古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

奈良県橿原市・見瀬丸山古墳

2011-03-12 08:17:42 | Weblog
奈良県橿原市見瀬五条大軽野の丘陵先端にあります。
近鉄吉野線・岡寺駅から徒歩3分、国道169号傍です。
後円部上段は、「畝傍陵墓参考地」として宮内庁が管理しています。

全長320m、 後円部径150m・高さ21m、 前方部幅210m・高さ15m 三段構築の前方後円墳です。
奈良県下最大の古墳で、全国でも6番目の巨大古墳です。
築造時期は6世紀後半ころと推定されていて、この時期の前方後円墳では全国最大のものです。

墳丘の周りには盾形をした周濠(空堀)があります。
葺き石は施されていなかったようです。
埴輪の配列もなされていなかったようです。

後円部にある埋葬施設は両袖型横穴式石室です。
石室は長さが28.4mあり、あの石舞台古墳(20.5m)をはるかにしのぐ全国最長のものです。
玄室の長さ8.3m、玄室の奥壁幅4.1m、羨道が20.1mもあります。
石室は18世紀末ころには開口していたようで、江戸時代何度か調査されその都度絵図が刊行されています。
石室内には、兵庫県加古川付近の波紋岩質溶結凝灰岩でつくられた刳抜式家形石棺二つが収められています。
一つは玄室入口近くの右側に、もう一つは玄室奥の奥壁にそって置かれています。
1991年5月、近くに住む会社員が石室内部の写真をコンパクトカメラで撮影、それがマスコミに公表され話題になりました。
宮内庁も驚き、あらためて内部測量等調査を行いました。
それにより、手前の石棺は6世紀後半、奥のものは7世紀初めころに造られたものと推定されました。
これにより、古墳の築造時期も7世紀初め頃との指摘もあります。
現在は石室内には入れないようになっています。

この古墳の被葬者は不明です。
明治初年の陵墓治定では、二つの石棺があることから、天武・持統天皇の合葬墓「桧隈大内陵」とされました。
しかし、明治13年(1880)、鎌倉時代に起きた天武陵盗掘の調書「阿不幾乃山陵記(あふきのさんりょうき)」が発見され、「野口王墓山古墳」が天武・持統天皇の合葬墓と判明しました。
それ以後、被葬者不明のまま「陵墓参考地」とされました。

被葬者については、かっては宣化天皇説もありましたが今はそれは消え、欽明天皇説や曽我稲目(そがのいなめ)説などが研究者の間で取り沙汰されているようです。

昭和44年5月23日、国の史跡に指定されています。
墳丘には登ることができ、まわりの景色ともどもその大きさを実感することができます。


   (陵墓参考地に指定されている後円部上段)


   (前方部奥に見える山は畝傍山です)



   (前方部から後円部を見ています)

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