台風18号渦と流域治水推進条例

2013年09月19日 | 防災と琵琶湖

 

滋賀県でも月15日から16日にかけ、全国で初めて、大雨
に関する特別警報が県下全域に発令され、豪雨災害に見
舞われる。
降り始めからの総雨量は大津市葛川で635㎜、
東近江市永源寺で 572㎜
を観測、県内で、観測史上最大
の大雨を記録、栗東市で
は土砂災害で1名死亡したのを
はじめ、この大雨により、家屋の損壊
や浸水、道路の損
傷や鉄道の橋脚流出で交通が寸断するなど、県下全域で

県民生活や経済活動が大打撃を受ける。河川の決壊によ
り孤立した住民の救出に自衛隊を派遣の
ほか、早期にリ
エゾン(現地情報連絡員)を派遣し、ライフラインの応
急措置の支援
などが実施展開されたが、今なお、住民、
自治体、ボランティアなどの手による被災地での復旧・
復興が急ピッチで行われている。

 


滋賀県の9月定例議会が18日開会。本会議冒頭、嘉田由
紀子知事は台風18号被害の状況を報告し、早期復旧に取
り組む意向を示した上で、ダムだけに頼らない総合的な
治水対策を進めるため、全国で初めて建築規制を盛り込
んだ「流域治水推進条例案」を提案した。嘉田知事は提
案説明で「台風18号で特別警報が出るほどの災害を受け、
ハードとソフト両面からの多重防護の対策が重要とあら
ためて認識した。一日も早く制定し、県民の命を守るた
めの流域治水政策の推進に理解いただきたい」と述べた。
条例案は河川整備や貯水対策に加え、二百年に1度の大
雨を想定した浸水危険区域を指定し、地盤のかさ上げか
避難所整備を求める内容。建築規制には罰則を伴う。こ
れに最大会派の自民党県議団などが反対しているほか、
想定する浸水危険区域に立つ約1,070戸の8割が集中する
長浜市なども反発しているという。 





 

 

 【エピソード】



さっと「流域治水推進条例案」を看ただけだけのので、
何ともコメントできないが、新しい防災設計には違いな
いが、例えば※設計→実行→
 検証→是正→※のこの是正
過程には訴訟賠償などの事象などが含まれるだろうし、温暖
化・気候変動による被害想定も難しように思われる。果たして
説明責任を果たせるのだろうかと心配する。 

【脚注及びリンク】
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1.「平成25年9月15~16日台風18号による被害に関する
  情報について(第9報)
」2013.09.18 滋賀県
2.「平成25年9月15日台風18号による被害に関する情報
  について(第1報)」2013.09.15 滋賀県

3.「滋賀県が治水条例提案 知事「台風で重要性認識」
 京都新聞、2013.09.18

4.「平成25年9月15日 台風18号関連情報について
」滋
  賀県、2013.09.18
5.「滋賀県流域治水の推進に関する条例の検討状況」
 滋賀県、2013.9.17

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守山に第三号贈与型ソーラー点灯

2013年09月12日 | 日誌

 


 


県初の贈与型ソーラーパネルの導入が進む守山市*1

将来世代に資産とエネルギーを受け継いでもらおうと、
山市に10日、県内では初めてとなる「生前贈与型
出資」を
取り入れた太陽光発電所が完成した。守山市
の河西幼稚
園に完成したのは、「もりやま市民ソーラ
ー3号機」で、10
日、関係者が出席して、発電所の
完成を祝った。


生前贈与型出資とは、太陽光発電事業への投資を目的
した「信託受益権」を子や孫に贈与することで、償
還金や配
当金を子や孫が受けられる。守山市では、今
の「市民ソーラー3号機」には、市内在住もしくは
在勤の個
人36人と企業2社から合わせて880万円
の出資があり、
このうち、「生前贈与型」での出資に
は、10件の申し込み
があった。発電所は幼稚園の屋
根に114枚の太陽光パ
ネルを設置し、年間2万4千
キロワットアワーを発電する見
込みで、電力は、すべ
て関西電力に売電する。守山市では、
今後も市民共同
発電所の設置を検討していきたいとのこと。




解説記事*2

子や孫に、お金だけでなく環境に優しいエネルギーを
利用
する社会を残したい??。東京電力福島第1原発事
故後の再生可能エネルギーに対する関心の高まりを背
景に、太陽光や風力発電に高齢者が出資し、売電収入
を子供や孫にプレゼントする「緑の贈与」という仕組
みが注目を集めている。その可能性と課題を探った。

●投資効果16兆円

「高齢者から現役世代への資産継承を促し、再生エネ
市場も拡大できる。原発への依存度を下げ、温室効果
ガス排出も減らせ、緑の贈与は、一石三鳥にも四鳥に
もなる」。地球環境戦略研究機関(IGES)*3の松尾
雄介主任研究員は語る。2010年に、緑の贈与を提
案し環境省の政策提言コンテストで優秀賞に選ばれた。

仕組みはこうだ。ある祖父母が初孫の誕生を機に、息
子夫婦に200万円を贈るとする。その際、現金を直
接譲るのではなく、太陽光発電事業に出資する。電力
会社から入る売電収入は息子夫婦か孫の口座に振り込
まれるようにする。クリーンエネルギーの普及に貢献
できると同時に、売電収入が20年近く毎年十数万円
ずつ振り込まれるため、孫が成人するころには
資産が
引き継がれるというわけだ。

国内の60代以上世帯は2000万を超え、1500
兆円とさ
れる個人金融資産の7割を占める。だが高齢
者は10年、
20年先の買い物には二の足を踏みがち
だ。一方、現役世
代は100万円単位の支出に余裕が
ないことが多い。緑の
贈与は、投資後の償還金や分配
金の受取人を子や孫にす
ることで、高齢者からの投資
を促し、資金面で世代間の橋
渡しを担う。

昨年7月、再生エネ発電を電力会社が固定価格で買い
取る制度が始まり、将来の事業収益が見通しやすくな
った。このため太陽光を中心に導入が加速しているが、
現状では主な出資者は法人。大規模普及のためには、
個人投資の広がりが不可欠だ。

生前の「贈与」と死後の「相続」マネーは国内で年間
30兆円規模にのぼる。松尾さんらの試算によると、
60代以上世帯の2割が平均400万円を緑の贈与に
振り向けた場合、再生エネに対する2016~30年
の追加投資額は計16兆円に達し、5060万キロワ
ット分の再生エネ発電設備が増設される見込みという。
石油や天然ガスなど化石燃料の輸入額は約3兆円削減
き、二酸化炭素の排出量も2億9000万トン減らせ
る計算だ。

エネルギー問題に詳しい植田和弘・京都大教授(環境
経済学)は「持続可能な発展には世代間連帯が大事。
次の世代に良い環境を残したいという高齢者の感覚に
うまく訴えられれば、銀行に眠ったままの資産の活用
先として広がる可能性は高い」と期待する。

 

 

 【エピソード】

元菅直人首相は、「日々のエコカンハウス報告」*8のブロ
グで次のように語っている。

エコカンハウスに引っ越して3か月、ようやく太陽光
発電の状況が理解できるようになった。
数値は見える
化のための「ECOマネシステム」で、電力会社の検針し
た数値ではないが、全体像は理解できる。

我が家、つまり、エコカンハウスの5月の太陽光発電量
は863kwh。
100万kwの原発が稼働率60%で発電する月平
均発電量が
100万kw×30日×24h×0.6(稼働率)=43200万kwh
だから
43200万kwh÷863kwh=50万
つまりエコカンハウスは100万kwの原発の約50万分の一
を発電した計算だ。
逆に言えば50万戸の住宅が同様に
発電したら原発一基分になるということだ。

メガソーラを含めエコカンハウス2000万戸分発電すれ
ば原発40基分で、それだけでも原発は不要だ
料金換
算でも検針日の関係などで正確には言えないが、5月
分として支払う電力料金とガス料金を併せた金額より
も受け取る販売電力料金のほうが大きくなりそうだ。


その通りで、すでにわたしの運営する環境工学研究所
WEEFの個人ブログサイトでその試算を掲載してい
る。高性能のポストメガソーラで十分賄えるのと、さ
らには、『オールソーラーシステム』として、超概算
で、120兆円世界市場との試算を掲載している。守山市
民による太陽光発電の普及運動が、順調に全国展開
PFI運動なども含め)で成功を収めれば存外、エネル
ギー×経済×環境の“脱3Eのトリレンマ”は早く解
決できるのではと期待している。

【脚注及びリンク】
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1.「資産やエネルギーを子や孫に」2013.09.10 BBC
2.「緑の贈与:注目集める 再生エネルギーに高齢者が
  出資、収入を子や孫に」2013.07.19 毎日新聞

3. 地球環境戦略研究機関(IGES
4.「アースソーラー (もりやま市民ソーラー 1号機)
  につい
て」トランスバリュー金銭信託サービス
5.「アースソーラー (もりやま市民ソーラー 2号機)
  につい
て」トランスバリュー金銭信託サービス
6.「アースソーラー (もりやま市民ソーラー 3号機)
  につい
て」トランスバリュー金銭信託サービス
7.「守山中に市民共同太陽光発電1号機」2013.03.26
 読売新聞
8.エコカンハウス報告、2013.06.06

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音羽城

2013年09月09日 | 滋賀百城

 

 

  

  • 所 在 地  蒲生郡日野町音羽
  • 築城時期 15世紀後半
  • 標   高 49メートル
  • 主な遺構 曲輪、土塁、堀切、井戸
  • 経 緯 度 N34°59'59.87″ E136°17'09.

室町時代の末、現在の日野町小谷にその居を構えていた
蒲生氏は、音羽のこの地に城を築く。蒲生秀綱の時、あ
るいは貞秀の時と伝えられている。この山岳城は、日野
川を前に、宝殿山(猪鼻ヶ岳)を背後にした要害の地に
あって名城として知られる。明応5年(1496)と文亀2
年(1502)、敵を迎え撃って大勝をおさめるが、大永2
年(1522)から翌3年にかけての蒲生家同族間の争いに
は、若き当主秀紀を中心とする五百の兵が8ヶ月に及ぶ
籠城をするという悲惨な戦いの末、大永3年3月開城し、
直ちに蒲生高郷の援軍佐々木勢によって城は取り壊され、
以後は日野川ダムのほとりの中野(日野)城へと城は移
り、廃城となる。

中世後期、現在の日野町の南部過半を本領としていた
生氏は、周辺集落に・族を配置し領国経営を行なう一
方、
大水年間までは幕府と六角氏の双方へ出仕していた
事が
うかがえる。その頃本城であったのが、日野町東部
に位
置する『音羽城」であるとされる。その創建については
『蒲生舊趾考』に記される応永二十二年(一四一五)蒲
生秀綱が、先祖の惟賢の隠棲地を占って築城を決めたと
いう説と、『蒲生系図』に記された、応永二十二年蒲生
秀札が、先祖惟俊の隠棲地に築城したという説があるが、
これらについては否定的な意見が多く、応仁・文明年間
に築城されたと考えられている。
築城以降、音羽城は度
々合戦の舞台となっていたと考えられ、「音羽城」とい
う名は使われていないものの、この城に関すると思われ
る記録が複数残っている。

明応元年(一四九二)十月ニ十六日、「公方、今日蒲生
館に入御あるべきの由・・・・」と甲賀へ逃亡中の六角高
頼を攻めるために将軍足利義材が「蒲生館」に陣替えす
る予定であったという内容が『大衆院神社雑事記』に見
られる。

文亀二年(一五〇二)十月から始まった六角氏の重臣伊
庭氏による「第一次伊庭の乱」の際、六角高頼が蒲生氏
を頼り音羽滅に龍ったことから、文亀三年(一五〇三)
三月二十二日に、伊庭に味方した管領細川改元の家臣赤
沢朝経による「日野之蒲生館」(『公藤公記』)の攻撃
を受けたが龍滅を続け、六月一日に「日野蒲生滅開陳]
(『長亨年後畿内丘乱記』とあるように赤沢勢を撤退さ
せるに至った。この時の蒲生家当主は中興の祖と言われ
る蒲生貞秀であり、この後、その子高郷と孫の秀紀の間
で一族の内紛が起きる事となるのである。

大永二年(一五二二)七月二十日、蒲生秀紀の立て籠も
る音羽城を攻める蒲生高郷に対して、六角定頼は二万の
援軍を派遣(『寺院雑要抄』)、八ヵ月間に及ぶ龍城戦
の末、大永三年三月八日に秀紀の降参で戦は終結した。
その時の事は『寺院雑要抄』に「近州蒲生太郎、自去年
七月立籠腹終二当月八日六角ト甲散(降参)但三年可牢
籠通云々銘城之間、六角モ雖惜之、惣国二城郭可停止之
間、則自十日破之云々」と記されているが、注目すべき
「惣国二城郭可停止之間、則自十日破之云々」という文
言で、その規模は不明であるが、いわゆる「破滅」に関
する資料の初見とされ、この時点で音羽城は廃城となり、
秀紀は鎌掛城に、高郷は中野城に移ったとされる。

ところが寛政文化年間に描かれた『音羽古城全図』や『
近江蒲生郡志』に掲載された大正六年の測量図を見ると、
現在平地となっている部分に、石垣に囲まれた方形の「
本丸」や「二九」「南丸」の他、馬出状の曲輪や門が記
録されているのである。これらは大永三年に一度廃城と
なった後に、何らかの理由で城が修築あるいは再築され
た事を示しているのであるが、残念ながら、明治時代以
降、数度にわたる公園造成や溜池の堤防用の土砂採取な
どによって、主郭は上部数メートルが削平され、トロッ
コの軌道敷設による大規模な横堀状の撹乱が入っている
為に、現在確認できる遺構は、主郭以外の一部の曲輪や
井戸、断片的な土塁、堀切等であり、現況から絵図や測
量図にある遺構の年代を導き出すことは極めて困難であ
る。

しかしながら、主郭の掘削工事中や帯曲輪において瓦が
数点採集されており、製作技法や紋様などを調べると、
元亀・天正頃のものと考えられることから、中野城を居
城としていたとされる蒲生賢秀や賦秀(のちの氏郷)が、
織田信長配下として活躍していた頃、同時に新たな音羽
城が存在していた可能性があり非常に興味深い。

                   (振角卓裁)

 

 

 

ネット検索での蒲生定秀(がもう さだひで)の情報が
大変少ないことに驚く(☆残件処理)。

日野椀

【脚注及びリンク】
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1.「近江の山城ベスト50を歩く」中井均、サンライズ
 出版

2.「近江の山城・平城 位置図、同上
3.賤ケ岳合戦・黒田官兵衛も参戦していた…秀吉の古文
書発見、2013.5.10、毎日新聞
4.「賤ヶ岳の戦い」、Wikipedia
5.「姉川の戦い」、
Wikipedia
6.「姉川-奇襲、戦い小規模-説」2009.7.9 朝日新聞
7.「姉川の合戦再見実行委員会
8.「
横山城-滋賀県-~城と古戦場~
9.「近江 鳥居平城/近江の城郭
10.レファレンス協同データーベ-ス「音羽状城

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鳥居平城

2013年09月01日 | 滋賀百城

 

 

 

 

  • 所 在 地  蒲生郡日野町鳥居平
  • 築城時期 16世紀中期
  • 標   高 224メートル
  • 主な遺構 曲輪、土塁、堀切
  • 経緯度 35° 2' 13.85" N  136° 15' 38.23" E

滋賀県の南東部、蒲生郡に位置する日野町は戦国時代の
英傑「蒲生氏郷」の生まれ故郷として知られている。中
世末
期、現在の日野町の南部過半を領していたと考えら
れる蒲
生氏は、守護六角氏の重臣として勢力を拡大する。
その頃、町の北東部にあたる東桜谷地域は「奥津保」と
呼ばれ、小倉氏が領していた。小倉氏は愛知郡小椋荘を
本拠としていたとされるが、永ぶL八年(1511)の
『永源寺文書」が右京亮・兵庫助・右京進の三家に分立
していることを記されている。中世後期には数家に分裂
していた(推定)。伝承ではその内の一家が佐久良に移
り城を築いたとされる。

この両者は、応仁の乱以降に、姻戚関係にあり、京から
永源
寺に逃れて来た五山の僧を保護し、傑出した武将で
あったと
言われる小倉実澄は、蒲生貞秀とは夫人が姉妹
の間柄で、
両者とも同じ細川方として京をはじめ各地を
転戦しており、良
好な関係を保つていたとされる。さら
に、実澄の孫
に当たる実光に子がなく、蒲生家から養子
(蒲生定秀三男
実隆)を迎え、ともに守護六角氏の家臣
として行動して
いたが、永禄七年(1564)、それま
で度々延暦
寺領山上郷の年貢を押領した小竹右京太夫(
伝山上城主・東
近江市)に対して、六角氏より小倉実際
に追討命令が出され
3月16日に和南山(東近江)で行
なわれた合戦において、当
主実際が討死するという事態
が起きる。3月23日に小倉右
京太夫が六角氏{佐々木
氏)に縁のある永源寺の塔頭を焼討ちし、5月1日に佐
久良において、六角方の寺倉吉六の家臣である園城式部
丞が小倉右京太夫と合戦(永禄7年5月3日付 寺倉吉
六宛 六角義弼感状)、5月23日に小倉右京太夫が永
源寺の塔頭を再び焼討ちしている事が記録に残る。この
結末は明らかでないが、後世の軍記物は、蒲生定秀が小
倉の拠点を焼き討ちしたことにより小倉氏が敗れる形で
決着したと記している。いずれにせよ、これらを契機に
小倉氏は衰退し奥津保一帯は事実上、蒲生氏が領するこ
とになったとされている。



鳥居平城は奥津保の丘陵上に築かれた城郭の1つ。この
城の東約七百
メートルの丘陵上にあった四ツ谷城(遺構
消滅・伸明寺文書にある
実隆によって築かれた「奥師城」
か?)。ごの支城として築かれたといわれる。享
保年間
に刊行された『淡海温故録附巻 古城之図』の「蒲生郡
奥津保四ツ谷古城全国」には削平地が四ヵ所描
かれ「砦」
とのみ記されているという。城主については、前述の蒲
生家家臣寺倉氏や、小倉実隆を養子に迎えたこと
で家臣
が分裂した際の一派、『蒲生郡志』が「東桜谷村大字鳥
居平の山上に在り-吉倉氏の城と云う-」と記す
ように
蒲生家家臣吉倉氏といった名が伝承としてのみ残るが、
その規模は現在確認されているだけ
でも約六百メートル
×百三十メートルにおよび、南東側に伸びる可能性があ
り一家臣
の居城とは考えられない規模である。
 遺構は、標高220~230メートルほどの東西に伸
びる低丘陵尾根上に十数箇所の曲輪が残存している。

下を前川が流れる曲輪北面は、比高約40メートルの切
り立った崖となり、鳥居平の集落がある南
面は20メー
トル程度で緩やかな斜面となっている。曲輪の平面プラ
ンは一辺約40~80メートルの規
模で旧地形に影響さ
れ、不整形のものが多く、周説明板が設置された曲輪に
残る土塁
囲に土塁を設けるものであり、石積み等か使用
された痕跡はない。主要な曲輪と
曲輪の間は一部を除き、
比高差5~10メートル前後の堀切あるいは堀切状の地

形を設けており独立性が高いものから構成されている。

 

さらに、城域は大きく.3つのブロックに別れている。
1つは西部の丘
陵先端から三ヵ所の大型の曲輪が連なる
ブロック、続いて北部と東部に小区画曲輪群、南部に帯
曲輪を伴う
標高て223.8メートルに位置する主郭と推
定される曲輪のあるY字状のブロック、さらにその南東
部に位置す
る大区画ブロックである。この内、南東部の
ブロックに関して、後世の撹乱があることを除いても他
のブロ
ックと比較すると異質で、区画が大型になってい
るにも関わらず、曲輪間の堀切や土塁の規模は高さや幅
が約三
メートルと小型化し、両斜面沿いの土塁もほとん
ど見られない。方形区画を強く意識していることと、西
のニブロックとは機能的、時期的な差があると考えら
れる。機能的には居住性は高いが、城郭として積極的な
御意識は明らかに低い事から、どちらかといえば駐屯
地的な要素が強いと思われるという。

 
現遺構の使用時期および使用者を検討してみると、立地
条件や、この規模の城郭を必要とする軍事力を有し
また
管理出来る者の候補をあげるとするならは、小倉氏や蒲
生氏の家臣レベルではなく、奥津保、さらには永
源寺方
面への侵攻時に、蒲生氏が拠点城郭として使用したと考
えられると、振角卓哉は解説する(『近江の山城 ベス
ト50を歩く』より)。
 
 

  

 

【脚注及びリンク】
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1.「近江の山城ベスト50を歩く」中井均、サンライズ
 出版

2.「近江の山城・平城 位置図、同上
3.賤ケ岳合戦・黒田官兵衛も参戦していた…秀吉の古文
 書発見、2013.5.10、毎日新聞
4.「賤ヶ岳の戦い」、Wikipedia
5.「姉川の戦い」、
Wikipedia
6.「姉川-奇襲、戦い小規模-説」2009.7.9 朝日新聞
7.「姉川の合戦再見実行委員会
8.「
横山城-滋賀県-~城と古戦場~
9.「近江 鳥居平城/近江の城郭

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