佐和山城

2015年09月28日 | 滋賀百城

 

 

 

● 西の丸三段曲輪遺跡

戦国期の武将・石田三成(1560~1600)が居城とした佐
和山城の伝西の丸(彦根市
古沢町)に地下構造を備え
た瓦ぶきの建物
があったことが、彦根市教委の発掘調
査で
明らかになった。江戸戸時代の絵図で塩なとを
蔵した「塩櫓(しあやぐら)」があったと伝わる
泣置
で、専門家はにの時期の城郭建築で地
下構造かおる例
は珍しい」としている。

佐和山城は東国と京を結ぶ要所にあった山城(標高約
230メートル)で、三成が関ケ原の
戦いで敗れた後に
落城、壊された。

今回発掘されたのは標高約180メートル、本丸北西
で「西の丸」と伝わる三段曲輪(<る
わ)の最下段。尾
根の先端に位置し、土塁に
囲まれた大きな引ま地かお
り「用途は謎」とされ
てきたが、四隅から礎石跡が出土
。南北3間(5・7メートル)、
東西2聞(3・8メー
トル)の長
方形の建物で約1・9メートルの深さの地
下室が
あり、瓦が曲輪全域に散乱していることから
ぶきと考えられている。※13

 

■ 佐和山城跡第1次範囲認定
    調査現地説明会開催要項※14


□開催主旨

彦根市の市或北部には、中世から近世を代表する城郭
遺跡である佐和山城跡と彦根城跡が存在し、それらは|
日城・新城の関係で歴史的連続性を有しており密接な
関係にあることから、本来一体の重要遺跡と号えること
ができます。このように、彦根を代表する二つの城郭
遺跡ですが、現任の彦根の市街地形成のきっかけでも
ある彦根城跡は国の特別史跡に指定されており、大切
に保護されている一万、彦根城の前身の城郭である佐
和山城跡については、現地に良好な遺構が残っている
にも関わらす未指定の遺跡となっております。このよ
うな状況を踏まえ、彦根市教育委員会では佐和山城跡
を特別史跡彦根城跡に関連する重要遺跡と位置付け、
将来の史跡指定を視野に入れつつ、その歴史的・要性
を探るべく11年度より佐和山城跡の総8調査を実施
しております。

それらの繩8調査の一環としまして、範囲確認(発掘
)調査を進めております伝西の丸下段曲輪の調査成果
に関しまして、下記のとおり、発掘現場の現地説明会
を開催することとします。

□開催日

 15年10月4日(日)
 午前9時30分から正午まで(雨天決行)
 ※受付は午前9時30分から午前11時00分まで
 ※説明は開催時闇中、随時行います。
 ※「とりいもと宿場まつり」との同時開催といたし
  ます。

□集合潟所

 近江鉄道鳥居本駅前

□最寄り駅

 近江鉄道鳥居本駅

□内容
  
 文化財課の発掘調査を担当している学芸員が、現地
 周辺の概要と発掘調査成果をわかりやすく説明しま
 す。

募集定員 なし
□申込み  不要
□参加費  100円(資料代・保険代)
□募集対象 小学生以下は保護者同伴

□問い合わせ先

 彦根市教育委員会事務局文化財課 0749-26-5833
  e-mail:bunkaza@mxhikone.ed.jp
 

 【エピソード】

    

                                     

 石田三成の一族は、北面武士の下毛野氏の一族、
 あるいは京極氏に属する荘園の代官であった土豪
 など、出自には諸説ある。石田正継の子の三成は、
 秀吉に才能を見出されて家臣となり、秀吉の天下
 統一後は、近江佐和山に19万石の所領を与えら
 れる。三成は経理や事務の才に優れ、豊臣政権で
 は五奉行の1人に昇るが、加藤清正ら武断派と対
 立。秀吉没後のに三成は五大老の徳川家康に対し
 て挙兵し、毛利輝元らを擁立し西軍を率いて戦う
 が敗北し、処刑される。この時、父の正継や兄の
 正澄は佐和山城を守備するが、東軍の追討を受け
 て落城し、正継、正澄らが自害する。

 ┃
清心
 ┃
正継
 ┣━━━┓
正澄  三成
 ┃   ┣━━━┳━━━┓
朝成  重家  重成  辰姫津軽信枚弘前
                   藩
代藩主)


 三成には三男三女あるいは二男五女の子がいたと
 され、関ヶ原の戦い後長男の重家は助命され出家、
 次男の重成は津軽氏に仕官し、子孫は杉山氏を名
 乗って津軽家臣として存続する。娘の辰姫は弘前
 藩二代藩主津軽信枚に嫁ぎ、子の信義は三代藩主。
 津軽本家と分家間の婿養子・養嗣子を踏まえると
 本家十代藩主まで、津軽分家黒石領四代当主から
 七代当主が辰姫の血を引く。(Wikipedia)

 

【脚注及びリンク】
-----------------------------------------------
 

  1. 佐和山城、Wikipedia
  2. 佐和山城遺跡地元説明会資料
  3. 佐和山城遺跡の発掘調査成果、滋賀県教育委員会 
  4. 佐和山城遺跡現地説明会フォトレポート - ひこね街
    の駅 武櫓倶
  5. 彦根市埋蔵文化財調査報告書第44集、2011.02.11
  6. 佐和山城跡など県内8遺跡 発掘調査報告書を刊行
    2012.12.28、滋賀報知新聞
  7. 佐和山城跡-その歴史と山に残されたもの、2012.
    10.23、滋賀県教育委員会
  8. 佐和山城の遺跡(湖東)、滋賀県、2010.01.14
  9. 佐和山城の遺跡(その2)滋賀県、2011.02.09
  10. 佐和山城跡から侍屋敷遺構 「一等地」三成重臣
    居住か 読売新聞 2015.05.29
  11. 屋敷跡と内堀の遺構発見 彦根・佐和山城跡を
    調査 中日新聞 2015.05.29
  12. 三成ファンの拠点に 彦根に「治部少丸」が開館
    京都新聞 2015.03.02
  13. 石田三成居城の佐和山城跡に地下構造付き建物
    朝日新聞、2015.09.26
  14. 佐和山城跡第1次範囲確認調査現地説明会  彦根
    市 2015.09.17
  15. 石田三成に逢える 近江路三成会議 2015.09.25

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佐和山城

2015年06月12日 | 滋賀百城

 



朝日デジタル 2015.05.29

■ 佐和山城跡から侍屋敷遺構

彦根市教委は関ケ原の戦い(1600年)で敗れた戦
国武将、石田三成の居城だった佐和山城(彦根市佐和
山町)の大手口(正門)と伝えられる一角で16世紀
後半に内堀と土塁があったことを確認し、侍屋敷を区
画する溝が見つかったと発表した。5月30日に現地説
明会を開いた。

佐和山城は1590年から三成が城主を務め、関ケ原
の戦い後、井伊氏が彦根城を築いて廃城にした。大手
口は江戸時代末期の井伊家文書「佐和山城絵図」で城
の東側の東山道(中山道)に面して描かれており、内
堀に沿って「土居」(土塁)、山上の城との間のふも
とに「侍屋敷」があったと記述がある。現在も土塁や
内堀跡の水路が残っているが、考古学的な調査はされ
ていなかった。



市は2011年度から国の史跡指定を目指して城跡の
総合調査に取り組み、今回は3カ所で遺構の範囲を確
認する発掘を実施。内堀は幅約24メートル、深さ1・
7メートル以上と確認。土塁は下幅約11・2メート
ル、上幅約6・4メートルの台形で、内堀底からの高
さは4・5メートル以上とわかった(毎日新聞 2015
年05月31日)。
 

本丸を正面に望む中心地の谷に位置し、専門家は「三
の重臣級の屋敷跡ではないか」とみている。旧彦根
藩主・
井伊家伝来の佐和山城絵図には、本丸や大手口、
侍屋敷
内堀などの位置が示されている。しかし、廃城
から200年
以上後の江戸時代後期に描かれたもので、
城があった当
時の状況は、城下町を含めて不明な点が
多い。

教委は絵図を基に、昨年11月から侍屋敷、内堀、土
居(土塁)があったとされる本丸東730~780メー
トルで発掘調査を行い、それぞれ遺構を確認した。出
土した土器や陶磁器の破片から、遺構はいずれも16
世紀後半とみられ、三成が城主だった時期が含まれる。



侍屋敷跡では直交する2本の溝が見つかった。絵図に
はなく、東西方向の溝は幅1・2メートル。実際には
3~4メートル、深さは60センチ程度と推定され、
石積みで補強された箇所もあった。南北方向の溝は幅
60~80センチで、石組みが部分的に残っており、
橋台の可能性もあるという。屋敷地を区画するととも
に、谷からの湧水を排水するために掘られたとみてい
る。

 

このほか屋敷地では、礎石を据え付けた跡と掘っ立て
柱の
穴も複数見つかったが、建物の規模や築かれた時
期は不明という。

尾根を隔てた北側にある「奥ノ谷」では2009年、
県教委の調査で武家屋敷を囲む溝や堀が見つかってい
る。今回の屋敷地は、より広大な「殿町谷」にあり、
土塁の内側で、大手口と本丸を結ぶ直線上に位置する。

中井均・県立大教授(日本城郭史)は「一等地で、奥ノ谷の
屋敷地に比べて区画が大きく、三成の重臣クラスの武家屋
敷があったと考えられる」と話す。今回の発見について「武
家屋敷が一つの谷にとどまらず、タコ足状に街が造られて
いったことが明らかになった」と評価する。

内堀(幅24メートル、深さ1・7メートル)と土塁
(上幅6・4メ
ートル、下幅11・2メートル)は、
絵図通りの場所の一角か
ら見つかった。土塁は台形状
で、内堀を掘った際に出た土
砂で築いたとみられ、内
堀の底との高低差は4・5メートル
あった(読売新聞
2015.05.29)。

また、発掘担当の林昭男・文化財課主査は「大手口と
され
る付近の遺構をはじめて確認できた。中世の山城、
山麓の
屋敷跡、平野部の城下町の遺構の3点セットが
遺る歴史的価値のある地域であることを示していきた
い」と話している(産経新聞 2015.05.29)。

【エピソード】

 

 

戦国武将の石田三成を通じて街を盛り上げようと、彦根
の中心部にある「花しょうぶ通り商店街」に3月1日、
戦国街
角ミュージアム「治部少丸」が開館した。三成フ
ァンや歴史
愛好家の拠点になることを目指す。

同商店街振興組合が空き店舗を改装し、石田三成の官職「
治部少輔」から名付けた。館内には、三成を紹介する年
表のパネルや三成の居城だった佐和山城のジオラマなど
が展示されているほか、今後、歴史の本を集めたコーナ
ーも設置する(京都新聞 2015.03.02)。



彦根城の外堀の土塁見つかる 市内唯一(2015.05.20)

 

【脚注及びリンク】
-----------------------------------------------

  1. 佐和山城、Wikipedia
  2. 佐和山城遺跡地元説明会資料
  3. 佐和山城遺跡の発掘調査成果、滋賀県教育委員会 
  4. 佐和山城遺跡現地説明会フォトレポート - ひこね街
    の駅 武櫓倶
  5. 彦根市埋蔵文化財調査報告書第44集、2011.02.11
  6. 佐和山城跡など県内8遺跡 発掘調査報告書を刊行
    2012.12.28、滋賀報知新聞
  7. 佐和山城跡-その歴史と山に残されたもの、2012.
    10.23、滋賀県教育委員会
  8. 佐和山城の遺跡(湖東)、滋賀県、2010.01.14
  9. 佐和山城の遺跡(その2)滋賀県、2011.02.09
  10. 佐和山城跡から侍屋敷遺構 「一等地」三成重臣
    居住か 読売新聞 2015.05.29
  11. 屋敷跡と内堀の遺構発見 彦根・佐和山城跡を
    調査 中日新聞 2015.05.29
  12. 三成ファンの拠点に 彦根に「治部少丸」が開館
    京都新聞 2015.03.02

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目加田城

2014年12月31日 | 滋賀百城



 

 目加田城は湖東平野に流れる宇曽川の支流の岩倉川に
沿った平地域館である,域は目加田集落の南西隅に位置
し、現在はかなり宅地化か進行しているが、地籍図や郡
志によれば以前は四周に土塁と堀が残る藪地であったこ
とがわかっている,
 城主と伝わるのは在地の上豪である目賀田(目加田)
氏である。南北朝期には御家人の目加田玄向が近隣の犬
上・愛知郡の国人・土豪等と共に、北朝方の細川氏・六
角氏の配下として畿内を転戦している。また別涙の目賀
田氏もおり六角氏の下で守護代や郡奉行を務めていたよ
うである。戦国期にも六角氏の家臣となって、天文7年
(1538)の坂田郡出兵や永禄2年(1559)の肥
田城水攻めに参加している。また、天文四年の多賀大社
梵鐘銘にも目賀田の名がみえ、中世後半を通してこの地
に居住し活動していたとみられる。

 さて、現在の城跡は宅地化されながらも愛荘町の指定
史跡として公園整備がなされ解説板も設置されている。
公民館の南側に芝が張られた高さ約三メートルの土塁が
L字形に残り、その東隣にも竹薮の中に「弁天山」と配
がついた土塁が残されている,

『近江愛智郡志』」第三巻の図によれば、北面に湾入し
た箇所がある他はほぼ土塁・堀に囲まれた方形に描かれ、
東面の堀は南半分の幅が広くなって岩倉川へつながって
いる。これは地籍図でもほぼ同様で内部は荒地、東側を
中心に堀の内側は竹藪となっている。
 これらの記録を現状にあてはめると、公園に残る土塁
と「弁天山」の間が堀の湾入する箇所にあたり、公民館
の東側を流れる水路の南続きが堀であったことがわかる。

 

岩倉川へつながる城跡の南東隅は削平され堀も埋められ
ているものの、やや高く土塁の痕跡を留めている。
また、
城跡の南・西面をめぐる道路の内側も堀であった
ことや、
河道改修以前は県道と城跡の間の水路が岩倉川であった
ことは明らかであろう。図では南面中央に門が開口して
おり、城跡南西隅に「馬場]の小字が残ることも加えて、
集落とは反対の南面が正面だったとみられる。集落側の
北.面西端にも小さな橋が架かっていたようである。

 岩倉川や宇曽川は、犬上川や愛知川など渇水期に水の
切れやすい湖東平野の河川の中では、水量が比較的安定
している。前述のように岩倉川と堀は水路でつながって
おり、束面の幅広の堀と合わせて、北面の湾入する箇所
が舟人と考えられるなど、河川交通や舟運を意識した構
造になっ・ていたようである。

 ところで伝承によれば目加田の集落は元は北隣にあり
後に現在地へ移転させられたという。そして、現状では
わかりにくいが地籍図によると目加田集落は岩倉川の蛇
行する波路を利用し周囲を水路で囲まれており、目加田
域はその内部に位置している,

 近江の平地域館をみると、集落の内部に位置するもの
や、集落の端に付属するもの、集落から離れて位置する
ものなど様々な形態がある、日加出城が南西隅とは言え
集落内部に位置することは、土豪の目竹田氏による集落
支配が比較的強いものであったと考えることができ、集
落が移転したとする伝承と合わせて、目賀田氏によって
集落の再編成や惣構えの構築が行われたという解釈もな
されている。

 なお、目加田だけではなく、隣接した豊郷町の高野瀬
(高野瀬氏)・吉田(吉田氏)・八町(赤田氏)、愛荘
町の安孫子(安孫子氏)などの集落にも在地土蒙の平地
域館が残されている。ハ町域はハ町集落の常禅寺と白山
神社の西側に土塁が残されている.高野瀬城・吉田城・
安孫子城も集落内に地割などの痕跡を残しており、石碑
や説明版が建てられている。 
                    (早川圭)

 

     

 この図をクリック 

尚、目加田氏は藤原氏の出で、鎌倉時代より御家人格として
佐々木氏に仕え、正慶元年(元弘二、1332)以後、文献上に
登場し活躍するが、分家も多く、周防岩国の吉川氏が出で、
また越中取越城主となったものもある。 目加田宗家は二郎左
衛門を名のった。貞和三年(正平二、1347)に、六角氏頼に
従い河内の藤井寺 合戦で活躍し、分家で近江八幡市の比牟礼
神社の神主職となった五郎兵衛信職は御家人であって
文武に
秀で、建武年間(1334~38)には
足利尊氏に従い、摂津・河
内・山城等の地で奮戦した、
とある。


                 「日本城郭体系11」 

 

 

 

【エピソード】

 


【脚注及びリンク】
-------------------------------------------------
1.佐々木六角氏およびその家臣団の城郭 近江の城50選.

2.探訪 湖東に残る城跡を巡る 
3.城郭探訪 目加田城
4. 朝鮮人街道 Wikipedia 
5. 『近江の城-城が語る湖国の戦国史-』中井均 サン
  ライズ出版 
  
6. 近代デジタルライブラリー- 近江愛智郡志. 巻1.2.3
-------------------------------------------------   

 

 


伊庭御前と永原御前

2014年12月17日 | 滋賀百城

 

 

 伊庭御殿、永原御殿とは、別名お茶屋御殿とも呼ばれ
る、将軍専用の宿泊施設。徳川家康は天正18年(15
90)、関東に移され、江戸城を居城とするが、京都に
おいては伏見城を居城としており、慶長8年1603)
の将軍官下も伏見城で受けている。このため京・江戸間
の街道整備と宿泊施設の整備がおこなわれた。お茶屋御
殿とはこの将軍専用の宿泊施設のこと。その経路は京都
から東海道を経て、朝鮮通信使が通行した通称朝鮮人街
道を通り、彦根から中山道に入り、江戸に向かうルート
で、近江では永原、伊庭、柏原にお茶M御殿が築かれた。
また、東海道を経路とする場合のため、水口にもお茶屋
御殿が築かれた。

 伊庭御殿はJR能登川駅より南ヘ1キロほどの繖山(
きぬがさやま)山麓に位置している,寛永11年163
4)の徳川家光の上洛に伴い造営された休憩施設で、そ
の作事には小堀遠江守政一(小堀遠州)が携わっている。
また工事には幕府の大工頭中大和守があたった。中作家
に伝えられる絵図によると、撒山の山麓に構えられた御
殿は南北に長い不整形で、東側が山に接し、南側に門、
西側に石垣と二つの門が設けられていた。酉側南寄りの
門は御次ノ間、御殿に通じ、北寄りの門は御料理ノ間、
下台所に通じていた。伊庭御殿の特徴は御殿に比べて台
所が大きいことである。これは、主として食事や休憩の
ための御茶屋を示している。地元では御殿地と呼ばれ、
現在わずかに御殿西側の石垣.が残るにすぎない。

 

 一方、野洲市永原には永原御殿か築かれた,伊庭御殿
同様、朝鮮人街道の西に設けられ、朝鮮人街道との間と

は御殿道で結ばれていた。慶長6年1601に徳川家康
か宿泊し、以後将軍上洛に際しては入京前夜の宿所
伊庭
御殿跡の石垣
として寛永11年までに10回も利用され
ている。この年
の徳川家光の上洛に際しては改修がおこ
なわれている。


 この改修工事には作事奉行曽根織部正、芦浦観音寺の

もとで大工頭中井正純が行なった。
 造営当初の構造は方形の本丸の前面に方形の一の丸が
設けられる複郭構造でその姿は城郭そのもの。本丸の南
東部に御門と、南面中央に御矢倉門が構えられ、
この御
矢倉門により、二の丸と通じていた。本丸の四隅か現存
しているので、ぜひ見学されたい。御殿の一部は草津市
の芦浦観音寺へ移築され、現在書院となり、国の重要文
化財に指定されている。また、城門については野洲甫の
浄専寺の表門として移築されている。
 将軍上洛用の施設として築かれた御茶屋御殿が近江で
はこの伊庭御殿、永原御殿のほか、柏原御殿、水口御殿
と四ヵ所にわたって築かれていた。街道が交差する近江
をよく表しているといえよう。近世の城郭類似遺構とし
て、ぜひとも訪ねたい史跡である。  
                                       (中井均)

 

 

    

 この図をクリック 

 

【エピソード】

● 伊庭貞剛

伊庭といえば、近江国出身の明治時代の実業家、第二
代住友総理事が思いついた。「別子銅山中興の祖」と
言われ、「東の足尾、西の別子
と言われ
住友新居浜
錬所の煙害問題の解決にあたった。植林など環境復
元にも
心血を注ぎ、企業の社会的責任の先駆者とも言わ
れるが、ヴォーリズの設計した旧伊庭家住宅とも関係した
り佐々木源氏とも関わりがありそうだ。ここは「近江の思想」
として考えてみるのも面白いから残件扱いに。

  

● 奇祭「伊庭の坂下し祭」

毎年5月4日、伊庭の大浜神社・山麓の望湖神社・繖山(八
王子山)山頂の繖峰三神社の祭礼で、特に三基の神輿が繖
山頂に引き上げられ、そして下ろされる神事が注目される。
日吉大社の山王祭の神輿上げ神事にちなむとも伝えられる。
神輿の坂下しはみもので、山頂から山麓まで500メートル、
標高差170メートルを一気に下る。途中、岩場を始め難所が
多く、先導役の指揮に合わせ、担ぎ手の若衆によつて盛大に
執り行われる。

【脚注及びリンク】
-------------------------------------------------
1.佐々木六角氏およびその家臣団の城郭 近江の城50選.

2.
永原御殿跡現地説明会資料 野洲市
3.伊庭の坂下し祭 滋賀文化のススメ
4.  朝鮮人街道 Wikipedia 
5.  第2回東近江の歴史散歩への誘い~亀塚古墳 youtube   
6. 伊庭御殿 - お城へ行こう!   
-------------------------------------------------   

 


多喜山城

2014年12月15日 | 滋賀百城

 

 

 戦国時代末期の永禄11年(1568)、近江南部
を支
配していた守護六角氏は、上洛を目指す織田信長
の前
にもろくも敗れ、居城の観音寺城を放棄して、伊
賀国や
甲賀郡に逼塞した。
 しかし、六角氏は、元亀.元年(1570)5月に
なると、
足利義昭の呼びかけに応じて、信長に服属し
つつあっ
た湘南平野や湖東平野をうかがうようになり、
反織田
信長勢力網の一翼を担うようになる。

 その頃、織田信長は、上永原城(野洲市)に家臣の
佐久間信盛を、青地城(草津市)に在地勢力の青地氏
を配置していた。しかし、六角氏が野洲川づたいに西
上し、石部口(湖南市)に拠点を作って織田方への圧
力を
高めると、六角氏に呼応した湖南の一向一揆とも
対立し、野洲川流域の、浮気城・守山城・金森(守山
市)などで戦いを繰り広げていった,


 六角氏・湘南の一向一揆と織田信長との対立で、甲
の山峡から湘南平野に抜ける野洲川流域は、さなが
ら両
勢力の「境目」の様相を見せた,この元亀の争乱
に際し
織田方が築いたと考えら紅ているのが、多喜山
城である。

 多喜山城が位置する日向山は、集落からの比高が
107メートルほどであり、決して高い山とはいえな
が、尾根は細く、丘腹は急斜面であり、登山用の石段が
なければ、歩くのにはつらい地形である、
 山頂は、木々が開かれ、ちょっとした公園になって
る。周囲への眺望はすこぶる良好で、合戦の舞台と
なっ
た野洲川はもちろんのこと、山麓を通る東海道石
部目
まで視野に治めることができ、対六角氏戦略を意
識して
築城されたことを彷彿とさせる。


 山頂に残る遺構は、南北30×東西50メートルの
主郭を中心に、西側尾根に三段々の曲輪を付属させた
連郭式山城である,城の規模は、全体でも東西150
×南北50メートルと極めて小さいが、土塁に囲まれ
た主郭には大石を使った石垣や、直角に曲がった土塁、
中央を穴蔵のように掘りくぼめた櫓台などが現存する。
 遺構の中で、最も注目されるのは、東と西に作られ
た虎口である。いずれも、土塁を喰い違いにすること
でつくられた入り口を、左に折れて主郭に入る構造で
あり、一枡形虎口」に良く似た形態となる同時期に織
田方の教典城郭の1つとして機能した宇佐山城(大津
市)も、同じ形態の虎口を持っている。
「枡形虎口」とは、織豊政権や徳川政権下で発達した
虎口形態の1つである。その構造は、2つの城門(一
の門、二の門)にはさまれた所が、方形の空間となっ
ており、一の門を入って、一の門に至る際に、左また
はもに直角に析れて城内に入るものである。その防御
方法とは、城内側の兵Lが、一の門を破った敵兵を枡
形の空間に誘導して、一の門の突破に手間取っている
敵兵めがけて、空間内部を取り囲むように攻撃するも
のである,



 しかし、多良山城の虎口は、左に折れた先が、空問と
言うよりも城道と同じ幅しかないため、空間が形成され
るよりも前の段階にあたると考えられる。
 多喜山城や宇佐山城の虎口は、織豊系城郭の虎口編年
の標識遺構となっているので、虎口の変遷を知る上で、
一度は訪れて見たい遺構である。

 ところで、織田信長に対抗した六角氏は、元亀争乱で
どのような砦を築いたのであろうか。六角氏が一時期に
拠点を置いた石部口に程近い、柑仔袋(湖南市)の東丸
岡城・丸岡城は在地勢力の青木氏が築いた本拠地とされ
る,しかし、両城は片木氏の本拠地からやや離れる上に、
野洲川左岸は、元亀争乱で六角氏の主力として戦った三
雲氏の三雲城から、柑子袋の間は、在地勢力の山城や丘
城が分布しない地域である『このため、在地勢力が築城
した場合でも、その城郭の配置には六角氏の戦略が反映
されていた可能性が高い。



 東丸岡・丸岡城の虎口の構造を見ると、主郭から空堀
の対岸を土橋で渡った先に、出撃口を守るように馬出状
の施設を設けている。丸岡城は、土塁を直角に複数回に
折り曲げて、主郭に入る道を作っている。近江南部は、
単純な虎口か多い地域であるが、両城には防御性の高い
虎口が用いられており、六角方の城の中でも重要視され
たことがうかがえる。しかし、虎□の基本的な形態は、
平人虎口であるため、多喜山城に比べると、敵兵の侵入
を阻害する力は弱いと思われる。

 元亀元年六月、小競り合いを繰り返していた織田信長
方の佐久間信盛と六角氏は、野洲川原で激突した。戦地
の詳しい場所はわかっていないが、敗れた六角氏は昔日
の力を失い、歴史のλ舞台から姿を消しはじめていく,
それは、野洲川で見せた.両勢力の築城技術のうち、織
田方の技術が生き残り、発展することを約束した瞬間で
もあった。      

                   (藤岡姓礼)

                  

   

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【エピソード】

 

 

【脚注及びリンク】
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1.佐々木六角氏およびその家臣団の城郭 近江の城50選.

2.
日向山(多喜山城跡) 滋賀県観光情報
3.六角氏式目 Wikipedia
4.  2012年10月例会のご報告 近江 多喜山城・三雲城・丸
  岡城・東丸岡城 

5.  石室の規模が最大規模の日向山古墳   
6.  安井宗運が見た戦国時代の滝山城   
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