古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

奈良県葛城市・北花内大塚古墳

2015-03-21 08:18:40 | Weblog
奈良県葛城市北花内の低地にあります。
近鉄御所線・新庄駅から徒歩15分くらいのところです。
宮内庁が履中天皇皇孫・飯豊皇女の陵墓「埴口丘陵ーはにくちのおかのみささぎ」 として管理しています。









全長90m、 後円部径50m・高さ?m、 前方部先端幅70m・高さ?m  の前方後円墳です。
後円部径より前方部幅が発達しています。
前方部を南西に向けています。
墳丘は近世になって神社が遷座されたため、大きく改変されています。

墳丘の周りには今も水を湛えた幅10~15m余りの盾形をした周濠があります。
さらに周濠の外側に堤があります。





円筒埴輪や朝顔形埴輪・蓋形埴輪・盾形埴輪・人物埴輪 などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
他にもコウヤマキ製の笠形木製品が出土しています。

この古墳は陵墓に指定されているため本格的な調査は行われてなく、埋葬施設やその他については不明です。
ただ宮内庁は、墳丘の護岸工事のために墳丘の裾部に沿って計12ケ所を調査しています。
その結果、後世に手を加えられていたことが判明しました。
徳川幕府が、幕末の文久2年~慶応元年(1862年~1865年)にかけて、尊王攘夷運動の高まりを受けて「文久の修陵ー全国の陵墓の大改修」を行いましたが、この古墳も例外でなく改修されたようです。
築造当時の全長は100mほどで、後円部径は現在よりやや大きく、前方部の幅は少し狭まっていたようです。

古墳時代中期・5世紀末ころの築造と推定されています。

この古墳は宮内庁が「飯豊天皇・埴口丘陵」に指定しています。
ただ現在の皇統譜に飯豊天皇の名前はありません。
第22代清寧天皇崩御の後、第23代顕宗天皇即位までの約10ケ月という短い間、天皇に代わって政務を執り行ったようです。
「日本書紀」によれば第22代清寧天皇崩御の後、臨朝秉政ーりんちょうへいせいー天皇のいない間、代って政務を執り行うーと明記されています。
平安時代の「扶桑略記」という書物には、第23代飯豊天皇として名前が挙げられているそうです。
そうなると最初の女性天皇ということになります。