則本 昂大

2017年05月31日 | 近江の思想

   

☑ の 

作成日:2017.04.19|更新日:

♞ 則本 昂大(のりもと たかひろ)  

☑生誕:1990年12月17日-/滋賀県犬上郡多賀町大滝
☑略歴:小学生は「多賀少年野球クラブ」に所属し5年
    生からエースに。主将として全日本学童軟式野
    球大会(水戸市)出場、近畿ろうきん杯学童軟
    式野球大会(阪神甲子園球場)優勝。また、水
    泳を習い怪我をしにくい体が作る。八幡商業
    高校2年生に主戦投手。
三重中京大学進学後は
    1年秋からリーグ戦に出場。4年次の第61回全
    日本大学野球選手権大会で大会記録20奪三振を
    を記録。
2012年のドラフト会議で東北楽天ゴー
    ルデンイーグルスから2位指名。☈2013年、開
    幕戦でプロ入り初登板・初先発。※1 チームは
        初の日本一達成に貢献する。☈2014年、開幕投
    手として先発、9回1失点でプロ初完投勝利を
    挙げる。2リーグ制以降、新人から2年連続で
    開幕投手を務めたのは54年ぶり史上3人目。204
    の三振を奪い最多脱奪三振
を獲得。☈2015年、
    年連続で開幕投手となり、ルーキーから3年連
    続での開幕投手は58~60年の杉浦忠以来で2人
    目、最終的に215奪三振を奪い、2年連続の最多
    奪三振、☈2016年、2リーグ制では初となる新
    人から4年連続で開幕投手を務め、開幕を7回3
    失点11奪三振で勝利。奪三振は自己最多の216個
    を奪い、野茂英雄以来の3年連続の奪三振王に
    輝く。☈
2017年、第4回WBCの日本代表に選出。
    新人の年から続いた開幕投手の記録は4年で途
    切れる。
☑分野:プロ野球選手/投手 

☑ プロフィール

滋賀県犬上郡多賀町出身。小学生から野球を始め、多賀
中時代に投手となり県大会ベスト4。八幡商業高では2年
生からエース。三重中京大学に進学し、大学選手権で20
奪三振を記録。2012年ドラフトで東北楽天ゴールデンイ
ーグルスから2位指名を受け入団。今季新人ながら開幕
投手を務める。4月、千葉ロッテ戦にて初勝利。6月20日
現在の成績は6勝3敗。右投左打、背番号は14。

☑ 七色のスライダー投法とは

リリースの瞬間に顔が上を向く独特のスリークォーター、
❶平均球速約146km/hのフォーシーム、❷平均約131km/
hのスライダー、❸平均約136km/hのフォークの3球種で
全投球の約9割を占め、リリーフ時には自己最速98mph
(約157.7km/h)を記録。ストレートの平均回転数は2300
rpm台後半、メジャーの平均値より上回る、NPB通算の奪
三振率は9.3、3度の最多奪三振タイトルを獲得。
スラ
イダーは様々な種類に投げ分けることができ、“七色のスライ
ダー”とも称される。これは、手首が柔らかく、内側に曲げると
親指が、外側に曲げると中指が手首に届く。気迫を前面に押
し出す投球スタイルが特徴。

  May 31, 2017

☑ 夢を目標に変えて努力することが大切! 

滋賀県の広報機関誌「滋賀プラスワン」※4 のインタビ
ューで「夢を夢のままに終わらせない」を方法をつぎの
ように語たる。

小さい頃は外で遊ぶのが大好きで、近所を駆け回ってい
ました。小学校の時に野球を始め、高校まではプロはま
だ夢や憧れでしかなかったのですが、大学に入って手応
えを感じ、3回生の時、プロに行きたいという夢が「必
ずプロになる!」という目標に変わった瞬間がありまし
た。ドラフトで指名を受けた時は驚きとうれしさが入り
交じって、信じられませんでした。
 

入団が決まると地元をあげて祝ってもらい、うれしかっ
たです。開幕戦や初勝利の試合にも、地元の人が応援に
来てくれました。滋賀と本拠地東北は離れていますが、
各地で懐かしい顔に会えるのも、プロ選手ならではの楽
しみです。
 

少年野球に入った時には、「とんでもない下手」と言わ
れた僕がプロになれたのは、周りに助けられながら、あ
きらめずに続けてきたことが花開いたのだと思います。
夢を夢のまま終わらせるのではなくて、目標に変えて
力することが大切だと、滋賀の子どもたちにも伝えたい
ですね。
 

♚ 名言集 

♟ 気持ちのこもった球やったら、強いかな。田中さ
  んはまっすぐもスプリットもスライダーも、すべ
  てが強い球だから、あれだけ勝てる。僕もスライ
  ダーやフォークが強くなってきた。強い球は、ま
  っすぐだけじゃない。
 

♟ 調子の良い時と悪い時の差が激しいので、それを
  無くしていくことが課題。

♟ 素直に、監督に褒められたことがうれしい。約2
  年間ない、というか常に怒られているので。

♟ やはりコントロール がすべてですよね。どの球
  種でもカウント取れますし、三振も取れます。
 


May 17, 2016


【エピソード】
    

  
  

  

● 楽天イーグルス誕生びの歴史

本筋からそれるが、彼が所属する楽天イーグルの誕生に
は少し関係があった。2004年の6月に堀江社長が近鉄球
団の買収を表明近鉄側は拒否するが、同年8月、ライブ
ドアが近鉄球団買収が認められない場合、新球団設立申
請することとパリーグへの新規参入を希望する。翌月15
日、今度は楽天市場が新規参入の意思を表明、翌日ライ
ブドアが宮城球場をフランチャイズ球場にすることを発
表し日本プロ野球への加盟を申請する。24日は、楽天も
宮城球場をフランチャイズ球場にし日本プロ野球への加
盟を申請を行う。以降、楽天とライブドアとの公開ヒア
リングが開始され、東北楽天イーグルスとライブドアフ
ィニックスの2社競合する格好で、11月2日
オーナ会
議で新規参入球団は東北楽天イーグルスに決定される。

仕事の関係で仙台を往復、たまたま乗り合わせた
タクシ
ーの運転手が、過去にも宮城球場がフランチャイズ球場
となったが採算が合わず撤退しているが本当に大丈夫な
のかと訊くので、小泉政権下のITバブルやパリーグの
隆盛もあり大丈夫ですよ今回はと、随分と無責任な返事
をした記憶がある。何のことはない東日本大震災の罹災
ということもあった盛況の勢いはとどまらない。その7
年後には則元選手が入団し、翌年には新人で初の開幕・
先発投手として登板、その年にチームは初の日本一達成
するという強運の持ち主である。
 

【脚注及びリンク】
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  1. 則本 昂大 Wikipedia 
  2. 楽天・則本昂大を覚醒させたライバルの存在 集
    英社 スポルティーバ 公式サイト 
  3. 楽天・則本投手が母校の多賀町大滝小を訪問 朝
    日新聞デジタル 2016.12.22
  4. プロ野球・東北楽天ゴールデンイーグルス 則本
    昂大選手/滋賀県 2013.07.01 
  5. 東北楽天ゴールデンイーグルス Wikipedia
  6. 県出身7選手加盟のプロ野球県人会発足 朝日新
    聞デジタル 2016.05.17 
  7. 滋賀県出身の人物一覧 Wikipedia   

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海北 友松

2017年05月26日 | 近江の思想

   

☑ か

作成日:2017.05.26|更新日: 

♞ 海北 友松    

☑生誕:1533 ~1615近江国坂田郡(現・滋賀県米原市)
☑略歴:桃山時代の画家。小谷城主浅井長政の重臣海北
        綱親の子として、坂田郡田根庄に生まれる。若
        くして洛東、東福寺にはいって禅僧となる。画
        を狩野元信に学ぶ ☈1573年(天正元)の織田
        信長による小谷城攻略により一族みな戦死、

    俗(
41歳) 友松は名を紹益といい、近江佐々木
    の流れをくむ、☈彼の作品は京都の建仁寺本坊
        や塔頭(たっちゅう)、花園妙心寺などにつた
        えられ、重要文化財指定される。友松の画は人
        物・鳥獣・山水とあり、金壁に濃彩のものもあ
        るが、本領は水墨画。墨は五彩をあらわし、

    宇雄大にして気品のある画をえがいた。1615年
        (元和元)、83歳没す(『滋賀県百科事典』)。

☑分野:画家/日本画


☑ エピソード
✓ 桃山画壇の巨匠
近江の戦国大名・浅井家に仕え、「家中第一の剛の者」
とうたわれた綱親を父に持つ、その父や兄を戦で次々と
失う中、武門の再興を夢見ながらも、刀を絵筆に持ち替
え戦国の世を生き抜き、やがて独自の画境を拓き、京都
の名だたる寺院を舞台にその才能を花開かせ、天皇や宮
家に筆をふるう。



✓友松は春日局の父と親友
明智光秀の重臣・斎藤利三と真如堂の東陽坊長盛、そし
て友松は心を通わせる輩(ともがら)、利三は本能寺の
変の咎〔とが〕で処刑され、遺骸が曝され、それを見る
に忍びなく友松は長槍を揮って警備を撃破し、その隙に
長盛が遺骸を奪い真如堂に手厚く葬る。この武勇伝が真
実かどうかは別にして、真如堂には利三と友松の墓が並
んで立つている。

『海北家由緒記』によると、本能寺の変後、友松夫妻は
斎藤利三の妻子をかくまう。その利三の子がのちに徳川
家光の乳母となる春日局、友松没後、妙貞※4や友雪※3
を江戸に呼び歓待する。下画(海北友松夫妻像)の中で
妙貞が着る三葉葵の紋付と縞の小袖は、その局から拝領。



✓心は武士と芸家のパラレルワールド
友松が因幡国鹿野城主・亀井茲矩〔これのり〕に良馬を
所望し送られた馬が気に入らず送り返えすとともに、自
ら探し出し、派手な衣装を身にまとって乗り回したと伝
えられている。武士の気概と、一切の妥協を許さない芸
術家うかがわせるエピソードである。

武士の出身である、誤って芸家(絵師)に身を落としてし
まった。あわよくば時運に乗じて武門再興をはかりたい
と友松は語っていたという。が、雑念を振り払い、画道
に邁進し今遺る優れた作品群を残す。

   

 【エピソード】    

  
  

【脚注及びリンク】
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  1. 海北 綱親 Wikipedia 
  2. 北 友Wikipedia 
  3. 海北 友雪 Wikipedia
  4. 妙貞 バビアン Wikipedia 
  5. 特別展覧会「海北友松」京都国立博物館
  6. 建仁寺大中院の海北友松画 成安造形大学教授 小
    嵜善通 京都市文化観光資源保護財団 
  7. 瓜生館(海北氏館) 近江国(浅井) -近江の城郭探
    2014.07.05 
  8. 須賀谷温泉のブログ - 海北友松没後400年法要同
    2015.06.30 
  9. 海北友松の代表作品・経歴・解説 
  10. 滋賀県出身の人物一覧 Wikipedia  

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霊仙 三蔵

2017年05月20日 | 近江の思想

   

☑ り

作成日:2017.05.20|更新日: 

♞ 霊仙 三蔵    

☑生誕:759 ~827近江国坂田郡(現・滋賀県米原市)※1
☑略歴:
・759年(天平宝宇三年):霊仙誕生
・804年:第十八次遣唐使の一人として渡唐
810年:「大乗本生心地観経」の翻訳にたずさわる
811年:翻訳完成。三蔵法師の号を与えられる
・820年:皇帝憲宗暗殺。雲仙長安を去り五台山へ移る
・822年:貞素が霊仙の書状を日本の嵯峨天皇に届ける
・827年:霊仙、霊境寺の浴室院で薬死する※1       
・828年:貞走、五台山に戻り霊仙の死を知る
・839年:霊仙の書き記した「大元帥法」が日本に伝わる
・840年:円仁(のちの慈覚大師)五台山を訪れる
・1913年:石山寺で「大乗本生心地観経」巻-の古写本発
     見。この経典が日本人(霊仙)によって漢訳され
         たことがわかる。
☑分野:僧侶/宗教家

☑ プロフィール
日本の平安時代前期の法相宗の僧。日本で唯一の三蔵法
師。出自については不明であるが、近
江国(現・滋賀県)
の出身とも阿波国(現・徳島県)出身とも伝えられる。
「霊船」「霊宣」
「霊仙三蔵」とも称される。霊仙の出
自については幾つかの説があるが、滋賀県醒井の松尾寺
住職等の努力により2000年(平成12年)「霊仙三蔵顕彰
の会」が発足し、「霊仙三蔵記念堂」※3 が松尾寺内に
設けられた。霊仙三蔵記念館に寄れば霊仙は、息長氏丹
生真人族※4 の中より霊仙山麓の地に生まれ、幼くして
仏門に入り金勝寺別院霊山寺、その後興福寺で学んだと
されている。



渡唐、霊仙は卓越した才によって,梵語(サンスクリット
語)を
修得。石山寺で発見された『大乗本生心地観経』
の筆受並び
に訳語の重責を果したことで当時の大唐国憲
宗皇帝から認め
られ、『三蔵』の称号を贈らる。号を賜
った高僧は、仏教発祥の地インドでは般若他四名、中国
では玄奘他一名、西域で一名、日本で一名と、世界中で
わずか八名。

 

♚ 大乗本生心地観経とは何か
『本生心地観経』『心地観経』と省略されてよばれるこ
ともある。仏道を成じて悟りに到達するためには,出家
して静かな場所に住し、すべての根源である心の中から
あらゆる煩悩の炎を消すことが大切である。ということ
が説かれる。心地というのは、ちょうど大地があらゆる
生物を生ずるように、人間の心こそが、清濁いずれの境
地をも生ずる源泉であり、出家者の修行について説いた
経典とされる,

尚、全体で13章あるうちの第2章に「報恩品(ほうおん
ぼん)」というのがあり,そこに父母・衆生・国王・三
宝の四つに対する四恩が記述され、日本でしばしば用い
られている。また、米原市枝折の醒井小学校周辺にある
三大寺廃寺からは、白鳳時代の瓦や建物基壇が発見され、
息長丹生真人一族の氏寺と考えられている。天武天皇
の時代、息長氏は天武八姓の第一位の「真人」姓を賜り
「丹生」は、赤色の顔料である丹が産出する土地の地名
で、この丹は古代に好んで用いられ、
奈良時代の『正倉
院文書』には、息長丹生真人氏が多く登場。この一族は
奈良の都にいて、画工司の令史や画師、造東大寺司の
画所領であったことが知られ、朝廷の画師集団として
寺院の造営などにかかわっていた。



☑ 霊山三蔵をめぐる歴史
✓ 霊仙山をめぐるひとびと:息長丹生真人一族
霊仙山麓の下丹生古墳(米原市指定文化財)は、古墳時
代後期(6世紀後半頃)の横穴式の石室がほぼ完全に残
っていて、中に入って内部を  観察することができる貴
重な古墳。古墳の被葬者は、豪族息長氏から分かれてこ
の地に進出した息長丹生真人(おきながのにうのまひと
一族の祖先(水銀製造技術をもつ渡来人)と伝わる。
※2,4,12


✓ 憲宗暗殺:霊仙不帰に由来する事件/事変:820年
長男の鄧王・李寧(恵昭太子)が19歳で早世すると、憲
宗はその悲しみから仏教や道教に耽溺、法門寺の仏舎利
を長安に奉迎することを計画し、韓愈の「論仏骨表」に
よる諫言を退け、莫大な国費を費やして供養を行い、丹
薬を乱用し精神的異常をきたし宦官を虐待。このため宦
官の王守澄や陳弘志らによって43歳で暗殺される。※13

✓ 大元帥法:霊仙唐で書き留める
大元帥法(だいげんすいほう)は、真言密教の大法(呪
術)の1つ。大元帥明王を本尊として、怨敵・逆臣の調
伏、国家安泰を祈って修される法で、承和6年(839年)
常暁が唐から法琳寺に伝えた。翌年、常暁は大元帥法の
実施を朝廷に奏上し、仁寿元年(851年 )に大元帥法を
毎年実施することを命じる太政官符が出され、この年に
成立したと言える。以来、毎年正月8日から17日間宮中
の治部省の施設内で行われる。必要な備品などは常暁ゆ
かりの大和国秋篠寺が調達。後には醍醐寺理性院の僧
侶が大元帥法を行う慣例も成立する。※14

✓ 飛行観音伝説
飛行観音を御本尊とする松尾寺は、航空機利用の多い昨
今、“空の安全、心の安寧”につとめ、飛行安全、厄除
け祈願をおこなう。航空利用者のお参りも多く、豊かな
歴史遺産の中での森林浴やウォーキングの場としても人
気を集め、また近江西国三十三観音霊場第十三番札所、
びわ湖百八霊場第五十番でもある。

御本尊の「空中飛行」に関する寺伝、役の行者、中興の
祖、松尾童子の師、三修上人は空を飛んだり、びわ湖の
上を走ったりすると伝えられ、ま
た、松尾寺には、山内
を守る天狗がいて、木々の間を自由自在に飛びまわり、
悪事をこらしめる“天狗の爪”や 馬が松尾寺山頂の一
本杉から伊吹山に向かって飛んだという伝説があり、そ
の“馬の角”が伝えられるなど、不思議な寺宝が存在し
古来より、空を飛んでみたいと願ってきた人々よりどこ
ろの寺となっている。

尚、昭和十年の松尾寺秘仏御開帳の際には、岐阜県各務
原飛行学校から長さ約3メートルのプロペラが奉納され、
現在も松尾寺内に保存されている。※15

【エピソード】    

  

【脚注及びリンク】
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  1. 霊山 Wikipedia 
  2. 息長氏 Wikipedia 
  3. 霊仙三蔵記念堂 米原市 
  4. 息長氏 - 好々彦の神代文化考 
  5. 醒井楼山麓の梅花藻 - 極東極楽 ごくとうごくら
    2017.05.14 
  6. 日本を救った、日本人の三蔵法師の物語 - 舞黒一
    太郎の優雅な電脳日記 2005.03.17
  7. さんどう会編『霊仙三蔵と幻の雲山寺』サンライ
    ズ出版
  8. NHK取材班・鎌田茂雄『仏教聖地五台山~日本
    人三蔵法師の物語』日本放送出版協会 Wikipedia
  9. 頼富本宏『波濤を超えて決死の渡海~日中を結んだ
    仏教僧』農山漁村文化協会
     
  10. マンガ霊仙三蔵 発行 雲仙三蔵顕彰の会 事務局:
    滋賀県米原市醒ケ井 作家 すずき孔
  11. 普門山定光院 松尾寺(飛行観音) 
  12. 霊仙山と松尾寺の文化財 - 滋賀県教育委員会
    2012.10.23 
  13. 憲宗暗殺(中国/唐時代) 
  14. 大元帥法 Wikipedia 
  15. 飛行観音伝説 松尾寺 渓流魚料理のお店 醒井楼a 
  16. 松尾寺山の里山整備活用事業 夏原グラント 
  17. 滋賀県出身の人物一覧 Wikipedia 

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藤堂 高虎

2017年05月16日 | 近江の思想

   

☑ と

作成日:2017.05.16|更新日: 

♞ 藤堂 高虎    

☑生誕:1556 ~ 1630/近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀
        県犬上郡甲良町在士)

☑略歴:土豪・藤堂虎高の次男として生まれる(長兄・
    高則は早世)。藤堂氏は先祖代々在地の小領主
    であったが、戦国時代にあって没落、帰農する。
    幼名を与吉と名乗った、☈その後、浅井長政に
    仕え、1570年15歳)姉川の戦に浅井方として出
    陣し功を立てる、☈1573年 (18歳)浅井長政
    の元を去り、同様に長政に見切りをつけて織田
    信長についていた阿閉貞征に仕え、3ヶ月で見
    限り、同じ信長方の磯野員昌に仕える、☈
1576
    年(21歳)
磯野員昌の元を去り、羽柴(豊臣)
    秀吉の弟、羽柴(豊臣)秀長に仕え、
信長の安
    土城築城に参加し、このとき築城術を学ぶ、☈
    
1577年(22歳)中国の毛利家攻略にあたるべく
    主君羽柴(豊臣)秀長とともに播磨国に赴任。
    
豪族を調略に成功、☈1580年(25歳)播磨国の
    三木城兵糧攻めに参加。
1582年(27歳)山崎の
    戦で、秀長の先鋒をつとめ功を立てる。
1583年 
    (28歳)
賤ヶ岳の戦で、柴田方先鋒の佐久間盛
    政を敗走させるなど活躍。
1584年(29歳)
    牧・長久手の戦で、伊勢国松ヶ島城攻めで功を
    立てる。
1585年(30歳) 紀州攻めでも活躍。
    水軍で有名な熊野党に知己を待つ。
主君豊臣秀
    長が紀伊国と和泉国の領主になり、和歌山城の
    普請奉行に。
四国攻めで貢献、☈豊臣秀長が大
    和国も拝領し110万石の大大名になると、1万石
    を拝領。1587年(32歳)九州攻めで貢献。1591
    年(36歳)豊臣秀長の死により、養子の豊臣秀
      保が家督を継ぎ、高虎も家老に。☈1592年(37歳)
    文禄の役では朝鮮へ渡海。1594年(39歳)豊臣
    秀保の変死により出家、高野山へ。
その後豊臣
    秀吉に呼び戻され、伊予国板島(現在の宇和島)
    7万石を拝領、丸串城(宇和島城)主に。
その
    後大洲城を居城に。
1597年(42歳)慶長の役(
    第二次朝鮮出兵)では、朝鮮水軍に勝利活躍。
    
1598年(43歳)帰国後、板島丸串城を改修し、
    宇和島城と改称。
豊臣秀吉の死後、徳川家康に
    接近、
☈1604年(49歳)今治城を築城。1608年
    (53歳)伊賀国一国と伊勢国8郡、合計23万石
    に加増の上転封、伊勢国津藩主に。津城を居城
    に。伊賀上野城を大改修し、日本一の高石垣や
    5重の天守を築く、☈1614年(59歳)~ 二度
    の大坂の陣(大坂冬の陣、大坂夏の陣)でも、
    徳川方として参戦。戦後は、徳川家康を守った
    功により32万石に加増される。1620年(65歳)
    徳川和子の入内の際、その露払いをつとめる。
    1630年(75歳)死没。

☑ プロフィール

藤堂高虎は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・
大名。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。
藤堂家宗家初代。何度も主君を変えた戦国武将として知
られる。築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・
津城・伊賀上野城・膳所城などを築城し黒田孝高、加藤
清正とともに名人として知られる。高虎の築城は石垣を
高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣の反
りを重視する加藤清正と対比される。



✔ 江戸時代の設計者 異能の武将・藤堂高虎

伊予藩主・藤堂高虎は外様大名としては異例の信頼を幕
府から得た。それは彼が日本で初めて「藩」を構想しえ
た政治家だったからだ。司馬遼太郎に「世渡り上手」と
酷評された藤堂は、身長190センチメートルの偉丈夫にし
て、きめ細かな築城術にたけたテクノクラート。しかし、
彼がもっとも評価されるべきは、豊臣時代の中央集権に
限界を見出し、地方分権国家を構想して近世の扉を開い
たことにある。


☑ 平和志向のサバイバー高虎
 

近江国(滋賀県)出身の戦国大名は、たくさんいる。か
かわりを持ったという意味でいえば、
織田信長を筆頭に
豊臣秀吉、その甥の秀次、そして明智光秀などもそうだ
しかし、純粋に近江国出身者にかぎっていえば、次のよ
うな人々だ。浅荘長政、長康正家、
蒲生氏郷、石田三成、
片桐且元、増田長盛(尾張出身という説もあ否、木村重
成、藤堂高虎など
だ。多少歴史に関心をお持ちの方はす
ぐお気付きだろうが、この中で、藤堂高虎は最後まで生

き残った人物の一人である。他の大名は滅びてしまった。

藤堂高虎は、近江国犬上郡藤堂村(現在の甲良町)の出
身である。甲良町には、八幡神社があっ
て、そこに見事
な藤がある。幹の大さが1メ
ートル近くで、棚までの高
さが約三メートルある
という。毎年、美しい花を咲かせ
る。この藤は、高虎から八代前の藤堂景盛が、石清水八
幡宮
にあった藤を二株もらってきたのがはじめで、藤堂
という姓も、この藤にちなんだのだといわ
れている。 

藤堂家では、高虎以後代々八幡神社に維持費を寄進した。
そのため、八幡様のほうでは、毎
年藤の花が咲くと、一、
ニ房を必ず藤堂家へ献上するという。藤堂家では、この
花を見ながら
藤見の宴を行うのが例になっていて、しか
も、このならわしは現在も続いているという。

このように、藤堂高虎を始祖とする藤堂家は、現在も連
綿として続いている。多くの戦国大
名が滅びてしまった
のに、藤堂高虎だけが、なぜ見事に生き抜いたのだろう
か。しかも彼は、
伊達政宗とともに、戦国期を生き抜い
たサバイバーとして、外様大名の中では、徳川幕府の重
鎮としての位置を占めた。藤堂高虎と伊達改宗の二人だ
けが、徳川時代に入っても、三代目の
将軍家光の頃まで
生き抜いたのである。

         ―― 中略 ――

彼が平和を願っていたというのは、近江国に生まれ、近
江国で育ったためである。近江国は、かつては佐々木源
氏が四〇〇年にわたって支配していた。ところが、織田
信長によって佐々木氏の本宗、六角氏が滅ぼされると、
その後近江国には際立った大名が育っていない。そのた
め、近江の民衆は放置され、戦国大名の渫頚する中を逃
げまどった。だから、日本列島の中でも近江の民衆ほど、
「早く戦争が終わって、平和な生活を営みたい」と願っ
た人々はいない。

藤堂高虎は、近江の民衆を通じて、そのころ生きていた
日本の戦国民衆のニーズを知っていた。そのニーズの最
大のものは、「早く日本を平和にしてほしい」というこ
とであった。農村は戦国大名に踏み荒らされ、また町は
放火で焼かれる。いつも生命と財産が不安だ。生きてい
る空がない。そんな思いを早く終わらせて、家族と共に
平和で豊かな生活を営みたいと願うのは、いつの時代で
も同じである。藤堂高虎は、そういう民衆のニーズの実
現をほかっていた。

その意味では、彼がやりたいことを実行するうえで、戦
争に強い大名という評判を立てられるよりも、平和を願
う大名だといわれているほうが、よほどよかった。高虎
はそういう路線を狙っていた。したがって、それまでの
戦争に大した勲功を立てず、また朝鮮侵略で連戦連敗を
重ねたことは、彼にとっては決して不名誉ではなかった
のである。

徳川家康もまた、いろいろいわれているが、究極的には、
「日本を一日も早く平和にしたい」と願う大名であった。
心の底にあるそういう願いで、徳川家康は、藤堂高虎こ
そおれと同じ志を持つ大名だという判断を下したのであ
る。だから、徳川家康と藤堂高虎の一面だけをとらえて、
「彼らは、互いに狸おやじとしての謀略性を認め合って
仲が良かったのだ」と考えるのは間違いだ。戦国大名の
中でも、徳川家康ほど平和を願った大名はいないし、ま
た藤堂高虎ほどその徳川家康の志を見抜いていた者もい
なかったのである。

徳川家康の指示によって、藤堂高虎は見違えるような仕
事をした。見違えるような仕事をしたというのは、合戦
は連戦連敗だった彼が、見事に日本軍を全員朝鮮から日
本に引き揚げさせたのである。このあざやかさは、人々
の評判になった。高虎は満足だった。それは、はじめて
自分の得意な能力を人々が認めてくれたという実感を持
てたからである。

      童門 冬二 「歴史に学ぶ生き残りの戦略」


順序は前後するが、童門は、藤堂高虎の特徴(特異性)
を以下のように挙げている。蓋し優れた見識であろう。

✓平和志向者であった。
✓時の流れを見抜く力を特っていた。つまり、時代に対
 する予見力を持っていた。

✓パフォーマンス(自己表現)志向が強かった。
✓目的に対する自分の能力の不足をよく認識していた。
 したがって、その不足分を他人の能
力によって補った。
✓自分の能力不足を補うだけでなく、特別技能者の組織
 化、集団化が得意だった。その特別
技能者も、どちら
 かといえば社会の底辺や陰に生きる者を組織した。組
 織しただけでな
く、そういう社会の底辺や陰に生きる
 特別技能者に、市民権を与えてこれをひなたに出し
た。
 たとえば、大工、石工、忍者などである。

✓かなり謀略姓に富んでいたが、主人に対する忠誠心は
 無垢で堅かった。

✓人の使い方が抜群で、情のかけ方が際立っていた。 

♚ 名言集

♟つねに良き友と咄(はな)し、異見を請け申すべく候
 
♟武士たる者、七度主君を変えねば武士とは言えぬ

♟寝屋を出るより、その日を死番と心得るべし。かよう
 に覚悟をきわまるゆえに、ものに動ずることなし


【エピソード】    

 

【脚注及びリンク】
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  1. 藤堂高虎ふるさと館 観光拠点、いざ開業 地元食
    材の喫茶・食事所も 甲良 毎日新聞 2017.05.06 
  2. 戦国を武勇と知略で切り開いた武将 津藩祖 藤
    堂高虎 
  3. 高山公実録 藤堂高虎伝 全2巻 
  4. 戦国大名 藤堂高虎の故郷で古民家を再生し「農の
    暮らしと歴史」を伝えたい! - FAAVO滋賀 
  5. 上野東照宮と藤堂高虎の墓 
  6. 藤堂 高虎 Wikipedia 

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蒲生 氏郷

2017年05月08日 | 近江の思想

   

☑ が

作成日:2017.05.08|更新日: 

♞ 蒲生 氏郷    

☑生誕:1556 ~ 1595/近江国日野蒲生(現:滋賀県蒲
    生郡日野町

☑略歴:六角承禎の家臣で近江国日野城主、蒲生賢秀の
    三男(嫡男)として生まれる。☈1568年(13歳)
    六角承禎が上洛に向かう織田信長に追われた際、
    父が信長に臣従し人質となり岐阜城で過ごす。
    ☈1569年(14歳)信長の娘冬姫と結婚、☈1582
        年(27歳)本能寺の変で織田信長自害、信長の
    妻子を父蒲生賢秀とともに保護、居城である近
    江国日野城に籠り明智光秀に対抗。☈1584年(2
    9歳)豊臣秀吉に仕え伊勢国松ヶ島城主12万石を
    拝領、☈1590年、
奥州仕置を経て陸奥国岩代会
      津へ転封、黒川城(会津若松城)主、城下町を整備
      若松と改め城を改修し鶴ヶ城と改名、☈1595年(40
      歳)
 名護屋の陣中で病気となり、京都伏見で死没。

 

☑ プロフィール

文禄四年(1595)、戦国の世を駆け抜けた一人の武将が
40歳という若さで病に倒れ、この世を去る。
彼は弘治2年
(1556)、名門蒲生家の跡取りとして
誕生。13歳の時、
蒲生家の人質として織田信長の
もとに送られる。これが
彼の運命を決定づける。
14歳の氏郷は信長の部下として
伊勢大河内城の戦
に初参戦。大きな手柄を立てた氏郷に
対し、信長
は身柄開放と娘の冬姫との婚姻で報う。

日野に戻った後もさまざまな戦で自ら先頭に立って闘う
強者ぶりを見せる一方、氏郷は信長のもと
で学んだ城下
町づくりの手法を取り入れ、領内の
行政、経済の改革に
着手。日野は大きな繁栄の時
代を迎えました。そんな彼
のもとに、信長絶命の
悲報が届いたのは天正10年(1582)
のこと。氏郷
は信長一族を守るため、日野城に立てこも
るが、
光秀の反乱は天王山の合戦であっけなく終結し、
秀吉の傘下に入ることを決めた氏郷は、反乱を企てた北
畠氏と伊勢で激突。次々と敵城を攻略し、
伊勢を平定。
この功績により、氏郷は伊勢松が島
城主として転封。さ
らに会津に移り、92万石の大
名となる。 

1556 蒲生氏郷、日野に生まれる。
1568 鶴千代(氏郷の幼名)、信長の人質となり、岐阜城
     へ入る。この時13歳。

1569 14歳で父賢秀と共に伊勢国大河内城に初陣。
1570 元服し、忠三郎賦秀と名乗り、信長の娘、冬姫と結
     婚。

1582 本能寺の変で信長自害。賢秀は直ちに安土城の信長
   の妻子を日野城に移す。
氏郷は日野城下に掟を下し、
     楽市を奨励し、商業を保護する。

1584 氏郷が伊勢国、嶺城、加賀井城を攻める。この功績
     によって、氏郷は、伊勢松ヶ島城12万石に転封とな
     り、6月半ば、代々住み慣れた日野を後にして、大勢
     の家臣・職人を連れて、伊勢国へ赴く。この年より
     氏郷と名乗る。

1588 松阪城が完成し、松阪城へ移る。松阪の城下町に日
     野町ができ、日野の商工人が続々と移住。

1590 氏郷、秀吉の小田原出兵に従軍。8月功により、会
     津黒川城42万石に転封となる。後に黒川を若松と改
     名。会津92万石の城主となる。

1591 これより日野と奥州との関係が生まれ、後の日野商
     人の繁栄の基となる。

1592 文禄の役のため、九州に赴く途中、中山道武佐宿に
     て、故郷の綿向山を仰いで、望郷の歌を詠む。


1595 京都にて病に倒れ、大徳寺に葬られる。40歳


蒲生氏郷は千利休の弟子・利休七哲の筆頭として茶湯に
も深い知識があったと
され、蒲生氏郷は千利休の弟子・
利休七哲の筆頭として茶湯にも深い
知識があった。そし
て、友には細川忠興、高山右近がい
る。蒲生氏郷をキリ
スト教徒に誘ったのは高山右近。
最初は嫌がっていた蒲
生氏郷も説教を閲いて感動、洗礼
を受け「レオン」とい
う洗礼名を賜わる。
死する寸前まで蒲生氏郷の傍にい
たのも
高山右近であった※7彼は、イタリア人宣教師
を家
臣に迎え、ローマヘ使節団を送ろうとしたほどの
烈なキリスト教信者でもあった

 

会津塗誕生秘話
 織田信長が死んだ後、とんとん拍子に天下人になった
豊臣秀吉は、蒲生氏郷を警戒し
た。それはまわりの者が、
「信長公の後を継ぐのは蒲生氏郷ではないか」という
評判をしきりに立てたからである。秀吉は氏郷を(会津
福島県)に移動させ
た。石高は倍以上にした。これもま
「給与を増やして中央から遠ざける」という敬遠人事
である。新しく、氏郷が領有するようになった地域は
「黒川」といっ
た。ここにも当然黒川商人がいた。氏郷
についていったのが今度は松阪商人だ。この松
阪商人の
中には今まで書いたように、伊勢の商人と日野の商人が
ミックスし、すでに摺
り合いが終って完全な松阪商人に
なっていた。しかし、会津に行けば同じことが起る。

 つまり黒川商人が在来の権利を主張し、松阪商人は、
「新領主に信頼されている」
という権益を主張する。ぶつかり合いが起った。氏郷は
ここでも松阪でやったのと同
じ方法をとった。つまり、
「新しい地名を設定することによって、古い商工業者と
新しい商工業者の混合をはか
る」ということである。新
しい地名として、「会津若松」という地域名を設定した
。おめでたい名前だ。黒川という地名が暗い感じがした
ためだ。福島県では、
「当時、杉妻(すぎのめ)といっていた地域を福島とい
うおめでたい地名にしたのも蒲生氏郷だ」
 という説が残されている。
 こうして、伊勢の松阪と同じように、会津黒川は、会
津若松と地名変更をした。東北における新しい革袋とし
て氏郷は会津若松を設定した。黒川商人も松阪商人もと
もに「会津商人」と変った。このとき、氏郷はお土産を
持っていった。

 それは日野名物である「日野椀」といううるし工芸品
を、そのまま持ちこんだことである。器用な会津地方の
技術者たちは、たちまちこれを自分のものとし、会津地
方の名産品に変えた。現在の「会津塗」と呼ばれるもの
だ。氏郷についていった技術者の中には日野出身の者も
いるのだから、
「なにが会津塗だ、あれは日野椀だ」という者もいたに
ちがいないが、しかし、氏郷の、「古いことは忘れろ。
新しい地域で積極的に生きろ」という趣旨に圧倒されて
、日野出身の技術者たちも沈黙した。というよりも、自
分たちのほうが、積極的に会津地方の技術者に対し指導
を行った。説によっては、「こけし人形も氏郷が持ちこ
んだものだ」というものもある。真偽はわからない。し
かし、このへんの氏郷の商工業者に対する心づかいは素
晴らしい。

 というのは、若松という地名はもともとは日野のもの
だからだ。
現在も日野に綿向(わたむき)神社というお宮がある。
このお宮は近江商人の信仰が篤く、商人たちは、行商に
出る前に必ず参詣する。そして、旅の安全とほどほどの
利益を祈願する。やがて、行商から戻ってくると、商人
たちは得た利益の一部を必ずこのお宮に献納した。木を
植えたり、あるいは傷んだ神社の建物を補修したりした。

 この綿向神社の所在地を「若松の森」という。だから、
このことを一番知っていたのは日野出身の商工業者だ。
彼らにすればいく先々で氏郷が四五百の森を松阪に変え、
また会津黒川を若松に変え、
「その中に溶けこめ」
 と氏郷に命ぜられる。その言葉に従った。しかし、心
の底では、
(氏郷様は、最後までわれわれのことを考えてくださっ
ている)
 と思っていた。松阪といい若松といい、そのおめでた
い地名はすべて日野に発している、という自信があった
からだ。こういう根っこのところで、「おれとおまえた
ちとは、やっぱり日野の出身なのだぞ。心と心はしっ
かりと絆で結びついているぞ」
 という氏郷の気持ちは、最後まで日野からついていっ
た商工業者たちの胸に刻みこまれていた。

         童門冬二 著 『蒲生氏郷の知恵』

 黒漆塗燕尾形兜

         

 

【エピソード】    

 


【脚注及びリンク】
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  1. 蒲生氏郷 | 日野町ホームページ 
  2. 岩手県立博物館 ~岩手山を望める丘のミュー
    ジアム~ 
  3. 蒲生氏郷 | 歴史の魅力 
  4. 蒲生氏郷 - わたしたちの松阪市 
  5. 織田信長と蒲生氏郷 ~大将たる者の振る舞い |
    織田NOBU株式会社
  6. 幸田露伴 蒲生氏郷 青空文庫 
  7. 蒲生氏郷 - 逸話 - Weblio辞書 

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