目加田城

2014年12月31日 | 滋賀百城



 

 目加田城は湖東平野に流れる宇曽川の支流の岩倉川に
沿った平地域館である,域は目加田集落の南西隅に位置
し、現在はかなり宅地化か進行しているが、地籍図や郡
志によれば以前は四周に土塁と堀が残る藪地であったこ
とがわかっている,
 城主と伝わるのは在地の上豪である目賀田(目加田)
氏である。南北朝期には御家人の目加田玄向が近隣の犬
上・愛知郡の国人・土豪等と共に、北朝方の細川氏・六
角氏の配下として畿内を転戦している。また別涙の目賀
田氏もおり六角氏の下で守護代や郡奉行を務めていたよ
うである。戦国期にも六角氏の家臣となって、天文7年
(1538)の坂田郡出兵や永禄2年(1559)の肥
田城水攻めに参加している。また、天文四年の多賀大社
梵鐘銘にも目賀田の名がみえ、中世後半を通してこの地
に居住し活動していたとみられる。

 さて、現在の城跡は宅地化されながらも愛荘町の指定
史跡として公園整備がなされ解説板も設置されている。
公民館の南側に芝が張られた高さ約三メートルの土塁が
L字形に残り、その東隣にも竹薮の中に「弁天山」と配
がついた土塁が残されている,

『近江愛智郡志』」第三巻の図によれば、北面に湾入し
た箇所がある他はほぼ土塁・堀に囲まれた方形に描かれ、
東面の堀は南半分の幅が広くなって岩倉川へつながって
いる。これは地籍図でもほぼ同様で内部は荒地、東側を
中心に堀の内側は竹藪となっている。
 これらの記録を現状にあてはめると、公園に残る土塁
と「弁天山」の間が堀の湾入する箇所にあたり、公民館
の東側を流れる水路の南続きが堀であったことがわかる。

 

岩倉川へつながる城跡の南東隅は削平され堀も埋められ
ているものの、やや高く土塁の痕跡を留めている。
また、
城跡の南・西面をめぐる道路の内側も堀であった
ことや、
河道改修以前は県道と城跡の間の水路が岩倉川であった
ことは明らかであろう。図では南面中央に門が開口して
おり、城跡南西隅に「馬場]の小字が残ることも加えて、
集落とは反対の南面が正面だったとみられる。集落側の
北.面西端にも小さな橋が架かっていたようである。

 岩倉川や宇曽川は、犬上川や愛知川など渇水期に水の
切れやすい湖東平野の河川の中では、水量が比較的安定
している。前述のように岩倉川と堀は水路でつながって
おり、束面の幅広の堀と合わせて、北面の湾入する箇所
が舟人と考えられるなど、河川交通や舟運を意識した構
造になっ・ていたようである。

 ところで伝承によれば目加田の集落は元は北隣にあり
後に現在地へ移転させられたという。そして、現状では
わかりにくいが地籍図によると目加田集落は岩倉川の蛇
行する波路を利用し周囲を水路で囲まれており、目加田
域はその内部に位置している,

 近江の平地域館をみると、集落の内部に位置するもの
や、集落の端に付属するもの、集落から離れて位置する
ものなど様々な形態がある、日加出城が南西隅とは言え
集落内部に位置することは、土豪の目竹田氏による集落
支配が比較的強いものであったと考えることができ、集
落が移転したとする伝承と合わせて、目賀田氏によって
集落の再編成や惣構えの構築が行われたという解釈もな
されている。

 なお、目加田だけではなく、隣接した豊郷町の高野瀬
(高野瀬氏)・吉田(吉田氏)・八町(赤田氏)、愛荘
町の安孫子(安孫子氏)などの集落にも在地土蒙の平地
域館が残されている。ハ町域はハ町集落の常禅寺と白山
神社の西側に土塁が残されている.高野瀬城・吉田城・
安孫子城も集落内に地割などの痕跡を残しており、石碑
や説明版が建てられている。 
                    (早川圭)

 

     

 この図をクリック 

尚、目加田氏は藤原氏の出で、鎌倉時代より御家人格として
佐々木氏に仕え、正慶元年(元弘二、1332)以後、文献上に
登場し活躍するが、分家も多く、周防岩国の吉川氏が出で、
また越中取越城主となったものもある。 目加田宗家は二郎左
衛門を名のった。貞和三年(正平二、1347)に、六角氏頼に
従い河内の藤井寺 合戦で活躍し、分家で近江八幡市の比牟礼
神社の神主職となった五郎兵衛信職は御家人であって
文武に
秀で、建武年間(1334~38)には
足利尊氏に従い、摂津・河
内・山城等の地で奮戦した、
とある。


                 「日本城郭体系11」 

 

 

 

【エピソード】

 


【脚注及びリンク】
-------------------------------------------------
1.佐々木六角氏およびその家臣団の城郭 近江の城50選.

2.探訪 湖東に残る城跡を巡る 
3.城郭探訪 目加田城
4. 朝鮮人街道 Wikipedia 
5. 『近江の城-城が語る湖国の戦国史-』中井均 サン
  ライズ出版 
  
6. 近代デジタルライブラリー- 近江愛智郡志. 巻1.2.3
-------------------------------------------------   

 

 


高浜原発再稼働

2014年12月18日 | 日誌

 

原子力規制委員会は17日、福井県の関西電力高浜原発
3、
4号機の「審査書」案を了承し、再稼働に向けた「
お墨付き」
を与えた。高島市の一部が避難計画を策定す
る30キロ圏
内に入っており、滋賀県の自治体首長や市
民団体などから
は「再稼働ありきの出来レース」「安全
協定も締結していない
のに再稼働は容認できない」など
と批判の声が上がったと伝えている(
2014.12.18「京都
新聞」)。

県の三日月大造知事は「安全協定の締結ができていない。

実効性のある広域防護体制の構築が確認できておらず、
閣府が検討する避難計画も不十分だ。再稼働を容認で
きる
状況にない」と強調。その上で「不十分なままで(
国が)原発
を動かす判断はしないとは思うが、(再稼働
決まれば)周
辺自治体とも連携して断固、抗議していき
たい」と述べたという(同上)。

また、高島市の福井正明市長は「滋賀と連携し、高浜
原発に関する安全協定の締結を関電に求めていくととも
に、(再稼働に向けた)国の手続きの動向を注視してい
きたい」とのコメントを発表したという(同上)。

同市の市民団体「ネットワークたかしまのわ」の白永昇
次共
同代表(65)=安曇川町=は「原子力規制委は国
の意向に
沿って動いている。再稼働ありきの出来レース
だ。きちんと住
民が避難できる計画が今の県や高島市に
ないのに、再稼働
を進めようとする関電や規制委は許せ
ない」と憤ったと伝えている(同上)。

福井県内の原発の再稼働禁止を求めて係争中の大津地裁
訴訟の辻義則原告団長(67)は「(自民が圧勝した)
衆院選が終わるのを待っていたかのように審査合格を判
断した規制委の動きに意図的なものを感じる」と指摘す
る。11月末には高浜原発などの再稼働差し止めを求めた仮
処分申請が却下された。「(大津地裁の判断は)安全性が万
全でない状態で再稼働はあり得ないということだった。規制委
は裁判所が指摘した未整備の避難計画の問題などの疑問に
えておらず、怒りを感じる」と語気を強めた伝えている(同上)。

 

 

【エピソード】

● 本日大寒波にて、保守反動の波高し!

再稼働は高浜だけでない「電力会社による再生可能エネ
ルギーの接続保留をきっかけに
解決に向けた議論が各
方面で繰り広げられてきた。しかし政
府と電力会社は旧
態依然の考え方に固執したままである。再
生可能エネル
ギーの導入量を抑制する一方で、停止中の原子
力発電所
は古い設備を含めてフル稼働させる方針だ。」(スマー
トジャパン 「再生可能エネルギーを抑えて原子力を最大
に、世界の潮流に逆行する日本の電力」2014.12.17)

し、

「おそらく次回の(「エネルギー)小委員会の場で、資源エネル
ギー庁が出力抑制ルールの具体的な変更案を提示すること
になる。その案の中には、太陽光発電がピークになる昼間の
時間帯に出力を抑制できる新ルールを加える可能性が大き
い。」と看破し、

「世界の主要国を見渡してみると、ヨーロッパを中心に政府が
主導して再生可能エネルギーの導入量を意欲的に拡大して
いる。アジアでも中国やインドでは風力を中心に導入量が増
加して、再生可能エネルギーの比率が高まってきた。アメリカ
でさえ原子力を縮小している中で、日本の政府と電力会社が
進む方向は時代の流れに逆行している。」と結んでいる。



【脚注及びリンク】
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1.ネットワークたかしまのわ

2.
高浜原発再稼働へ2014年10月21日 |日誌
3.関電、大飯再稼働なくても電力供給に余力 2012年07月
  27日 | 防災と琵琶湖

4.  高浜原発現地調査始まる 安全対策実効性検証 2012
  07月24日 | 防災と琵琶湖
 

5.  原子力防災訓練 2012年03月18日 | 防災と琵琶湖   
6. 琵琶湖と原発 2011年03月30日 | 防災と琵琶湖   
7. 関電・高浜原発が安全審査「合格」 再稼働は15年春以降
    日経新聞 2017.12.18
   
8. 高浜原発 再稼働の同意求める範囲など焦点 NHK 2014.
  12.17
   
9. 原子力規制委、高浜原発「安全基準に適合」 再稼働へ道
     AFP 2014.12.17
   
11.浜原発再稼働へ事実上の合格 原子力規制委「新基準
  に適合」 福井新聞 2014.12.17
   
12.高浜原発「新基準に適合」 来春以降、再稼働へ 中日新
     聞 2014.12.18
  
13.再エ抑えて原子力最大に、世界潮流に逆行する日本 ス
  マートジャパン2014.12.17

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伊庭御前と永原御前

2014年12月17日 | 滋賀百城

 

 

 伊庭御殿、永原御殿とは、別名お茶屋御殿とも呼ばれ
る、将軍専用の宿泊施設。徳川家康は天正18年(15
90)、関東に移され、江戸城を居城とするが、京都に
おいては伏見城を居城としており、慶長8年1603)
の将軍官下も伏見城で受けている。このため京・江戸間
の街道整備と宿泊施設の整備がおこなわれた。お茶屋御
殿とはこの将軍専用の宿泊施設のこと。その経路は京都
から東海道を経て、朝鮮通信使が通行した通称朝鮮人街
道を通り、彦根から中山道に入り、江戸に向かうルート
で、近江では永原、伊庭、柏原にお茶M御殿が築かれた。
また、東海道を経路とする場合のため、水口にもお茶屋
御殿が築かれた。

 伊庭御殿はJR能登川駅より南ヘ1キロほどの繖山(
きぬがさやま)山麓に位置している,寛永11年163
4)の徳川家光の上洛に伴い造営された休憩施設で、そ
の作事には小堀遠江守政一(小堀遠州)が携わっている。
また工事には幕府の大工頭中大和守があたった。中作家
に伝えられる絵図によると、撒山の山麓に構えられた御
殿は南北に長い不整形で、東側が山に接し、南側に門、
西側に石垣と二つの門が設けられていた。酉側南寄りの
門は御次ノ間、御殿に通じ、北寄りの門は御料理ノ間、
下台所に通じていた。伊庭御殿の特徴は御殿に比べて台
所が大きいことである。これは、主として食事や休憩の
ための御茶屋を示している。地元では御殿地と呼ばれ、
現在わずかに御殿西側の石垣.が残るにすぎない。

 

 一方、野洲市永原には永原御殿か築かれた,伊庭御殿
同様、朝鮮人街道の西に設けられ、朝鮮人街道との間と

は御殿道で結ばれていた。慶長6年1601に徳川家康
か宿泊し、以後将軍上洛に際しては入京前夜の宿所
伊庭
御殿跡の石垣
として寛永11年までに10回も利用され
ている。この年
の徳川家光の上洛に際しては改修がおこ
なわれている。


 この改修工事には作事奉行曽根織部正、芦浦観音寺の

もとで大工頭中井正純が行なった。
 造営当初の構造は方形の本丸の前面に方形の一の丸が
設けられる複郭構造でその姿は城郭そのもの。本丸の南
東部に御門と、南面中央に御矢倉門が構えられ、
この御
矢倉門により、二の丸と通じていた。本丸の四隅か現存
しているので、ぜひ見学されたい。御殿の一部は草津市
の芦浦観音寺へ移築され、現在書院となり、国の重要文
化財に指定されている。また、城門については野洲甫の
浄専寺の表門として移築されている。
 将軍上洛用の施設として築かれた御茶屋御殿が近江で
はこの伊庭御殿、永原御殿のほか、柏原御殿、水口御殿
と四ヵ所にわたって築かれていた。街道が交差する近江
をよく表しているといえよう。近世の城郭類似遺構とし
て、ぜひとも訪ねたい史跡である。  
                                       (中井均)

 

 

    

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【エピソード】

● 伊庭貞剛

伊庭といえば、近江国出身の明治時代の実業家、第二
代住友総理事が思いついた。「別子銅山中興の祖」と
言われ、「東の足尾、西の別子
と言われ
住友新居浜
錬所の煙害問題の解決にあたった。植林など環境復
元にも
心血を注ぎ、企業の社会的責任の先駆者とも言わ
れるが、ヴォーリズの設計した旧伊庭家住宅とも関係した
り佐々木源氏とも関わりがありそうだ。ここは「近江の思想」
として考えてみるのも面白いから残件扱いに。

  

● 奇祭「伊庭の坂下し祭」

毎年5月4日、伊庭の大浜神社・山麓の望湖神社・繖山(八
王子山)山頂の繖峰三神社の祭礼で、特に三基の神輿が繖
山頂に引き上げられ、そして下ろされる神事が注目される。
日吉大社の山王祭の神輿上げ神事にちなむとも伝えられる。
神輿の坂下しはみもので、山頂から山麓まで500メートル、
標高差170メートルを一気に下る。途中、岩場を始め難所が
多く、先導役の指揮に合わせ、担ぎ手の若衆によつて盛大に
執り行われる。

【脚注及びリンク】
-------------------------------------------------
1.佐々木六角氏およびその家臣団の城郭 近江の城50選.

2.
永原御殿跡現地説明会資料 野洲市
3.伊庭の坂下し祭 滋賀文化のススメ
4.  朝鮮人街道 Wikipedia 
5.  第2回東近江の歴史散歩への誘い~亀塚古墳 youtube   
6. 伊庭御殿 - お城へ行こう!   
-------------------------------------------------   

 


多喜山城

2014年12月15日 | 滋賀百城

 

 

 戦国時代末期の永禄11年(1568)、近江南部
を支
配していた守護六角氏は、上洛を目指す織田信長
の前
にもろくも敗れ、居城の観音寺城を放棄して、伊
賀国や
甲賀郡に逼塞した。
 しかし、六角氏は、元亀.元年(1570)5月に
なると、
足利義昭の呼びかけに応じて、信長に服属し
つつあっ
た湘南平野や湖東平野をうかがうようになり、
反織田
信長勢力網の一翼を担うようになる。

 その頃、織田信長は、上永原城(野洲市)に家臣の
佐久間信盛を、青地城(草津市)に在地勢力の青地氏
を配置していた。しかし、六角氏が野洲川づたいに西
上し、石部口(湖南市)に拠点を作って織田方への圧
力を
高めると、六角氏に呼応した湖南の一向一揆とも
対立し、野洲川流域の、浮気城・守山城・金森(守山
市)などで戦いを繰り広げていった,


 六角氏・湘南の一向一揆と織田信長との対立で、甲
の山峡から湘南平野に抜ける野洲川流域は、さなが
ら両
勢力の「境目」の様相を見せた,この元亀の争乱
に際し
織田方が築いたと考えら紅ているのが、多喜山
城である。

 多喜山城が位置する日向山は、集落からの比高が
107メートルほどであり、決して高い山とはいえな
が、尾根は細く、丘腹は急斜面であり、登山用の石段が
なければ、歩くのにはつらい地形である、
 山頂は、木々が開かれ、ちょっとした公園になって
る。周囲への眺望はすこぶる良好で、合戦の舞台と
なっ
た野洲川はもちろんのこと、山麓を通る東海道石
部目
まで視野に治めることができ、対六角氏戦略を意
識して
築城されたことを彷彿とさせる。


 山頂に残る遺構は、南北30×東西50メートルの
主郭を中心に、西側尾根に三段々の曲輪を付属させた
連郭式山城である,城の規模は、全体でも東西150
×南北50メートルと極めて小さいが、土塁に囲まれ
た主郭には大石を使った石垣や、直角に曲がった土塁、
中央を穴蔵のように掘りくぼめた櫓台などが現存する。
 遺構の中で、最も注目されるのは、東と西に作られ
た虎口である。いずれも、土塁を喰い違いにすること
でつくられた入り口を、左に折れて主郭に入る構造で
あり、一枡形虎口」に良く似た形態となる同時期に織
田方の教典城郭の1つとして機能した宇佐山城(大津
市)も、同じ形態の虎口を持っている。
「枡形虎口」とは、織豊政権や徳川政権下で発達した
虎口形態の1つである。その構造は、2つの城門(一
の門、二の門)にはさまれた所が、方形の空間となっ
ており、一の門を入って、一の門に至る際に、左また
はもに直角に析れて城内に入るものである。その防御
方法とは、城内側の兵Lが、一の門を破った敵兵を枡
形の空間に誘導して、一の門の突破に手間取っている
敵兵めがけて、空間内部を取り囲むように攻撃するも
のである,



 しかし、多良山城の虎口は、左に折れた先が、空問と
言うよりも城道と同じ幅しかないため、空間が形成され
るよりも前の段階にあたると考えられる。
 多喜山城や宇佐山城の虎口は、織豊系城郭の虎口編年
の標識遺構となっているので、虎口の変遷を知る上で、
一度は訪れて見たい遺構である。

 ところで、織田信長に対抗した六角氏は、元亀争乱で
どのような砦を築いたのであろうか。六角氏が一時期に
拠点を置いた石部口に程近い、柑仔袋(湖南市)の東丸
岡城・丸岡城は在地勢力の青木氏が築いた本拠地とされ
る,しかし、両城は片木氏の本拠地からやや離れる上に、
野洲川左岸は、元亀争乱で六角氏の主力として戦った三
雲氏の三雲城から、柑子袋の間は、在地勢力の山城や丘
城が分布しない地域である『このため、在地勢力が築城
した場合でも、その城郭の配置には六角氏の戦略が反映
されていた可能性が高い。



 東丸岡・丸岡城の虎口の構造を見ると、主郭から空堀
の対岸を土橋で渡った先に、出撃口を守るように馬出状
の施設を設けている。丸岡城は、土塁を直角に複数回に
折り曲げて、主郭に入る道を作っている。近江南部は、
単純な虎口か多い地域であるが、両城には防御性の高い
虎口が用いられており、六角方の城の中でも重要視され
たことがうかがえる。しかし、虎□の基本的な形態は、
平人虎口であるため、多喜山城に比べると、敵兵の侵入
を阻害する力は弱いと思われる。

 元亀元年六月、小競り合いを繰り返していた織田信長
方の佐久間信盛と六角氏は、野洲川原で激突した。戦地
の詳しい場所はわかっていないが、敗れた六角氏は昔日
の力を失い、歴史のλ舞台から姿を消しはじめていく,
それは、野洲川で見せた.両勢力の築城技術のうち、織
田方の技術が生き残り、発展することを約束した瞬間で
もあった。      

                   (藤岡姓礼)

                  

   

 この図をクリック 

 

 

【エピソード】

 

 

【脚注及びリンク】
-------------------------------------------------
1.佐々木六角氏およびその家臣団の城郭 近江の城50選.

2.
日向山(多喜山城跡) 滋賀県観光情報
3.六角氏式目 Wikipedia
4.  2012年10月例会のご報告 近江 多喜山城・三雲城・丸
  岡城・東丸岡城 

5.  石室の規模が最大規模の日向山古墳   
6.  安井宗運が見た戦国時代の滝山城   
-------------------------------------------------   

 

 


星ヶ崎城

2014年12月14日 | 滋賀百城

 

 

 

 星ケ崎城は蒲生・野洲・甲賀Ξ郡の郡境に近い鏡山か
ら北へ伸びる尾根トに位置する。城のある地点は現在の
竜王町・野洲市の境界でもあり、蒲生郡と野洲郡の郡境
に該当。城の北側直下の山麓には、向いに位置する浦山
との間を中山道が走っており、いわば切通し状態で、
は直下の中山道を牽制するのに絶好の地点に所在する
承などによると、築城者は竜王町側の在地土
る鏡氏とさ
れるが、定かではない。
城の記録についても少なく、近
世の軍記に散見されるのみである。「江侍伝聞録』や「
永原軍談」などによると、永禄九年(1566)に起き
た観音寺騒動により、六角氏の家臣たちは六角氏に対し、
各地で叛旗を翻した。



六角氏の有力な家臣であった野洲郡の永原氏も永原城や
「篠原上の城」に立て籠もったという。これに対し、六
角承禎は星ケ崎城に入り、永原氏と対峙したとされる。

 山麓から城への登り道は、野洲心太篠原出町からと、
竜王町鏡からの二通りがある。いずれからの登り道でも
中腹の尾根で合流する,さらに尾根筋の山道を直登して
二度目の頂上が城域である。
 城の構造は、まず山頂部が主郭とみられ、西側と南側
の切岸には高さ2メートルを越える石垣が構築されてい
る,東側の切岸にも部分的に石垣が残存しており、本来
は北側の切岸にも石垣が築かれていたと思われる。主郭
の南側には、開口部らしき石の配列があり、直進して入
る平入りの虎口が想定される。

 主郭の北側の尾根は、削平はされているものの、自然
地形に近い状態であった,また、主郭東側の尾根もほと
んど自然地形のままであった。主郭の南側では、自然地
形の尾根にしたがって曲輪があり、一部に石垣が認めら
れた。尾根続きの南西側は自然地形のままで、さらに進
むと跳出へと至る。



 星ケ崎城の特徴に先述の石垣が挙げられる。使用され
ている石材は、城の周囲に露呈している岩盤から調達し
たとみられる。石材の大きさは外側に露出した面で、縦
およそ40~70センチ、横およそ80~120センチ
の横長の自然石あるいは割り石が用いられ、個々の石材
を横置きにして一段ごとにいわば層をなして積み上げて
いく整層積みによって構築されて
いる。積み上げに際しては石材の平らな.曲を表面に出
しており、石材と石材のすき間にも小型の石が詰め込ま
れ、全体として表面が平らで丁寧な仕上がりとなってい
る『時期的には戦国期の構築とみられ、観音寺城の石垣
や鏡山の尾根続きで存在する古城山城・小堤城山城の石
垣などと比較してみるのも興味深い。

  さて、近世に編纂されたの軍記物の中で、六角氏が使用
した記述のある当城であるが、主郭部における石垣の構築
以外は目立った防御施設がみられないことも特徴のひとつ
である,特に北西側および南西側の尾根続きには、堀切な
どの防御施設はなく、尾根筋を伝った侵入や移動が容易で
あり、仮に北西側の山頂が敵に奪われた場合は、城の防御
としては致命的となる.このため、当城は長期的な龍城戦に
は不向きであったとみられる,

 ところで、星ケ崎城のある.帯は小字で、弥勒寺の地名が
残っている。また、中世には竜王町側山麓には西先方、野
洲市側山麓には正法寺があったとされ、野洲市側正法寺跡
の付近の山沿いからは五輪塔の一部が多く出土している。
防御的な遺構があまり認められない星ケ崎城も本来はこの
ような中欧寺院の境内の一部であった可能性もある.、

                            (福永清治)

 

   



 

【エピソード】

会員皆様

年の瀬も慌ただしく迫りましたが、例年ですと新年会の
ご案内となりますところ、誠に申し訳ございませんが、
喪中につき中止させて頂きます。なお、近況報告などご
さいましたなら平素と変わりなくご連絡いただければ幸
甚の次第です。

                     幹事敬白
                     

  

【脚注及びリンク】
-------------------------------------------------
1.佐々木六角氏およびその家臣団の城郭 近江の城50選.

2.
JR篠原駅から鏡山へ
3.六角氏式目 Wikipedia
4.  歴史群像 織田信長と元亀争乱 谷口克広
5.  近江の城山:星ヶ峰 - 山聲     
-------------------------------------------------