壺笠山城

2014年01月16日 | 滋賀百城

 

 

 

壷笠山城は穴太の西に聳える四二二・ニメートルの山頂にあ
る。山頂付近に白鳥越えと呼ぶ、尾根上の間道があり、比叡
山系を越え、坂本と京都を結んでいた。

 史料上、壷笠山城の名前が現れるのは、元亀元年(一五七
〇)九月の朝倉・浅井氏と織田伍長の対決時である。越前の
朝倉義景と近江北部の浅井長政は、大坂本願寺と手を結び、
南下して山科まで達し、入洛の機会をうかがった。摂津で戦
っていた信長は、急濾京都へ戻り、これに対峙した。朝倉・
浅井軍の五、六千の軍勢は、比叡山延暦寺の後方支援を受け
「はちが峯」「あほ山」「つぼ笠山」に陣取る(『信長公記』
)。信長は京都側と近江側から、これを挟撃した。朝倉・浅
井軍も負けじと別動隊を西進させ、洛東の村々を放火し入洛
する姿勢を示す。 朝倉・浅井軍と信長軍の睨み合いは続い
たが、両軍とも膠着状況を打開できず、十二月に和議を結ん
だ。朝倉・浅井軍は「青山」の小屋を焼き払って退却したと
記されている。



 朝倉・浅井軍の三ヵ所の陣所のうち、位置が明確なのが、
この壷笠山城である。山頂部を加工した小規模な山城で、主
郭Iは円形を呈し、東西三一メートル、南北三五メートルを
計る。周囲には幅約三~五メートル帯曲輪Ⅱが巡り、Iとと
もに城の中枢部を形成する。主郭にはa、bの虎口があり、
石段も残存する。このうちaは帯曲輪に突出して一祈れするス
ロープ状の道を設けている。またbは帯曲輪の北西を掘削し
た箇所と対応し、通路上の折れを形成する。帯曲輪の周囲に
は石積みが残り、南西側壁のものは高さ1メートルに及ぶ。
帯曲輪のうち、西辺に尾根上の通路が接続し、白鳥越えとつ
ながっている。通路の南側に小曲輪群があり、全体的に南側
を向いている。なお、壷笠山の西百メートルにある白鳥山に
も、台形状の曲輪と畝状空堀群が残る。
 壷笠山城に朝倉・浅井軍が陣取ったことは確実である。た
だし、軍勢五、六千人が陣取るには、あまりにも狭い。近年
比叡山系の稜線周辺には「一本杉西の城」という大規模な城
跡があり、同じく白鳥越え上の万来寺城(京都市)にも大規
模な陣城遺構が残る。朝倉・浅井軍の主力が布陣した「青山」
は、これらの可能性が高い。
 また壷笠山城は、石積みが残ることから恒久的な使用も考
えられる。元亀二年、伍長による比叡山焼き討ちの直後、明
智光秀が坂本城に入った。翌三年には比叡山系の西にいた洛
東の土豪たちが伍長方と戦っている。比叡山系の間道も緊張
が走ったと思われ、壷笠山城も明智方に補強された可能性が
あると言われている。     

 
出典:

   

 

 

【エピソード】

 

 

寒さ厳しき折りですが、皆様方のご活躍とご多幸をお祈り
申し上げます。

                               敬白

 

【脚注およびリンク】
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  1. 近江の城郭  壺笠山城 
  2. 近江・壺笠山城(城郭放浪記)
  3. 堅田歴史同好会 壺笠山城見学会、2012.11.27
  4. 羽生道英 著『明智左馬助
  5. 白鳥越え,Wikipedia
  6. 元亀元年の戦い「天下は朝倉殿に(3)」

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