大津城

2014年02月27日 | 滋賀百城

 

天正10年(1582)に起こった本能寺の変の後、そ
の実権を握った羽柴秀吉は、清洲会議で決められた所領
配分を自ら守るため、近江の地から去り所領を山城とし
た上で、その居城として山崎城を築き始めていた。近江
では明智秀満によって焼かれた坂本城とその所領を丹羽
長秀に与えられ、焼失した天守等城の修復を行っていた。
そんななか、秀吉は天正11年(1583)4月に、宿
敵柴田勝家を賤ケ岳の合戦で打ち破った。そして翌5月、
即座に近江の知行割りを代えて、坂本城には杉原家次を
配置。8月には瀬田城に浅野長吉を配置した。しかし、
12月に家次はすぐに明智の旧領相知山城に領地替えに
なり、代わって浅野長吉があわただしく坂本城主に着い
た。秀吉はこの地から近江の支配を組み立てようと考え
ていたが、京への街道を山中越えから逢坂越えに代えて
重点を置いたため、その要となっていた坂本城を廃し、
新たな城造りを始めることにしたのである。これが秀吉
天下城のひとつとなる大津城の築城である。

記録ではいつから築城が始められたかは明確ではなく、
天正14年が定説となっている。秀吉の行動からみて天
正15年(1587)には開始されていたと考えられる。
その後、長吉は天正17年(1589)に小浜城に移封
になり、完成した城へは代わって水口城から増田長盛が
入封した。さらに、天正19年(1591)に増田に代
わり新庄直頼が入封する。文禄4年(1595)に新庄
が高槻城へ転封となると、廃城となった近江ハ幡山城か
ら京極高次が入城して城を改築した。慶長年(1598)、
近畿地方を襲った大地震で大津城は大きな損害を受けた。
その修復もままならない慶長5年(1600)、関ヶ原
の戦いの前哨戦ともいうべき大津城攻めにより、龍城戦
を行っていたが、城がすり鉢状の地形の底にあったため、
長等山からの大砲による攻撃で城は壊滅。

【大津城の戦い】

豊臣秀吉の死後、天下人の座を狙う徳川家康と、豊臣氏
擁護
の立場から家康と対立する石田三成ら反家康派の対
立は、慶長5
年の会津征伐を契機として表面化する。三
成は家康が会津攻めに赴いたことを好機として、大谷吉
継や毛利輝元ら反家康派の諸大名を糾合して挙兵した。
そして、家康が畿内を留守にしている隙をついて伏見城
を落とし、次いで北陸や伊勢方面の平定に乗り出してい
た。

北陸方面の平定には、越前敦賀の大名である大谷吉継が
担当することとなった。そして、この北陸方面軍の一員
として、近江大津城の城主・京極高次が加わっていた。
ところが高次は、吉継が北陸から美濃へと転進する最中
に突如東軍に寝返り、手勢3000名を率いて大津城に籠城
し、防備を固め始めた。この出来事に大坂城の淀殿は驚
き、城中にあった高次正室の初(常高院、淀殿の妹)に
使者を遣わして停戦・降伏を求めるが、大津側は断固と
して拒否した。

これに対して西軍側は、高次の裏切りに対する報復とし
て、毛利元康を大将とし、それに立花宗茂、小早川秀包、
筑紫広門ら九州方面の諸大名の軍勢を中心とした総勢1
万5千人の軍勢をもって、慶長5年9月7日より大津城
に対して包囲攻撃を開始した。しかし高次は城を死守し、
容易に城攻めは捗らなかった捗らなかった。中でも赤尾
伊豆守・山田大炊の活躍はめざましく、精兵500を率い
て城外の大軍へ討って出て、存分に暴れ回ったという。
攻めあぐねた寄せ手は、13日には大砲を城内に撃ち込
んだ。砲弾は天守にも命中、城内は大混乱となる。高次
も必死に防戦するが、ここに立花勢の先鋒大将・立花吉
右衛門が一隊を率いて城壁に取り付いた。高次をはじめ
とする京極勢は奮戦したが力尽き、9月15日に降伏し
て大津城が開城する。

家康軍に摂取されてからは、城には戸田一西が入城。し
かし、守るに難しい大津城は、廃城とされ徳川幕府は新
たに膳所城を築いて大津城の建物を移転する。移転後は
大津は天領となり、物資の集配
の拠点として蔵が建ち並
ぶ関津として発展し現在に至る。このように、大津城は
数年
おきに城主が代わるというめまぐるしいなかで、活
躍してき
た城である。歴史的には重要な位置を占めてい
るにもかか
わらず、戦乱にも巻き込まれており記録も少
ないところから、
築城や城の構造に関する様子がまった
くわからない



城は現在、県庁所在地である大津市浜大津の市街中心部
となっており、近年の市街化による、浜大津港港湾施設・京
阪鉄追浜大津駅、道路やビル建設による破壊が激しく、歩
道橋下に設けられた「大津城」の石碑がある。地形も町名も
代わり、復元の手がかりはないという。これまで推定の縄張
り図が提示されているが根拠はない。ただし、近年、大津市
教育委員会により進められた発掘調査で成果が上がってい
る。そこでは、本丸のものと考えられる礎石建物や京極高次
段階のものと考えられる金箔桐紋瓦、本丸の石垣などが発
見され、本丸の位置が明確になりつつある。

    

【エピソード】 

 
 

 

【脚注およびリンク】
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  1. 大津城跡 滋賀県観光情報
  2. 大津城跡 びわ湖大津観光協会
  3. 大津城跡 大津市歴史博物館
  4. 幻の大津城、成安造形大学
  5. 滋賀県観光情報「戦国の舞台 近江を歩く 大
    津城コース」
  6. 第9回 大津城の復元、大津市歴史博物館
  7. 京極高次、Wikipedia
  8. 戸田一西、Wikipedia
  9. 赤尾伊豆守、Wikipedia
  10. 末次元康、Wikipedia
  11. 立花 宗茂、Wikipedia
  12. 毛利秀包 Wikipedia
  13. 筑紫 広門 Wikipedia
  14. 大津市膳所城遺跡の発掘調査、2012.7.17
  15. 京極氏遺跡群、 滋賀県
  16. 大津市における歴史的事象について、02.01.08
  17. 天下動かした大津の城 京阪電車にラッピング  

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坂本城

2014年02月21日 | 滋賀百城

 

 

 

 足利義昭を奉じて京上洛を果たした織田俗長であった
が、反俗長勢力は近江を中心にして次第に大きなものに
なりつつあった。その先方は義弟の浅井長政の裏切りで
あった。元亀元年(1570)六月、信長は浅井・朝井
軍を姉川の合戦で迎え打ち勝利したが、反対勢力はその
後も抵抗を続けた。湖西と京を結ぶ新道を開きその守り
として築いた宇佐山城も攻められ、つわものの森三兄弟
の父森可成もここで戦死するくらいの壮絶な戦いであっ
た。この戦いで中心的役割を果たしていたのが比叡山延
暦寺である。俗長は比叡山に中立と開城を呼び掛け、従
わなければ全山焼き討ちすると呼びかけた。一旦は正親
町天皇の命により和睦したかに見えたが決裂。元亀二年
(1571)、信長は明智光秀を総大将として延暦寺攻
略を命じた。明智は門前町坂本を焼き払い、ここから比
叡山に逃げた者を追い打ちし焼き討ちした。焼き討ちは
凄惨を極め、堂宇はすべて焼き払われたと伝えられてい
る。ただし、近年の発掘調査では焼失した場所が記録ほ
ど発見されていない。

   坂本城跡コース

 戦後、信長は光秀の功を認め志賀郡五万石を与えた。
そして、新たに坂本城の築城を命じた。『兼見解記』に
よると、元亀三年(1572)十二月二十四日の項に「
城中の天主作事以下、悉く見られる也」とあり、天正十
年(1582)に小天守に於いて茶の湯が開かれている
ことからも、元亀段階で天主と小天守が建てられていた
ことがわかっている。最古級の天主であり、坂本城が城
郭史上重要な城郭であることがわかる。しかし、その姿
形は記録にはまったく残っていず復原は不可能である。
天正十年(1582)、光秀は主君信長を本能寺で討っ
た。その後、安土城に入城するが、甥の明智秀満に城を
託し山崎の合戦に向かう。六月十三日、山崎合戦で敗れ
た光秀が小栗栖の森で命を落とした事を知った秀満は、
安土城を後にし、十四日に坂本城に帰還。十五日、天主
に火を懸け自刃した。城はこの時に灰燈している。その
後、領地は丹羽長秀に与えられ、天正十一年(1583)
から再建が始まる。しかし、天正十四年(1586)の
大津城築城にあたり破却され移転されと伝えられている。
現在その跡地は、道路ができ湖岸整備や市街化による改
変が激しく、付近は坂本城址公園として石碑や石像が建
っているが、城は影も形もない。唯一、城跡を示すもの
としては、昭和四十五年に実施された本丸跡の発掘調査
と、湖底に残る石垣だけである。この石垣は、おそら
く本丸の外石垣と考えられるものであり、石垣の基底部
や胴水を見ることが出来る。夏の渇水時にしか見ること
が出来ない。

出典:

   

 

 

 

 

 

【エピソード】 

 
 

 

   

 

【脚注およびリンク】
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  1. 戦国人物伝 森可成
  2. 坂本城コース|戦国の舞台 近江を歩く、 滋賀県観
    光情報 
  3. 近江 坂本城、近江の城郭
  4. 連続講座「近江の城郭」第4回 元亀争乱を歩
    く~坂本・穴太
  5. 坂本城址公園、びわ湖大津観光協会
  6.  

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ハマエンドウとハマゴウ

2014年02月19日 | 日誌

 

 

 

滋賀県は、県内で絶滅の危機にひんしている植物のハ
エンドウとハマゴウを守るため、琵琶湖岸の新海浜
(彦根
新海町)1.6ヘクタールを3月31日に生育地
保護区に指
定する。ハマエンドウの保護区は初めてで
ハマゴウは2
カ所目。住民による保護活動の成果で、
地域で生育を見
守る。保護区は浜辺を幅約5百メートル
にわたり指定する。ハマエンドウとハマゴウが生育す

る砂浜を守るため、建物を建てたりコンクリートで地
面を固めるなどの開発ができなくなる。ハマエンドウ
は県絶滅危惧種のつる性多年草で、赤紫から青に色が
変化する花をつける。海浜に育つ同種が内陸部で見ら
れるのは全国的にも珍しい。護岸工事などで生育地が
減り、県内での大規模群落は新海浜1カ所のみとなっ
ている。

ハマゴウは県絶滅危機増大種の低木で青紫色の花をつ
る。レジャー客による踏みつけや園芸用の採取、土
木工事
で減り、県内での大規模な生育地は新海浜とす
でに保護区
になっている佐波江浜(近江八幡市)の2
カ所しかない。新
海浜では近くに住む宇野道雄さん(
79)が15年前から周囲にロープを張ったり、他の草
を間引いてハマゴウとハマエンドウを守ってきた。3
年前からは他の住民らとボランティア団体「ネイチャ
ーズ新海浜」を結成し、22人が保護に取り組む。
県自
然環境保全課は「保護区指定は住民の保護活動なしに

はできなかった」と評価するという。県は動植物の生
育・生息地保護区を2008年以降、県内で9カ所指定し
ており、新海浜で10カ所目。


【エピソード】 

 
 

   

【脚注およびリンク】
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  1. 新海浜ハマゴウ・ハマエンドウ群落生育地保護
    区 位置図
    、滋賀県
  2. 生息・生育地保護区の指定公告く、滋賀県 
  3. 生息・生育地保護区の指定」案の公告について
  4. 水辺の植物、滋賀県
  5. ふるさと滋賀の野生動植物との共生に関する条例
  6. 第2章野生動植物の生息・生育環境の保全・再生・
    ネットワーク化を重点的に推進すべき区域
  7. 彦根湖岸に保護区指定へ 県内絶滅危機のハマエ
    ンドウ・ハマゴウ
    、2014.02.18,京都新聞

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大溝城

2014年02月18日 | 滋賀百城

 

 

 

 

大溝城は、天下統一を目指した織田信長が、甥のる信澄
(津
田七兵衛)に琵琶湖の西岸に築城させた水城である。
信澄は、『寛政重修諸家譜』によると、信長の弟勘十郎
信行(信勝)の嫡男で、幼名を坊丸七兵衛と云い、父信
行が領地横領の罪で信長に謀殺されて後、信長の家臣柴
田勝家の元で育てられ、永禄七年(1564)正月元服
し、津田姓を名のる。天正六年(1578)二月三日に
は、磯野員昌の出奔により、信長からその跡地である高
島の地を宛われて大溝城主となり、高島郡の支配権を手
中に収めた。

大溝城築城時の縄張(設計)については、妻の父上であ
る明智光秀が実施したと伝えられ、琵琶湖の内湖である
洞海(乙女ケ池)を巧みに取り入れた見事な水城を完成
させる。信澄は、織田一門衆の五番目まで地位を上げた
が、大正十年五月、織田信孝(信長の三男)の率いる四
国遠征軍の副将として大坂の住吉に着陣し、出撃待機中
の六月二目早暁、光秀が信長に対し謀反をおこし、京の
本能寺の変が勃発する。信澄は光秀の女婿ということで、
否応なく敵方にされ、信孝は丹羽長秀と謀って、六月五
日早朝、大坂城二の九千貫櫓にて信澄に攻め寄り、遂に
信澄は自害する。



JR近江高島駅を降りてすぐ東側(琵琶湖側)に公立高
島総合病院が建っている。その束手に天満城跡が所在す
る。現在、本丸天守台石垣の周辺は荒地となっているが、
本来は琵琶湖へつながる堀で囲まれている。「織田城郭
絵図面」では、本丸を囲むようにして洞海(現乙女ケ池)
が入り込み、三ヵ所の隅櫓は洞海に面している。また、
本丸を囲む侍町には、高島の戦国時代にその名を見るこ
とができる朽木氏や永田氏などの屋敷が配置されている。
また、城下町も北側に造られていたようで、本丸の北西
部に町屋を見ることができる。町名にも本町・新町・中
町などの通りが現在もあり、新庄・今市(新旭町)や南
市(安曇川町)などの名を付けた町名が残り、信澄時代
、高島郡南部から商工業にたずさわった人々を集注させ
た名残と読み取るれる。寺院についても勝安寺・妙琳寺・
大善寺は、今の地へ移築されたものである。

信澄以後、代々城主は変わり、元和五年(1719)に
伊勢上野(現三重県津市)から二万石の天溝藩主として
分部光信が迎えられ、以後、明治維新までこの地を治め
る。昭和58年、旧高島町教育委員会が大満城本丸東側
で同城の範囲確認調査を実施したところ、信長が築城し
た安土城出土の軒丸瓦と同型瓦が出土し、織田城郭群の
ひとつである証となる発見があった。また、信澄以後に
大溝城は解体され、その建築部材が水口岡山城に使用さ
れたと伝えられる。近年、水口岡山城本丸跡から先述の
同型軒丸瓦が出土し、歴史の証人として興味深い資料が
ここにひとつ加えられた。

出典:

   


【エピソード】 

 
 

  

 

【脚注およびリンク】
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  1. 大溝城趾、高島市観光情報資料
  2. 大溝城コース|戦国の舞台 近江を歩く、滋賀県観
    光情報
     
  3. 大溝城「その過去・現在・未来」 - びわ湖源流 ドット
    コム
  4. 大溝城と城主織田信澄 - びわ湖源流 ドットコム
  5. 初が嫁いだ京極家ゆかりの大溝城と城下町、高島市
  6. 大溝城フォーラムI「大溝減の歴史的変選を考え
    る」2010.01.30

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佐和山城

2014年02月17日 | 滋賀百城

 




 

彦根市の北東、特別史跡彦根城跡から東に約2㎞離れ
た位置に台形を
なす佐和山がそびえる。佐和山の標高
は232.9 m、もともとは鈴
鹿山系と連続していた尾根
が沖積作用によって埋め残されたチャートを
中心とす
る層で構成されており、風化して層状に剥離しやすい
山。
江戸時代以前の佐和山の周辺景観を描いた絵図と
して、「彦根古図」
がある。中央に彦根城築城以前に
彦根寺が鎮座した彦根山を描き、
芹川が分流して琵琶
湖に直接注ぐ流れと北東の松原内湖に注ぐ流れが描

れている。彦根山の南西から北東にかけては「淵」や
「池」などの
描写が見られ、芹川によって三角州が形
成されて、湿地が広がっていた
様子が観察できる。こ
ういった周辺環境は、江戸時代に井伊家が彦根
に入封
し、大規模な城下町を建設する際に埋め立てられ、現
在の景観に
変化した。周辺の環境としてもう1つの特
徴は交通網の存在
。東山麓に東山道が南北に走り、西
山麓は松原内湖に面し、港が置
かれていた。このよう
に佐和山城は、陸上交通の上でも、湖上交通
の上でも
非常に重要な位置に存在していた。この佐和山の山頂
部分の
本丸を中心に佐和山城は築城され、発達してい
きた。

さて、佐和山城は古くから「佐和山を制するものは近
江を制する」などと言われてきた。「三
成に過ぎたる
城」と俗謡にも謡われ、佐和山城と言えば石田三成の
城というイメージが強いのだが、その城史は鎌倉時代
にまで遡ることができる。『近江本間覆』(おうみこ
まざらえ)には「佐々木氏十代定綱の六男佐保六郎時
綱元祖也」と記され、建久年間に佐保時綱が佐和山の
麓に屋敷を構えたことが始まりとされる。その後、近
江では江南の六角氏、江北の京極氏が対立抗争を繰り
返し、南北の境目となった佐和山城は常に争奪の的と
なった。江北では京極氏に代わり浅井氏が台頭してく
ると、時代は織田信長という寵児をもってこの佐和山
城を歴史の舞台に押し出してくる。浅井方磯野員昌は、
信長の回二里四方に砦を築き」という四方固めの佐和
山攻めに八ケ月という長期の篭城戦を展開した。結果
的に信長に降伏し、城を明け渡すことになるのだが、
信長をもってしても簡単には落ち
なかった城であること
をこの戦いが証明してくれる。



こうして、佐和山城を手中に収め、近江を制した信長
は、佐和山城を近江での最初の本拠地とし、安土城築
城に取り掛かる。『信長公記』に記されている多くの
佐和山城での伍長の日々は、この地がどれはどの要衝
あったかを語ってくれる。信長が本能寺で討たれ、
天下が
豊臣秀吉に移ると佐和山城も秀吉配下の城とな
る。そして、
この佐和山城が短期間でありながらも歴
史上に一番名前を
登場させることになる石田三成が城
主の時代を迎える。三成は城主になるとすぐにも「佐
和山惣構」の普請に取り掛かっている。関ケ原合戦後、
佐和山城に入部した井伊家の七代藩主・直惟の時代(
1714~1734)になってようやく行われた佐和山城とそ
周辺の聞き取り調査(『古城御山往昔咄聞集書』に
ると、「石田治郎少輔殿城郭天守普請」「本丸之上石
垣壱丈五尺其上二五重之天守」等の記載があり、三成

の時代の佐和山城は石垣造りで五重の天守があったこ
とを示唆している。それを裏付けるための遺構が近年
確認されている。昭和52年に発見されている本丸東隅
の二股の算木積みの石に対し、本丸南斜面に新たに石

垣が確認された。また、本丸付近で採取された桐紋の
鬼瓦の部分片は、天守に葺かれていたものと推察され、
佐和山城が石田三成という豊臣政権下筆頭奉行に値す
る城であることの物的証明にもなり得る。

出典:

   


【エピソード】 


 
 

 

【脚注およびリンク】
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  1. 佐和山城、Wikipedia
  2. 佐和山城遺跡地元説明会資料
  3. 佐和山城遺跡の発掘調査成果、滋賀県教育委員会 
  4. 佐和山城遺跡現地説明会フォトレポート - ひこね街
    の駅 武櫓倶
  5. 彦根市埋蔵文化財調査報告書第44集、2011.02.11
  6. 佐和山城跡など県内8遺跡 発掘調査報告書を刊行
    2012.12.28、滋賀報知新聞
  7. 佐和山城跡-その歴史と山に残されたもの、2012.
    10.23、滋賀県教育委員会
  8. 佐和山城の遺跡(湖東)、滋賀県、2010.01.14
  9. 佐和山城の遺跡(その2)滋賀県、2011.02.09

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