群馬県伊勢崎市三和町2448の畑地に囲まれた一角にあります。
「殖蓮村17号墳」と呼ばれることもあります。
全長81m、 後円部径58m・高さ8.2m、 前方部先端幅26.1m・高さ2.5m 帆立貝形の前方後円墳です。
前方部を南に向けています。
(左側が前方部)
(右側が前方部)
( 盗掘坑かと思いましたが、どうやらアナグマ等の獣の巣のようです)
墳丘の周りには幅13~15mの馬蹄形をした周濠があります。
墳丘には葺石が施されています。
円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
大正12年と昭和30年(群馬大学史学研究室)の2回発掘調査が行われています。
後円部に3つの主体部が確認されています。
いづれも組合式箱型石棺で埋葬されていたそうです。
1基は長さ2.1m・幅0.6~0.7mの緑泥片岩製で、残る2基は凝灰岩製の長さ1.7~1.9m・幅0.3~0.5mのものだそうです。
出土品についてははっきりしていません。
昭和52年9月9日、伊勢崎市の史跡に指定されています。
古墳時代中期・5世紀後半頃の築造と推定されています。
「殖蓮村17号墳」と呼ばれることもあります。
全長81m、 後円部径58m・高さ8.2m、 前方部先端幅26.1m・高さ2.5m 帆立貝形の前方後円墳です。
前方部を南に向けています。
(左側が前方部)
(右側が前方部)
( 盗掘坑かと思いましたが、どうやらアナグマ等の獣の巣のようです)
墳丘の周りには幅13~15mの馬蹄形をした周濠があります。
墳丘には葺石が施されています。
円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
大正12年と昭和30年(群馬大学史学研究室)の2回発掘調査が行われています。
後円部に3つの主体部が確認されています。
いづれも組合式箱型石棺で埋葬されていたそうです。
1基は長さ2.1m・幅0.6~0.7mの緑泥片岩製で、残る2基は凝灰岩製の長さ1.7~1.9m・幅0.3~0.5mのものだそうです。
出土品についてははっきりしていません。
昭和52年9月9日、伊勢崎市の史跡に指定されています。
古墳時代中期・5世紀後半頃の築造と推定されています。
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