020年冬季号
  6. 『ESG地域金融』で地域を元気にする環>境ビジネ
    ス日本人を直撃する「人口急減」する未来、東洋経
    済、
    2019.10.27
  7. 賀県に根づく『三方よし』の経営を実現, 環境
    ビジネス,2020年冬季
  8. 2070年平均気温が4℃上昇した世界 ごくとう
    ごくらく 2019.12.09
  9. 「よくもそんなことを」グレタ・トゥンベリ
  10. 気候変動が生む、新たな「アパルトヘイト」,GNV
    ,2019.12.15
  11. ほぼ日刊イトイ新聞 - 親鸞、2007.10.12
  12. 滋賀県出身人物物一覧 Wikipedia

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高宮宿の本陣・脇本陣

2015年11月20日 | デジタル高宮町史





 

● 高宮宿の本陣・脇本陣 

慶長八年(1603)、徳川家康は、征夷大将軍になり
江戸に幕府がつくられ政治の中心となると、最も人切な
五街道を決めました。その中に、京と江戸を結ぶ東海道
と中山道が選ばれました。この中山道は、東海道と北陸
道の三つの道の中間の山道を意味する。

高宮が宿場町として再生するのは、江戸時代当初からの
ことです。江戸時代に入ると、幕府は宿駅制度の整備を
始めるが慶長七年(1602)、その基本となる伝馬継
所に高宮が定められる。高宮は中山道六十七次の一宿で
江戸から六十四番目。その宿駅を設けて、隔年に出仕す
る人名.行の宿泊のための宿場と、幕府の命令を各地に
伝えるための駅として成立させた。

街道には南北ともに、石で囲まれた宿駅の見付けに常夜
燈のついた恐龍と旅の安令を見守る地蔵等があって、そ
れらは大変政派なものだった。天保十四年(1843)
の高宮宿の石高は、29213石6斗2升で、美濃の鵜
沼宿(現岐阜県各務原市)に次いで高く、ま
た当時の人
口も3560人と武蔵の本庄宿(現埼
玉県本庄心)に続く
第二の大きな宿場だった。

※駅:律令制で、公用の旅行や通信のために駅馬・  駅
  船・
人夫を常備しているところ。 


宿場は幕府の道中奉行の配下にあって、人馬の継立、旅
宿飛脚、街道の維持管理などの宿場業務を行う。それら
の業務を統括したのが問屋であり、これを補佐する年寄,,,
人馬継立の実務にあたる馬指・帳付などがいた。宿場に
は、旅宿のための本陣・脇本陣・旅版屋・茶屋等の施設
が設けられている。この本陣・脇本陣は、大名、勅使・
公家・旗本などの公的旅行者が休泊する施設であって、
一般の旅行者は旅版屋に泊まり、茶屋で休息をとったも
の。脇本陣の前には街道に沿って、幕府の命令を伝える
高さも幅とも一丈(約三メートル)を越える高札が立ち、
村役人が控えていた。

※道中奉行:江戸幕府の職名。大目付・勘定奉行の兼務。
 諸、
国街道・宿駅の取締り、道路・橋梁などの修復、
 宿場の公事訴訟の吟味などをつかさどる。



 この人たちは旅人の注文により、人や荷物を運ぶ人足
二十五人と馬二十五頭用意して、割り当てたりして、一
日中忙しく活気があった
。高宮宿には本陣一軒と脇本陣
が二軒あった。宿絵図を見ると、圓照寺の中山道をへだ
てた東側に本陣があり、三軒とも宿場の南に偏して設け
られていることが分かる。
 この高宮宿本陣の表門は現存している。本陣について
もう少し見てみよう。享和四年(1804)に描かれた
絵図が残されている。これによりると、敷地の間口は十
五間四尺(約29メートル)、奥行は二十八間(約51
メートル23坪(約406平方メートル)が建坪であっ
た。

 

 建物は中山道に面して、表向の格式をもつ門構えの表
門と奥
向の人口があり、表門を入ると白砂の敷き均され
た庭を経て
玄関・広間、書院遣いの上段の間へと直線上
に表向の各部屋
が配されていた。
 いっぽう奥向は、入口から通り庭を挟んで勝手・だい
どこ(台所)・料理の間、陪臣の
部屋が並んでいた。
 脇本陣は、さきに見た本陣の六軒南と、中山道を挟んだ二
軒北にあり、ともに本陣を補助する施設であった。
 建物の規模は、71坪(約235平方メートル)と74坪(約24
5平方メートル)と本陣に比べ小さいが、本陣と略同様の建物
構成を形成している。北の脇本陣は、享和四年の絵図による
と、門の横には、高さ一丈三尺(約4メートル)、幅一
丈三尺
五寸の高札場が設けられていた。
 この脇本陣宅は、慶長十三年(1608)以来明治維新を迎
えるまで脇本陣と問屋を兼ねていた。
 江戸期の終わり頃になりますと、旅龍も二十三を数え、その
大きいところでは二十余りの部屋があった。
 宿場から宿場間の街道――縄手――には、旅人に夏に
は暑さから、冬には寒風や降雪から守
るため桧並木が両
側に土手を追って植栽されていた。また、旅人の目安に
するため、街道一里(約3・9メートル)ごとに土を盛
って、その上に松や榎を植えた一里塚をつくった。

※書院造り:室町末期から起り江戸初期に完成した住宅
 建築の様式。和風住宅として、現在まで影響を及ぼし
 ている。接客空間が独立し、立派につくる。主座敷を
 上段とし、床・棚・付書院・帳合構を設ける。
 角柱で、畳を敷きつめ柱間には明かり障子・襖を、外
 周りには雨戸を用いる。

※一里塚:街道の両側に一里(約4キロメートルごとに
 土を盛り、里程の目標とした塚。多く榎・桧を植えた。

※[高宮宿本陣・脇本陣 彦根市高宮町331・074
 9(22)3
501 彦根市高宮町地域公民館」


● 高宮の「むちんばし」


 江戸時代の初期の頃は、東海道や中山道は一応整備さ
れたが、大きな川の
その多くには橋はなかった。川に水
がない時には浅瀬を捜し求めて歩いて、足元に
注意を払
って、そろそろと渡った。

 降雨により出水すると人足の助けを借りて、おんぶを
して貰ったり、井桁に組まれた
胡坐を散人の人足の肩を
がり渡った。

 大水のときは、川止めといって渡ることはできない。
このことは、徳川幕府や
彦根藩の役人も同じで、急な用
事で川を渡るときは、大勢の人足を集めなければならな
。時には、夜などでは人足を集めることができないこ
とがあり、役人も宿場の
人たちも大変難儀となる。
 ときは明和四年(1767)のこと。中山道高宮宿の
人たちは、高宮川(大上川)
に仮りの橋を架けることを
奉行に願い出た。この計画は、中山道よりは少し下流に
人も馬も、ともに渡ることのできる丈夫な板で仮橋を造
る。これは出水時のみのこと
にして、普段は片付けてお
くというものだった。


井桁:ものを組むとき、「井」 の字の形にする、その形。
※奉行:上命を奉じて公事・行事を執行すること。ま
  その担当者。


 そのころの本橋は大水の時には、よく流されたりした
ので、そ
の水の減水したときを見払らって歩いて渡らな
ければならかった

 こうした不使さをなくするために、彦根藩は領地の金
持ちなど多
くの人の募金を得て、丈夫な橋を架けるよう
命じた。この橋の
維持・管理などの費用も、宿場の有力
者から集めたお金が当てられ
た。
 そのお蔭で、旅人はお金を払わずに橋を渡ることがで
きた。

 橋は旅人に「むちんばし(無賃橋)と呼ばれ、大変親
しまれ、ま
た喜ばれた。
 高宮橋の袂に建っている「むちんはし」の標石は、天
保三年(2832
) の橋のできた頃に建てられたもの。
 この木造の橋は何度も大水で流されている

 "中山道はじまって以来の盛事で、街中が一日じゆう明
るくなった・・・。"島崎藤村は「夜明け前」のなかで、そ
の日の宿場のことを書いている。

※公卿:公(太政大臣および左・右大臣)と郷(太・中
 納言、参議および三位以上の朝官)との併称。
※殿上人:清涼殿の「殿上の間」(清涼殿の南廂にあっ
 て、殿上人の昇殿を許された所) へ昇殿を許された
 人。四位・五位以上の一部および六位の蔵人が許され
 ました。
※朝廷:君主が政治をとりおこなうところ。

 これは、文久元年(1861)のこと皇女和宮が徳川
将軍家茂とのご成婚のため、都の公卿・殿上人をした
がえ、それを護衛する何千人という武士またお通りの周
りの村むらから集めた人足数千人、馬数百頭の大行列で
あった。
 これは、文久元年(1861)のこと皇女和宮が徳川
将軍家茂とのご成婚のため、都の公卿・殿上人をした
がえ、それを護衛する何千人という武士またお通りの周
りの村むらから集めた人足数千人、馬数百頭の大行列の
江戸末期のことです。京都の朝廷と江戸の徳川幕府の対
立を和らげるため、前後六回にわたり京の都の姫君と幕
府の将軍との間にご成婚が行われる。それらは、すべて
中山道を通り、都から江戸へとお下りになっている。
 相宿のご一行は、結果においては最終を飾るに相応し
い盛大な大行列だった。この和宮一行が京都を出発され
たのは文久元年(1861)10月20日のことで、高
宮宿を通過されたのは、同月23日のお昼前のことで、
小休止をとっている。
 和宮一行のため高宮川(大上川)に架けられたこの橋
の図が残っている。この図の右下に"和宮様が江戸へお
下りの時の高宮川の御馳走橋を書きおく者です"との意
味のことばが記入されている。
 この「御馳走」とありますのは、それこそ立派な料理
だけを指す言葉ではない。
 ここでは、高貴の方を歓迎申し上げるときにこの表現
をしたものと解する。
 この御馳走橋も残念なことに僅か十年ほどしか続かな
かった。
 ところで、この木造の橋は、何度となく大水で流され
和宮が江戸へ向かう時などには、さきに話しのように新
しく架け替えたりしながら高宮の人たちは力を合わせて
橋を守ったので無料で渡ることができた。

【エピソード】



 

【脚注及びリンク】
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  1. 中山道 高宮宿場町|彦根市
  2. 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿 
  3. 中山道 高宮宿 彦根観光協会
  4. 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
  5. 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
  6. 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
  7. 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
  8. 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
    中山道 2004.4.9
  9. 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
    つり・高宮布
  10. 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
  11. 中山道高宮宿 馬場憲山宿
  12. 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
  13. 新高宮町史 自費出版デジタル
  14. 「城と湖のまち彦根-歴史と伝統、そして-」中島一
    サンライズ印刷出版図  2002.9.20

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高宮と宿場町 5

2015年07月30日 | デジタル高宮町史

旅籠(はたご)

旅籠は 本陣、問屋とともに宿場を形成る重要な施設。
本陣・問屋がいわば公的な施設であり、旅籠は庶民の
ための休泊施設。東海道の大きい旅籠は、書院造りの
上段の間にある脇本陣クラスの立派なものもあったが、
中山道ではそれより小さいものであったとされるが、
それでも大中小にクラス分けされていた。

大旅籠 間口6間以下(8~10間)
中旅籠 間口4間(5~7間)
小旅籠 間口3間(同左)

※( )ないは東海道。



標準的な旅能の問口を基礎とした分類で『中山道宿村
大概帳』では大中小の区別
をして旅籠の数を記載して
いる,それによると高宮宿は大旅籠七軒、中旅籠10
軒、小旅籠6軒と記されている。

実際に残されている旅能の間取図で間口などを調べて
みるものの、前記の区分がどの旅胞を指しているのか
不明であり、間口だけではなく、総合的な区分でなさ
れたと考えられる。

この間取り図には間口の書いてあるものが少ないく、
旅籠の数では何枚かの残っている宿絵図などの中で最
も多い。同年代の宿絵図では旅籠の位置を明らかには
されていなが、旅籠の主な名前でその位置は全て確認
されている。いずれの旅籠も中山道沿いにあって「桔
梗屋」から「」四つ目屋」までの四軒は街道の東側に、
他の七軒は西側にあった。東側に多い現象はだんだん
顕著になる。

50年ほどの間に旅籠の数はかなり減ってきているこ
とが分るとされる。「兜屋」以下の四軒だけか街道の
西側にあって他の旅籠はは東側にあった,

旅籠はおおむね三段階、大中小に区別されていた、東
海道の旅籠に比べると中山道のそれは狭小である。大
旅籠でも間口六間、中旅飢で四間のものが多く,小旅
籠でも三巻以下というのが標準であった。天保14年
(1843)の大概帳では「大七、中十、小八」と記
載されているか、時代のずれがあるとはいえこの標準
では区別することはできず、これらは「平旅籠」と呼
ばれた範疇に入るものと思われるが、高宮宿での休泊
は定かでない。東海道筋の天明時代(1781~17
88)の大旅籠が.一泊二食で一貫二百文から、一貫
五、六百文、小旅籠では五、六○から、百文であった
といわれているから、中山道ではこれ以下であっただ
ろうと考えられている。いずれにしても定められた料
金があったわけではなかった。

「飯盛旅籠」と呼ばれていた。泊まり客に飯盛給化を
したり遊女を抱えていた旅籠で、建物や部屋の間取り
か違うということではなかった。高宮宿にこれに該当
する旅籠があったかどうかは分らないが、宿場の施設
があまり大きくなかった高宮宿にはおそらくなかった
のではなかろうか。

旅籠と呼ばれる休泊施設のほかに、もっとも庶民的な
施設として「木賃宿」(きちんやど)というものがあ
った。これは文字通り、「木(薪)の代金を払い宿泊
する」というもので、自炊して泊めてもらったが、木
賃宿の料金は旅籠の料金と違い定められていた。




人馬継立 

人馬継立とは宿場から宿場への人や物の輸送を中継す
ことで、これを行うのが問屋(場)で、これを差配
するのが問屋役人だった。人馬継立には「御朱印」
「御証文」「御定賃銭」「雇上人
馬」などいくつかの
種類があった。

御朱印とは将軍が人馬の使用を許可しか特権の事で、
この中には「御茶壷」も入っており、その他門跡
や公
家などにも与えられていた。御朱印と指定されている
人馬は定められた数だけは無賃で馬や人足を雇
えたの
であった。ご証文は老中や所司代などが発行するご文
書のこと。


各宿場では、これらに対処するために、一定数の馬、
人足を準備することが義務づけられていた。宿場が

きた当初はわからないが、寛文5年(1665)『江
州犬上郡高宮宿町明細書』では伝馬役25疋、歩行役
25人。元禄2年(1685)の『御条目之写』では、
幕府道中奉行の助村の調査に対し、役馬25疋、人
夫180人、宿に馬が必要なときには、これらの助
の村々が補助すると報告されている。その後、中山道
の場合、各宿人夫50人、馬50疋と定められた。
『大概帳』には、

一、問
屋給米無之
一、継飛脚給米九石壱升九合年々大津陣屋より相渡、
  宿人馬役之者え割賦いたし来
一、宿
建人馬5人、50疋、但、囲人馬之無

ある。この『大概帳』は、天保14年(1843)
ものではあるが、これより200年ほどさかのぼる寛
永10年(1633)の文書には「高宮 一米九石壱
升九合 京升 右是は 御伝馬人足並びに次飛脚為御
用(以下略)」とある。長い間変更されなかったもの
の用である。

この給米の分配方法について天明5年(1785)の
『諸事覚』には、「一 大津表にて頂戴仕候御米九

壱升九合内弐石は九役壱升づつ、人数286人へ頂戴
六斗四升五合御米請取に参上仕候諸入用五拾目
と引換
て、六石三斗七升四合は宿役相勤候内へ頂戴」と詳細
に決められている。
これだけの給米で宿役の費用か賄
えかとは思もわれないし、まして二百年璵余も同じと
は考えられない。

                 この項つづく

【エピソード】

 

● 江戸時代の貨幣の現在価値

1文=18.5円(百文=1850円)
1疋=10文(銭)。1疋=10文(銭)とされた
のは犬追者に使う犬1疋(匹)の値段が10文(銭)
だったからという。

 

 ↑ 上図/上をダブルクリック

【脚注及びリンク】
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  1. 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿 
  2. 中山道 高宮宿場町|彦根市
  3. 中山道 高宮宿 彦根観光協会
  4. 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
  5. 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
  6. 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
  7. 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
  8. 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
    中山道 2004.4.9
  9. 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
    つり・高宮布
  10. 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
  11. 中山道高宮宿 馬場憲山宿
  12. 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
  13. 新高宮町史 自費出版デジタル 

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高宮と宿場町 4

2015年07月26日 | デジタル高宮町史

 

問屋場

人馬の継ぎ立てを業務とする問屋場は原則と宿一ヵ所で
一人の問屋役人が命しられていた、基本的には幕府の交
通機関として道中泰行の支配下にあり、人馬の継ぎをて
貨客の輸送に当たっていたので、多くの人でを必要とし
た,そのため人馬の常備か義務づけられていた,中山道
の各宿は、50人の人足と50頭の馬を常時準備してお
くことになっていた。後になってこれでは不足するよう
になり、百人.百頭を準備することになり、助郷の制度
か作られた。

助郷(すけごう)
 
江戸時代,幕府が諸街道の宿駅の継立てを援助、補充さ
るため,宿場周辺の農村に課した夫役。交通需要の増
大に
つれ,宿場常備の人馬 (御定人馬) では不足のため、
この
臨時の人馬徴発が行われ,助郷制度として恒常化し
た。


このように、高宮宿の問屋は北の脇本陣(塩谷治右衛門
家)
か兼務していた。交化元年(1804)の宿場絵図
では脇本陣
と並んで向かって左側に「問屋治右衛門」と
あり、円照寺の
参道までの敷地をもっていたが、天保2
年(1831)の絵図ではこの場所の辺りは三軒の家が
絶っていた。この30年足らずのうち
に何らかの理由で
独立の問屋場がなくなり、脇本陣の項でふれているが、
建物の一部を「荷物継替所」
としたものらしい。

寛文5年(1665)の文書によると問屋一人、庄屋三
人、馬指二人、組頭二人、定仕四人、年寄四人とある。

間屋は公的な要素が濃い施設であったけれども幕府から
の給米はなく、継飛脚給米として毎年九石一升
九台が大
津陣屋から渡され、宿人馬役のものへ分けりえることと
した寛永10年(1633)の文書かあ
り、天保後年の
「中山道宿列大概帳」でも同じ事か書かれている。人.
馬賃銭はこの間か
なり高くなっていることを思うと、幕
府の則政か逼迫し始めていたことをうかがわせる。

高札場

幕府や藩主など支配者の法令の周知の方法として高札場
(こうさつば)が設置きれたが、最も古いとされる高札
は天正18年(1890)の「秀吉御札」と呼ばれるも
のであるこのときから明治6年(1873)に高札廃止
の高札が掲出されるまで280年あまり続けられた。幕
府の定めた決まり、法令を五角形の板に墨書し、できる
だけ多くの人が見られるようにと、人の多く集まるとこ
ろに高札場を作りこれを掲出した。高札には恒久的なも
のの他に一時的なものや藩がだしたものなどいろいろあ
った。

高宮の高札場は問屋を兼ねていたいた脇本陣の北の脇に
あった。現在後かともないが、かなり大きなものであっ
た。記録によると高さ一丈三尺(
約4メートル)横幅も
ほぼ同じぐらいあり、奥行きが一間余(約2メートル)
とある。高札の掲出のレイアウトを摘いた図面が残って
いる。それによると七枚の高札か掲出されていた(年代
不詳)。

高札の内容・説明

「御朱印」と記して中央にあるものは最も大きく長さ七
尺七寸
{約2・3メートル)、一番高いところで、二尺
(約六〇センチ)板
の厚さも一寸五分(約5センチ)も
あるものだった。
内容は「駄賃―人足荷物の次第」で始
まる「駄賃(貫目)高札」
とおもわれるもので、最も重
要な高札であった,、


「忠孝」と呼ばれるものは、元禄15年(1702)の
赤穂浪士
の討ち入りに際しで生じた幕府の自己矛盾と民
衆の憤りに対処す
るために多くの部分が改められた。「
毒薬」と書かれているもの
は毒薬・、似せ薬の売買を禁
じ、商業経済生活.一般の基本規制を示し
、売り惜しみ
や買い占めを禁じたもので、この高札の中で偽金作り

禁止されている。「切支丹」でなく「切死丹」と書かれた
ものはもちろんキリシタン禁制の・高札である。「人
身売買」は、[忠孝」の最後の条文を抜き書きしたもの
らしく、「拾馬」は五代将軍綱吉の「生類憐令」の一環
で出されたの「近年」とあるのは天保14年に出された
「近年諸国在々浪人体の若者多く」で始まるものと思わ
れ、これは治安悪化に対処するための高札?あった。

そのほか「火付け高札」「徒党高札」「駄賃高札」など
の多数の「公儀高札」が「御高札留」の全文記載されて
いる。



                   この項つづく

                 
【エピソード】

 

人馬が往来する街道の衛生はどのように管理されていた
のだろか?現代の自動車なら、排気ガスが問題になった
だろうが、とくに、不心得なドライバーのポイ捨てや交
通事故以外は問題となるだろうが、馬糞は匂いがしない
ので、その都度廃棄すればよい。牛糞のような上質の肥
料とはならないが、稲わらを加えれば肥料としても使え
たはずだ。騒音(静粛性)といった側面からなら、内燃
機関爆発音は住民にとって酷いものだったが、馬の嘶き
は夜間以外は苦にするほどのものではなかっただろう。
このように想像力を膨らませば結構、面白い知恵がでて
きそだ。
 

【脚注及びリンク】
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  1. 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿 
  2.  中山道 高宮宿場町|彦根市
  3. 中山道 高宮宿 彦根観光協会
  4. 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
  5. 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
  6. 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
  7. 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
  8. 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
    中山道 2004.4.9
  9. 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
    つり・高宮布
  10. 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
  11. 中山道高宮宿 馬場憲山宿
  12. 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
  13. 新高宮町史 自費出版デジタル

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高宮と宿場町 3

2015年07月24日 | デジタル高宮町史

 

脇本陣

参勤交代や役人の往来が頻繁になり、本陣だけでは賄い
きれなくなってつくられたのが脇本陣である。勿論、脇
本陣の規模は本陣より小さく、一般の旅籠より一段高い
ランクの旅籠である。ここは諸大名、公用役人のほか、
幕臣・藩士が利用し、豪商など裕福な人々の利用も可能
となっていた。



脇本陣跡


高宮宿の脇本陣は 例は本陣は2軒、1軒は問屋を兼ね
ていた。本陣の北50メートルほど西側にあった。残っ
ている間取り
によると、間口7間半、奥行き8間、門構
えで玄関もある建坪74坪だった。門のほ
かに別の入り
口かあり、入りたところに「荷物継替所」と記した土間
かつづいていて、継立ての仕事を行っていたらしい。


もう一軒の脇本陣は、本卿の南.百メートルほどのとこ
ろにあった。間口9間半奥行き20間5尺建坪71坪
で、
門構えのある玄関を備えていた。いずれにも本陣にあっ
番所はない。



問屋を兼ねていた脇本陣は本陣の北川権左衛門から慶長1
3年(1636)に塩尾治右衛門に代わった。もう1つの
脇本陣
は、天明時代(1780代)からは安孫子清助家が
務めた。と
ころで、本陣、脇本陣の休泊料は、決まった分
金額あった分
けではなく、それどころかこれらは「お殿様
からの賜り物」と
いう性格のもので、お殿様の「家格」と
か「
体面」「慣習」によったものと思われる。『民間省要』
に次のように書かれている
,「百疋二百疋、或いは銀一枚、
休所にして.二百疋、三百疋五疋ぐらいまでなり。そうし
て賜の高下は分限によらず、家々の品によることなり(中
略)泊所にて一両より三両まで、又は二枚から五枚までな
りといへど、家々の格によりてその品いろいろなり」。こ

のような状況であったので、中には「お国は大和の郡山、
お高が十、五万の石、茶代はたったの二百文」となど謳わ
れ、笑われていた殿様もいたが、高宮宿の旅籠料は、彦根
代官あての覚書などの資料では、250~300文という
のが残っている。


【エピソード】

ここでの鍵語は「往来」「品格」。往来の多寡は賑わい
を顕し、品格のそれは現代風にいえばコンテンツの品質
となる。この「往来」をアレンジし付加価値に転化する
知恵が、住民と旅人に求められているのであろう。

【脚注及びリンク】
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  1. 中山道 高宮宿場町|彦根市
  2. 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿 
  3. 中山道 高宮宿 彦根観光協会
  4. 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
  5. 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
  6. 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
  7. 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
  8. 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
    中山道 2004.4.9
  9. 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
    つり・高宮布
  10. 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
  11. 中山道高宮宿 馬場憲山宿
  12. 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
  13. 新高宮町史 自費出版デジタル 

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